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朝焼色の悪魔-第3部-  作者: 黒木 燐
第1章 暴露
9/49

9.メガローチ・エフェクト

「葛西! 右だ! 右に回れッ!!」

「ちょっと待て! そっちに行ったら……」

「い~から回れ! 橋壁に追い詰めるんだ」

「追い詰めるって、こいつ、飛ぶんだぞ!!」

「でゃ~じょ~ぶ、おそらくだが、こいつらはいきなり飛べにゃあって。くそ、そう言っている間にまた形勢が変わったじゃにゃあかっ! いいか、葛西、こいつはなんとしても捕獲するぞっ」

「りょぉぉかぁいっ!!」

 葛西がヤケ気味に答えた。

 

 二人は例の川でのメガローチ捕獲作戦の遂行中だった。

 今日が作戦の最終日ということもあって、ジュリアスはかなり意気込んでいた。対して葛西はいまいち引き気味だった。昨日の「足二本」がかなりショックだったらしい。それでも与えられた職務をこなすために、黙々と罠のチェックをしていた。しかし、かかっているのはほとんどゴキブリ以外の昆虫や小動物だった。昆虫はともかく小型哺乳類が罠にかかって死んでいたり虫の息だったりするのを見ると、可哀想なのと申し訳なさで、なんともいえない嫌な気分になる。葛西に元気がないのはそのためでもあった。ジュリアスは慣れているだけあって、顔色も変えずに淡々とそれらをサンプルとして採取していた。しかし、肝心のメガローチがまったく掛かっている様子が無い。3日目も昼を過ぎたのに、一向に成果の上がらないことに、ジュリアスは若干あせりの色をみせていた。

 しかし、二人が昨日罠にかかっていたメガローチを取り逃がした橋まで来ると、状況が変わった。橋台の近くに何か黒いものが見えた。ジュリアスは無言で葛西をとめた。

「なんだよ、ジュリー」

「シッ」

 ジュリアスが口の辺りに人差し指を当て、葛西にしゃべらないよう指示した。ジュリアスは続けて小さめの声で言った。防護服を着ているため、発声の調節が難しい。

「あれを見ろ、葛西。メガローチだわ。罠にかかってはいにゃぁが、なんか弱っとるようだなも。昨日きんのう逃がしたやつかもしれにゃぁぞ」

「昨日逃がしたやつなら、足が2本欠落しているはずだよ。再生能力があるならべつだけど」

「昆虫に再生能力はにゃあぞ。いくら変異体といっても昆虫である限りそれはにゃーと思うて。捕獲器の粘着剤には殺虫成分も含まれとるからな。かなり弱っとるようだわ、ありゃあ」

「だとしたら、捕獲のチャンスだね」

「ああ。じゃあ葛西、こそっと近寄ってみよまい」

 二人は足音を忍ばせて近づいた。それでもやはり敵は気配に感づいたらしい。ゆっくりと二人の方に身体をむけ、臨戦態勢に入ったようだった。ジュリアスは葛西に小声で言った。

「やはり気付かれたな。これから一気にカタをつけよう。走るぞ、それっ!」

 二人は目標に向けて駆け出した。

「案の定、昨日きんのうまでの俊敏さはあーせんな。こりゃー追い詰める必要はなさそうだわ。このまま網で捕獲しよまい。葛西はフォローを頼む」

 ジュリアスはそう言うや、すぐに網を構えターゲットに対峙した。葛西はソレを中心にしてジュリアスと反対側に立った。

(フォローってどうすんだよ……)

