忌子への自覚
もっと早く書けるようになりたい。
そんな今日この頃。
再会の後、アーネストと別れた俺たちは港からメインストリートに繋がる上り坂を歩いていた。
歩道端から枝を伸ばす桜の樹。薄桃色の花弁を揺らす潮風。
その様子が、ずっと都会で暮らしていた俺には新鮮に感じられた。
「いいなぁ自然って」
コンクリートに塗り固められた空間では決して味わえない感覚。
これが趣き、あるいは風情というやつだろうか。
「兄さん。この桜は人為的に植えられたものですよ。その証拠に、ほら。等間隔に生えているじゃないですか」
しみじみと呟いた俺を、おかしそうに妹――早坂朱葉がクスクスと笑う。
妹の指摘に従い確認すると、事実その通りだった。
各々の桜の樹が約5m刻みに並んでいる。偶然にしては出来すぎだろう。
「へぇ、よく気付いたな」
「ちなみにこの桜を含めて、日本で見られる桜はソメイヨシノといって、人工的に創られた品種らしいですよ」
「えぇ、自然要素の欠片もない……。っていうか、兄ちゃんの感動を粉々にするなよ」
十秒前までの趣がもはや欠片も残されていなかった。
《大自然と近代的な景観が調和した島》という触れ込みは何だったのか。
「ふふっ、ごめんなさい。ツッコミ待ちかと思いまして」
「再会して早々にボケかますほど芸人体質じゃないぞ俺は。それにボケだったとしても、今のはお粗末だろ」
「そうですね。たしかに、今のボケで笑うのはサクラくらいですよね。桜だけに!」
なんだこいつ……。
何時にも増してテンションが高い朱葉に気圧されていると、今のは自分でも寒かったと思ったのか、彼女は咳ばらいをして仕切りなおした。
「そ、それはそうと! 足の調子はどうですか、兄さん?」
「ん? ああ、悪くないよ。っていうか、むしろ足を悪くする前より調子がいいくらいだ」
足に限った話ではない。
この島に足を踏み入れるまで、鉛を流し込まれたかのような気だるさが、6年もの間ずっと身体にへばり付いていた。
船で眠っていたのも、その疲労に耐えかねて、という意図が少なからずあった。
それが今では、自身の身体がまるで羽毛のように感じている。
「50Ⅿを5秒で走りきれそうな気分だよ」
もちろん、そんなことはあり得ない。
長年ベッドにお世話になり続けた俺の身体は相応に弱っている。
俺のような痩せこけた骨男に、アスリート並みの脚力など宿っているはずがなかった。
ただ、それくらいの無茶が出来そうなほど、今は解放感に満ちているという例えだ。
そんなわけないじゃないですか、と笑われて終わりの話。
「んー。多分できますよ?」
だが、朱葉は笑わなかった。
「……できるって、何が?」
「いやだから、50Ⅿを5秒ですよ」
数秒前の自分の台詞を忘れるなんて痴呆ですか、と宣う妹の表情は至極真剣だった。
俺の妹はいつの間に、顔色一つ変えずに嘘を吐けるようになったのだろう。
あと、いつの間に口が悪くなったのだろう。
「いひゃいいひゃいッ! ちょ、痴呆って言ったのは謝りますから頬を引っ張らないでください! ……まったく、嘘だと思うなら実際に走ればいいじゃないですか」
馬鹿らしい、と言いかけたが思い直す。
朱葉の言葉の真偽はともかく、己の身体が先ほどまでと違うことは確かな事実。
だから、今現在の身体能力くらいは把握しておきたかった。
「朱葉。ちょっとタイム測ってくれ」
「ぶー。……はいはい、いいですよーだ」
DVだの虐待だのとぼやく朱葉にスマートフォンでタイムを測定してもらい、スタート位置につく。
「では、あの5つ先の桜の樹まで走ってくださいね」
「了解」
「いきますよぉ。…………3、2,1、0ッ!」
「――ッ!」
地面を足を思い切り蹴り上げた瞬間、身体の加速に思考が置き去りにされる。
相対速度によって生じた風が、垂直に髪を巻き上げる。
通り過ぎる桜の樹が、瞬く間に後方に吹き飛んでいく。
――なんだ、これは。
「兄さん、ストップです!」
朱葉の張り裂けんばかりの声に、はっと我に返り立ち止まる。
振り返ると、俺の妹の間には8本の桜の樹が並んでいた。
知らぬ間にゴールを超えていたらしい。
ポケットに入れたスマホが震える。着信主を確認すると、それは朱葉だった。
『兄さん、走りすぎです! 妹を置き去りにしてどこに行く気ですか!』
「あ、あぁ……ごめん」
『まったく。それでタイムですけど、5本目の樹の時点で2.65秒でした。樹同士の感覚が5Mくらいですので……。50Mあたり5.3秒です』
何を言われているのか分からなかった。
だって、あまりに速すぎるだろう。
少なくとも、俺のポテンシャルで出せる記録ではない。
しかし、朱葉にはそう映らなかったようだ
『んー、ちょっと遅いですね。上り坂だったことを考慮しても』
「なっ……! 嘘だろっ」
50Mの世界記録が恐らく5.5秒くらいだったはずだ。
そのタイムを上回ってなお遅いなど、もはや人の感性ではない。
『はぁ……。自覚がないようなので言っておきますが、私たちは人じゃないですよ。忌子です』
それは理解している。霊力を得た忌子が身体的に人よりも優れていることも。
けれど、まさかここまでなんて――。
『兄さん。坂の上に誰もいませんか?』
「え、……あ、ああ」
急な話題転換に戸惑うも、彼女の言葉に従い周囲を確認する。
「誰もいないよ」
『わかりました。わたしの方にも、……ええ、誰もいませんね』
そう告げるや否や、朱葉は姿勢を前方に傾ける。
『いいですか、兄さん。わたしたちは人より遥かに優れた力を持っています。そして、その力が人の常識から乖離しているならばしている程、人目に気を付けてください』
「……どうして?」
一拍の呼吸を整えた後、藍色の光を少女の瞳は灯した。
「洒落にならないからです」
その言葉はすぐ目の前で発せられていた。
遥か後方に佇んでいた少女が、文字通り瞬いた間に、手の届く距離に立っている。
「――っ」
朱葉の切り裂いた大気が強風と転じて流れ込んでくる。
引き千切られた桜の花弁が、視界を覆い尽くす。
「これで分かってもらえましたか? 忌子がどういうものか」
自らが生み出した桃色の世界で、朱葉は変わらず無邪気に微笑んでいた。
きっと、彼女にとって今の行為は驚愕に値しない程度のものなのだろう。
いや、彼女に限らないのかもしれない。
この九奈戸島で生活する忌子は、程度の差はあれ、きっと価値観が人と乖離している。
「本当に、人じゃないんだな……」
アーネストから聞いていた。理解していたつもりだった。
俺自身、化物じみた超回復を成し遂げたばかりだ。
「……なあ朱葉。初めてこの島に来て、その力を手に入れたとき。どう思った?」
それでも、俺はこの力が怖いと思う。
身体が良くなろうが足が速くなろうが、その感情は一向に消えてくれない。
「どう思ったか、ですか……。まあ、人を止めたのだからこんなものかな、と」
「……そっか。相変わらずだな、お前は」
けれど、この島で暮らすと決めた以上は慣れなければならない。この感性に。
たとえ化物に身を落とそうと、やらなければならないことがあるのだから。
「よしっ! 忌子の心構えはわかった。あとはこの島について教えてくれよ、朱葉」
「ええ、そうこなくては!」