紅の歌姫(10)
ニーチェが盛り上げたお陰で客席の熱は上がったまま。そこへ技術的にも高い三回生や、プロの指導も受けている四回生が出てくるとなれば否応なく熱は収まらない。
既に有名で、しかも本家のライナックの娘であるプリシラが繊細で透明感のある歌声を響かせて万雷の拍手を受ける。発表会は例年にない盛況のうちに幕を閉じた。
「声楽科だけでこれほど粒ぞろい。もしかしたら今年は当たり年なのかもしれませんな」
総合発表会の代表が告げられる前にロビーへと休憩に出た観客が噂する。
「弦楽科や管学科の発表会も席が取れれば伺いたいですわね」
「ホアジェンともなれば、なかなかに競争率が高いですし……、え? あの方はオネスト・ヘルマン氏では?」
「ご存じではありませんでしたか。今年はあの宇宙的に有名な声楽家、ヘルマン氏を選考委員にお呼びしたそうですよ?」
事情通らしい紳士が説明する。
「非常に光栄なことですわ。ですけど、かの方の評価となると今年の子たちは大変ですわね」
「皆が緊張していたのも無理ない事でしょう?」
そんな内情はまたたく間に観客の耳から耳へと伝わっていった。
◇ ◇ ◇
「ニーチェの舞台度胸には御見それしました」
イヴォンがおどけて言う。
「これは本当に代表枠あるかもね」
「あー、そこまでだった? 歌ってたらそんなの忘れちゃってたし」
「これだもん」
個人発表を終えた生徒たちが集まっている袖ではニーチェの反応は異彩を放っている。他の子が緊張に喉がカラカラに乾く中、満腹の猫のようにゆったりとした空気になっている。実際にニーチェはもう十分満足していた。
(ちゃんと歌えて、パパの嬉しそうな顔を見れたからもうどっちでもいいし)
彼女的には早く終わらせて帰宅した後のジェイルからの褒め言葉を期待している。
「プリシラ・ライナック」
代表枠の一番は最有力候補の名前。続けても有望視されていた四回生の名前が呼ばれる。そして……。
「ニーチェ・オクトラスレイン」
「はえ?」
最後に彼女の名前が呼ばれた。
(本当に代表取れちゃったし)
ニーチェは困惑の中で友人たちに舞台上へと押し出された。
◇ ◇ ◇
「立派だったよ。自慢の娘だね」
期待に潤んだ瞳で見つめられれば、ジェイルもそうとしか答えられない。
「当たり前だし! 滅茶苦茶自慢しても良いし!」
「そうさせてもらうよ」
とはいえ自慢する相手は職場の人間が精々。彼の無謀な振る舞いに親族や友人には真っ先に縁を切られてしまっている。
「ニーチェ君」
差し出された頭を撫でていると彼女が呼ばれる。
「ん? 見たことあるけど知らない人だし。えーっと……」
「オネスト・ヘルマン氏ですね?」
「そうそう、そのオネストさん」
娘の事もあって声楽界隈も調べている。有名な声楽家の筈だ。
「テキストに載ってる人だったし」
「ご挨拶だね」
恰幅の良いヘルマン氏は苦笑している。
「でも、君の歌は素晴らしかったよ」
「おお、有名人に褒められたし」
「良かったね」
そこへ口髭の紳士がずかずかと割り込んでくる。苛立たしげに眉根を寄せてニーチェを指差してきた。
「まったくホアジェンともあろう学舎が質が落ちたものだ。うちの娘ではなく、そんな施設上がりの小娘なんぞを評価するとはな」
ユリーヤの父ホビオである。
「選考には抗議させてもらう。喜んでいられるのは今のうちだけだぞ」
「私も選考委員で彼女を推させてもらった一人。お話を伺いましょうか?」
「そうか。では良い耳医者でも紹介してやらねば……」
蒼白になったユリーヤが父親の腕を引いて止める。
「駄目です、お父様! そちらの方は人類圏に名だたる声楽家のヘルマン氏です!」
「む? そうなのか?」
体裁の良い評価が欲しいだけで、興味のない分野にはまるで通じていない人種のようだ。娘にしてみれば堪ったものではないだろう。
「では考え直していただきたい。栄えある我がライナック家の娘と、そのどこの馬の骨とも分からん娘とどちらが優れていたか」
居丈高に迫る。
「考えるまでもありませんな。彼女のほうが数段上でしたよ」
「分からんかね、ライナック姓を持つ私が訊いているのだと。このゼムナで活動したければ自ずと答えは出る筈だがね」
「変わりませんな」
ホビオの頬が引き攣る。
「分からん男だな」
「分かってないのは貴殿のほうだ。私は様々な惑星国家で仕事をいただいている。ここで評価を曲げて名を堕とせばそれも儘ならなくなるのだよ」
ヘルマンの理屈を飲み込んだホビオは言葉に詰まる。それでも捨て台詞一つを吐いて足音高く去っていった。
「困った御仁ですね」
「まったくです。貴殿の娘さんを推したのは事実ですぞ」
ヘルマン氏は姿勢を変えない。
「あたしの歌、そんなに良かった?」
「うむ。技術的にはまだまだだがね、情感の乗せ方が上手だ」
「貶されもしたし」
ニーチェは微妙な顔。
「君くらいの年代はムラっ気もある。今回だけが抜群な出来だった可能性もあるから、今度の総合発表会では安定感も見せて欲しいものだね。私は君を育ててみたいと思っている」
「ありがたいお話です。期待にはお応えしないといけないよ、ニーチェ」
「パパがそう言うならもっと頑張るし!」
彼女は片腕を上げて任せろというポーズ。できれば衣装を着たままの姿ではやめてほしかった。
(子供というのは驚くほどのスピードで成長して羽ばたいていくものなんですね)
ジェイルはそんな感慨を抱いていた。
次は第五話「さようなら、ニーチェ」