 葛西は、背筋がざわざわするような嫌悪感を感じながら思った。その時、そいつが翅を広げぶぅんという羽音を響かせた。

「気をつけろ! 飛ぶぞっ!!」

 ジュリアスが言うか言わないかのうちに、そいつはふわっと飛立った。そして、ぶんという羽音を響かせながら、こともあろうに葛西の方に向かってきた。

「葛西ッ!!」

「うわぁああ~っ!」

 ジュリアスが葛西を呼ぶ声と、葛西の悲鳴が同時に響いた。

 ジュリアスは、とんでもないものを見た。メガローチが葛西の顔にべったりと張り付いたのだ。

「きゃーーーーー!」

 葛西が情けない悲鳴を上げた。

「嫌~~~っ! ジュリー、早く捕獲してくれぇ!!」

「葛西、うろたえるな、男だろ? そのままじっとしてろ、ええな!」

「蟲の腹が目の前にっ!! 気門が、気門がぁ~~~」

「うるさいやつだな。おれたちはサラトガ(NBC防護服)を着込んどるんだわ。感染りゃあせんがね」

「視覚的にキモいんだよ、腹の気門がっ! いいからさっさとしてくれぇ!!」

 葛西の声は裏返っていた。ジュリアスが肩をすくめて言った。

「おみゃーさんが自分で取ってもええんだが」

「無理ッ!」

 葛西は全力で否定した。ジュリアスはため息をついて葛西の方にそっと近づき捕虫網を上段に構えた。そしてそのまま葛西の頭目がけて振り下ろした。だが、僅差で彼奴は葛西の顔面に見切りをつけ飛立った。ジュリアスはあきれ返ってつぶやいた。

「ちくしょう、弱っとるくせに何てやつだ」

「ジュリー、もういいから網を取ってくんない?」

 葛西が網を被ったまま、仏頂面で言った。

 件の蟲は、ジュリアスの網は逃れたものの、すぐにフラフラと地面に着地した。ジュリアスの言うように相当弱っているのは確からしい。すかさずジュリアスは網を持って突撃した。蟲は逃げ出したが、さっきの飛翔が最後の力だったらしい。大きな身体でヨロヨロとしながらそれでも必死で逃げていた。その姿は、葛西にはなんとなく憐れに思えたが、ジュリアスは構わず網を振り下ろした。

「メガローチ、ゲットだぜ!」

 ジュリアスが右手の親指を立て、ニッと笑って言った。それを見て葛西は深いため息をついてしゃがみこんだ。

「葛西、気を緩めるのはまんだ早いぞ。これからコイツを昨日きんのうのヤツかどうか確認した後、ケースに入れてから専用ボックスに入れるんだ」

 と、ジュリアスが捕虫網の中身を確認しながら言った。

「はいはい。もうひと頑張りしましょうかねえ」

 そう言いながら渋々葛西が立ち上がると、ジュリアスが尋ねた。

「さっき、顔に張り付いた時に足を確認できたか?」

「そんな余裕ねえよっ! ってか、思い出させんなっ!!」

 葛西は泣きそうな顔で言った。

 捕まえたメガローチはやはり足が2本欠落しており、予想通り昨日逃がした個体だった。いったん逃げたものの殺虫成分が回り、住処に帰ろうとした途中に動けなくなったのかもしれない。ようやく捕らえたメガローチをバイオハザードマークのついたボックスに収容し、葛西とジュリアスの任務は終わった。

「1528(ヒトゴォニィハチ)任務完了。葛西、頑張ったな」

「ふわぁ~。くそ暑いわ気持ち悪いわで、もぉ……」

 葛西はもう一度ため息をつきぼやきをいれると、河川敷にどかっと座り込んだ。

「疲れたっ!!」

「おい、葛西。衛生面からは感心出来にゃあぞ」

「防護服着てるんだから、大丈夫なんだろ?」

「それもそうだな。おれも疲れたからそうしよまい」

 ジュリアスは葛西の横に座ると改めて言った。

「葛西、ひょっとしておみゃあさん、昆虫がきりゃぁなのか?」

「うん、実は昆虫に限らず、節足類は全般的に苦手なんだ。妙に機械的だし、そのくせ気持ち悪いし」

「そうか。何かそんな感じだったからな」

「いいな、ジュリーは。平気なんだもんな」

「ところがさ、実は、おれもおみゃあさんと同じなんだわ。仕事なんで仕方なく慣れたけどな」

「マジかよ?」

「マジだがや」

「よく自分から捕獲を言い出したな」

「アレックスにやらせる訳にはいかにゃあだろう?」

「まあ、そうだけど」

「ほだから、仕事以外では関わりたくにゃあんだ」

「そっか。それで、あんなに作業が事務的だったんだ。好きならもっと楽しそうにやるよね……」

 そう言うと、葛西はくくくっと笑った。

「何が可笑しいのかね、葛西」

「だって、虫嫌いが二人、よりによって最大級のゴッキーと三日間悪戦苦闘してたんだよ」

 葛西はそう言うと、今度は盛大にあははははと笑い出した。

「しかも、テレビカメラにまで追われてさあ」

「そう言やあそうだな。ははは……」

 ジュリアスも釣られて笑い出した。二人はしばらくの間、梅雨空の下、仲良く笑っていた。

 

 由利子は、ギルフォードの研究室の方に来ていた。警察のデータベースを利用しての容疑者探しはいったん中断された。

 昨日駅で死んだ男の写真をマル暴、すなわち、松樹の古巣である組織犯罪対策部の捜査四課に見せ、確認を急いだ。その結果、広域指定暴力団D会の構成員であることがわかったからだ。

「事実上は、『だった』らしいですけどね。組の方では面子が立たないのか認めたがらないようですが」

 ようやく感対センターでのぎうぎうから解放されて、自分の研究室に戻ったギルフォードは、紗弥の淹れたミルクティーで一服しながら言った。

「どういうこと?」

 由利子が真っ先に尋ねた。彼女は自分が深く関わった事件だけに、誰よりも真相が知りたいと思っていた。

「半年ほど前に四課の刑事さんにね、こっそり言ってきたらしいんですよ。自分らは素晴らしい人に出会ったから、堅気になってやり直したいって」

「まあ、でも、そう簡単に足は洗えないんじゃありませんの?」

 紗弥が、パソコンのキーボードを打つ手を止めて聞いた。

「もちろんそうです。とても簡単に抜けられる組織ではないでしょう。ところが3ヶ月ほど前に、二人とも忽然と姿を消したらしいんです。まるで、神隠しに遭ったみたいに」

「二人ともって、ひょっとして?」

「そうです、ユリコ。おそらくもう一人も、ユリコのバッグを狙った片割れですよ。名前は……えっと、『自爆』したのがタムラ・コスモ(多村越百)、もう一人が……そうそうキョウからそいつの写真を預かってきました。ユリコに確認して欲しいということです」

 と言いながら、ギルフォードはジーパンのポケットから手帳を出し、中から一枚の写真を取り出すと由利子に渡した。

「これが、もう一人の男、ワタナベ・タユヤ(渡部太夫也)の写真です」

 由利子は写真を受け取ると、一瞥するなり言った。

「間違いないわ。この男よ」

「やはりそうでしたか」

 と、ギルフォード頷きながら言った。

「二人とも見事なドキュンネームで……。いえ、それはともかく、ということは……」

 由利子が言った。

「あの引ったくり事件の時は、二人とも『神隠し』の最中だったってことよね」

「そうなりますね」

「それで、彼らが出会った『素晴らしい人』っていうのは?」

「それが、断固として言わなかったらしいです。その刑事さんが言うには、多分宗教がらみじゃないかと」

「宗教? チンピラヤクザが宗教にねえ……」

 由利子が腕を組みながら、小首をかしげて言った。

「何かとアコギな商売です。宗教に逃避する人が居ても不思議じゃないでしょう。まあ、僕にも暴力団にあこがれる人の気持ちは理解できませんけど」

 そう言いつつ、ギルフォードは肩をすくめた。

「それにしても……」由利子が眉間にやや皺を寄せながら言った。「なんで、そんな素晴らしい人とやらに感化されたヤツがひったくり事件を起こし、さらには駅で『自爆』テロを起こすわけ?」

「たしかに、ロクでもなさそうですね」

 と、ギルフォードが相槌を打った。二人を見ながら紗弥が口を挟んだ。

「どっちにしても、想像の域を越えていませんわね」

「じゃあ、せっかく進展したって思ったのに、またどん詰まったってこと?」

 由利子が不満げに言うと、ギルフォードがフォローした。

「いえ、少しだけど前進しましたよ。こうやって少しずつでもピースを集めていけば、いずれ必ずなにかの形が見えてくるはずです」

「気の長い話……ですねえ」

「捜査と言うのは、地道に根気良くが基本ですよ。いては事を仕損じます」

「まあ、そうですが」

「ところで、ユリコ、昨日の今日ですが、世間ではなにか変化はありませんか?」

「そうですねえ……」

 ギルフォードに急に聞かれて由利子は少し考え込んだが、すぐに答えた。

「ここに来るまでの道のりで思ったんですけど、なんか、梅雨空の下で、妙に掃除をしている家が多かったですね」

「そうですか。やはり、あの昨日の放送はショッキングだったんですね」

「あ、ガイアテレビのメガローチ写真ですか」

 由利子がぽんと手を叩いて言った。ギルフォードが嫌そうに苦笑いをすると言った。

「ひょっとしたら今週末は、大晦日のすす払いみたいになるかもしれませんね」

「九州各地で大掃除ですか。とんだメガローチ効果ですね」

「なんかバタフライ・エフェクト(効果)みたいですね。ワシントンで竜巻でもおきそうです」

「カオスですよねえ・・。」

 由利子が憂鬱そうに言った。ギルフォードは、そんな由利子を見てにやりと笑って言った。

「あのねユリコ、途中で気がついて敬語に直さなくてもいいんですよ。ジュンに話すように普通にお話ししてもらっていいですから」

「あは、あははは……」

(気付いていたか……)

 そう思いながら、由利子は笑って誤魔化した。

 

 華恵は五十鈴のベッドの横で心配そうに座っていた。五十鈴は高柳から夫の死後の措置についての詳細を聞き、ショックに次ぐショックでついに倒れてしまったのだ。

 五十鈴が身じろぎし、ふっと目を開けて華恵を見た。

「窪田さん……・」

「あ、川崎さん、起きた?」

 華恵が喜んで五十鈴の手を握ろうとしたが、五十鈴はそれを止めた。

「待って、窪田さん。先生が言われたでしょ。発症してないからリスクは低いけど、万一を考えてあまりお互いに触れないほうがいいって……」

「川崎さん?」

「心配かけてごめんなさいね」

 五十鈴は華恵の方を向いて言った。

「ううん、気にせんでください。辛いのはお互い様だし」

「窪田さんは知っていたんですよね……。この病気で亡くなった人がどうなるか」

「ええまあ……。それを聞いたときは流石にショックで雷に打たれたような気持ちになりましたが、でも、今は全然実感がわかないんですよ。昨日のことなのに」

「相当お辛いんですね。きっと」

「そうでしょうか……」

「そうですよ……」

「黙っていてごめんなさいね。でも、こういうことを口にするのも不安が募るばかりでよくないと思って」

「いいえ、私こそ、そんなお気持ちを汲みもせずに、やたら話しかけてから……」

「いえ、おかげで気が紛れました。昨日の状態でこんな部屋にたった一人でいたら、きっと神経がまいっていましたよ」

「そう言ってくださると嬉しいです……」

「川崎さん、なんかまだキツそうですよ。もう少し眠られた方がいいですよ」

「ええ、そうですね。でも、昼間寝すぎると、夜寝られなくなるんじゃないかって」

「大丈夫ですよ。私、よくお昼寝しますが、けっこう夜も眠いですよ」

 華恵は笑いながら言って、五十鈴を安心させようとした。

「そうですか。じゃあ、もう少し眠らせてもらいますね」

 五十鈴はそう言った後、静かに目を瞑った。相当疲れていたのか、五十鈴はすぐに眠りに入った。同居人が静かに寝息を立て始めたのを見ると、華恵は自分も眠気を感じてふわあっとあくびをした。

「じゃ、私もお付き合いして少し眠ることにしましょうか」

 華恵はそう言いながらベッドに横になった。

 

 GFこと緑原蔵人は、身動き出来ずにいた。

 彼も日曜に緊急放送を聞いたのだが、持ち前の脳天気さから特に焦って対策をするようなことはしなかった。しかし、周りがゴキブリ対策をどんどんはじめ、さらに、昨日のNS10で放映された映像を見て流石に不安になった彼は、重い腰を上げて薬局に向かった。しかし、時は遅く、どこの薬局もゴキブリ対策の目ぼしいものはほとんど売り切れており、コンビニや量販店も同じことだった。仕方なく、適当に肌用の虫除けスプレーを買って帰った。蚊避けだが無いよりはマシかも知れない。あとは、押入の中に古い『ローチがっつりとれとれポイポイ』が残っていたはずだ。

 家に帰ってすぐに押入に入り込み、化石堀のようにいろんな『お宝』を掘り起こした末にようやく捜し物を見つけた。

「よしよし、期限は去年で切れているけど、まあ、大丈夫だろ」

 彼はそうつぶやくと、箱を開けようとしたが、なにかが箱からぱさりと落ちて、彼はぎょっとした。見ると、それは干からびたゴキブリのミイラだった。誘引剤の臭いに引き寄せられて来たのかも知れない。

「一体いつの死体だよ……」

 幸い、ミイラ化の様子から今回の騒動とは関係なさそうだった。緑原は、それをティッシュで掴んで手近なコンビニ袋に入れ、口をしっかりと結ぶとゴミ箱に捨てた。その後気を取り直して『ポイポイ』を箱から出し、組み立ててキッチンの隅に置いた。

「まあ、気休めにはなるだろ。ついでにこれも試してみようっと」

 緑原はさっき買ってきた防虫スプレーの包装フィルムを外すと、自分の腕に向けて軽くスプレーした。腕を中心に、独特の匂いが漂った。

「うわっ、く、臭ぇっ!」

 緑原はスプレーを放り出すと、右手で鼻の辺りを扇ぎながら言った。

「なんじゃあ、こりゃあ……」

 ミントとシナモンを混ぜて煮詰めたものに、レモンピールをぶちまけ、隠し味に正露丸を入れたような、自己主張の塊のような匂いだった。悪臭とは違うがかなり臭いがキツイ。これじゃあ、売れ残っているはずである。涙目になりながら、緑原は防虫スプレーの説明を読んだ。

「えっと、何々? 『12種類の天然ハーブを使った、人にも環境にも優しい虫除けスプレー。ナチュラル派もこれで満足』ぅ? なんじゃこら?」

 緑原はもう一度、今度は空中に軽く散布してみた。と、いきなり咳が出た。

「ぶはごほげほっ、ごほごほ。これじゃ、虫どころか人も近づかんぞ、と」

 緑原はそう突っ込むと、スプレーを本棚の適当な棚にぽんと置いた。それからすぐに窓を全開にした。すると、だいぶ臭いが緩和されてきた。

「ああ、ひどい目にあった」

 緑原はため息をついて言った。でもまあ、これで気休めくらいにはなるだろう。そう思ったら、いきなり腹がぐうと鳴った。ふと時計を見ると1時を過ぎていた。腹の空くはずである。緑原は、流しの上の吊棚の扉を開けて、そこにずらりと並ぶカップ麺の中から1.5倍のカップ坦々麺を取ると、食べる準備をはじめた。

 食事が終わると睡魔が襲ってきたので、緑原は眠ることにした。受けなければならない講義は4時からである。今昼寝しても充分間に合うだろう。そう思うと、緑原は躊躇なくごろんとベッドに横になった。

 ところが次に目が覚めた時、時計を見ると4時前10分になっていた。

「わちゃっ!」

 彼は時計を見て飛び起きた。

「いけね、遅刻だ。この講義、代返効かないんだった」

 緑原はそう言いながら寝覚めに顔を洗おうと、椅子にひっかけていた汗拭き用のタオルをひっつかみキッチンの流し台に急いだ。しかし、キッチンに足を踏み入れた途端に彼の動きが止った。キッチンの隅に、何やら黒い塊があった。昼に例の『とれとれポイポイ』を置いた辺りである。昨日と一昨日のウイルス報道を思い出して、恐怖で彼は身動きが出来なくなった。彼はそのまましばらく銅像のように突っ立っていた。

 しかし、いつまでもそうやっているわけにはいかない。彼はにじにじと横にゆっくり動き、蛍光灯のスイッチに手を伸ばし、明かりを点けた。急に部屋が明るくなり、黒い塊はうろたえてワラワラと動き出した。

「うへぇっ!」

 能天気な緑原も流石に悲鳴を上げた。彼は一部自分に向かってくる虫たちに向かってスリッパを投げ牽制した。そのまま彼は部屋に逃げ込み、咄嗟に本棚の虫除けスプレーに手を伸ばした。

「食らえっ!!」

 彼はそう叫ぶと闇雲にスプレーを撒いた。近所から苦情が来そうなほど、臭いが立ちこめた。緑原は口と鼻をタオルでふさぎ、咳き込みながら涙目で様子を見た。苦し紛れの攻撃で、彼は、それが効くとは思っていなかった。しかし、思いがけず、虫たちは部屋の戸口で止まり、方向転換をはじめた。しばらくすると、あれだけいた虫はすっかりいなくなっていた。ポイポイに捕まった数匹を残してだが。

 緑原はほっとした。しかし、何で例の虫がこんなに大発生したのか。緑原は嫌な予感がして、外に様子を見に行くことにした。玄関を出て周囲を見た。緑原以外に異変を感じた者はいないようだった。もっとも、ほとんどが学生や独身の会社員の住む安アパートである。昼間は皆出勤で留守をしているのだ。居るのは数人の学生くらいだろう。

 緑原が様子を見ていると、どうやら右隣の部屋の玄関先で、チョロチョロする黒いモノが見えた。おそらく虫の出所はそこだろう。その部屋は、アパートの角部屋で、道路に面している。しかし、当然のことながら緑原は確かめる勇気がでなかった。それで取りあえず110番してみることにした。

「うう、嫌なことになってきたなあ……。単位大丈夫かな、オレ」

 緑原は、ブツブツ言いながら部屋に帰った。

 

 華恵は、自分の名を呼ぶ声に目が覚めた。ちょっと仮眠するつもりがすっかり眠ってしまっていた。華恵は跳ね起きると隣のベッドを見て驚いた。五十鈴が苦しそうに喘ぎならが華恵を呼んでいたからだ。

「川崎さん!!」

 華恵はベッドから飛び降りると、同居人の傍に駆け寄った。

「だめ、近づかないで……!」

 五十鈴が華恵を制止して言った。

「熱が出たごとあります。多分発症したとでしょう。すみませんが、先生を呼んでくれませんか?」

「川崎さん、そんな……」

 華恵は愕然として言った。五十鈴は悲しそうな笑顔で言った。

「せっかくお友だちになれたのに、ごめんなさいね」

 五十鈴はそう言うと、華恵に背を向けてむせるように咳き込んだ。

「川崎さん!!」

 華恵は急いで緊急ボタンを押した。

「すみません、川崎さんが……!! 先生、先生! 早く来てください!!」

 華恵は必死でそれだけ言うと、再び五十鈴の傍に寄ろうとし、また制止された。

「窪田さん、近寄ってはだめです。あなたは生きてください。……そして、ここを出たら、お願いがあります……」

「何?」

「初音を……あの子がどうしているか、様子を見に行ってください。近所の方にお世話をお願いしとぉとですが、それだけがずっと気がかりなんです」

「初音ちゃん? あ、ワンちゃんね。わかった、わかったから安心して。私がなんとかしますから」

 華恵が言うと、五十鈴は苦しい息の中、嬉しそうに笑った。その時、重装備の医師と看護師が、ストレッチャーと共に部屋に入ってきた。

「窪田さん、あなたは大丈夫ですか?」

 部屋に入るすぐに、山口医師が尋ねた。

「はい、私は……」

「川崎さんは、これから一類感染用の病室に移します。この部屋も消毒しますから、窪田さんも別の部屋に移動していただきます。よろしいですか?」

「は、はい。……あの、それで、川端さんは……」

「はい、出来る限り手を尽くしますから、心配なさらないで」

 山口が、五十鈴の容態を診ながら言った。しかし、それが気休めであることは、華恵にもわかった。

 ストレッチャーに乗せかえられ、五十鈴は病室から出て行った。華恵は呆然としてそれを見送った。五十鈴の姿は遠のき、無情に病室のドアが閉められた。

「川崎さん……。そんな、そんな……」

 華恵はつぶやきながら、ベッドサイドに力なく座った。

 

「葛西、行き先変更だ」

 ジュリアスが、無線を切ると言った。

「A町のK荘というアパートの緑原って人から通報があったらしい。ローチが大発生しとるんだと」

 緑原と聞いて、葛西は驚いた。

「緑原……? GF、あいつか!」

「何だ、知り合いかね」

「うん、例の『トルーパー』の動画を教えてくれたやつだよ」

「なるほど、C川の傍のアパートかね。ローチが大量発生しても不思議じゃにゃーか」

「しかし、また会うことになるとはねえ……」

 葛西はしみじみと言ったが、すぐに姿勢を正した。

「じゃ、行こうか。こんな車と格好じゃ目立って仕方がなさそうだけど」

「これ以上適切な格好はにゃぁだろ」

 ジュリアスが、にやりと笑って言った。


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