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朝焼色の悪魔-第3部-  作者: 黒木 燐
第2章 焔心
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8.ダディズ・クライ

「こ、これは……? こんなこととは……」

 夕方、娘のもとの駆けつけた北山紅美の父紀夫は、そう言うと言葉を失った。妻から娘が今朝方一時危篤状態に陥ったため、人工呼吸器をつけることになったという話は聞いていた。だから、会話は出来ないと。しかし、これは……。

 紀夫は、今、これを目の当たりにするまでこんな状態は予想すら出来なかったのだ。いったい何故、娘はこんなことに……?

 夫の声を聞いて、病室の窓の前に座っていた母親の真澄が振り向いた。

「お父さん、仕方のなかとですよ……」

 真津美は疲れ果てた表情をして言った。紅美はベッドに拘束されていた。人工呼吸器をつけられたその顔は、やつれ果ててかつての若々しかった面影は失われていた。

 春野看護師が紅美に父親の到着を告げたらしく、紅美は目を開けて窓の方を見た。その赤い目に、父は驚いて一歩後退りをした。だが、その口からは一言も声が発せられなかった。その後、紀夫はよろよろと窓に近づき、意を決したように娘を直視した。父親の目から涙がこぼれた。

「私から説明いたします」

 窓の中から山口医師が言った。

「お嬢さんは、火曜の夜から周囲が赤く視えるという、この病気特有の症状が出てしまわれたのですが、それ以来自傷行為が続いて……。スタッフが注意して見ておりましたので、ほとんどは未然に防ぎましたが、申し訳ありませんが、お母様のご同意も得て、止む無く拘束をさせていただきました」

「そんなバカな……。自傷行為って、娘は自殺なんかする子やなかです!」

「あなた、この子は私の前でも何度か……。もう、この子のあんな姿は見たくなかったから、拘束されて私は正直ほっとしとおとです」

「紅美、おまえ、なんでそんなお母さんが悲しむことを……!」

「いえ、お嬢さんのせいではないんです」

 山口が、急いでフォローした。

「この病気の症状なのです。これは人によってはまちまちで、攻撃対象が自分になるか他人なるか……。でも、川崎さんという患者さんにはそういうことはなかったですから、必ず攻撃的になるとは限らないのかもしれませんが、まだ情報が少なくてなんとも言えないというのが現状です。ただ、お嬢さんに関しては、自傷行為のほうが出てしまったようなのです」

「何で……、何でですか?」

「わかりません。ひょっとしたら、患者さんの心象が現れるのかもしれません。お嬢さんの場合は、お子さんと恋人の双方を一度に失った絶望の深さが影響しているのかもしれませんが……」

「そんな……。紅美、おまえは……」

 紀夫は窓によろよろと近づくと、紅美の方を見て言った。

「お父さんだってお母さんだって、おまえを愛しているんだよ。今までおまえを大事に育ててきたのに、それなのに、こんな……、こんな……酷い……」

 紀夫はそこまで言うと、窓に突っ伏して声を上げて泣いた。

 拘束と人工呼吸器の装着で、身体も顔もほとんど自由に動かせなくなった紅美だが、目線を何とか両親の方に向けることが出来た。紅美は父親のそんな姿を見て、申し訳なさと悲しさで、心が張り裂けそうになった。

 紅美は父親が泣くのを初めて見た。いつも厳格な父だった。そんな父親から距離を置きたくて、家から離れた他県の大学に行きを決めた。当然猛反対を覚悟していたが、父は「もう、自分に責任を持てる歳になるのだから、思った道に進みなさい」と、あっさりと許可してくれた。それなのに、私は下らない男に(うつつ)を抜かした挙句に、こんなところで死に掛かっている……。両親に親孝行どころか、悲しく辛い思いをさせながら……。

 紅美は父母の見える窓から目をそらして、サイドテーブルに置いてある薔薇の置物のほうを見た。その横には、それが可愛くラッピングされていた時の写真がフォトスタンドに入って飾られている。春野の心遣いだった。周囲が赤く染まって見える今、元々紅かったこの薔薇だけが元の色を保っていた。

(あの恐いオジサン……、長沼間さん……。あの人ともっと早く会えていたらよかった……)

 これは、紅美が薔薇のお見舞いをもらったあの時から、何度も想ったことだった。公安警察官と平凡な大学生では、こんな事件でも無い限り接点はないだろう。紅美はわかってはいたが、健二とは正反対の実直で不器用そうな長沼間に対して、そう思わすにはいられなかった。

(お父さん、お母さん、ごめんなさい)

 紅美は、心の中で何度も繰り返した。しかし、人工呼吸器をつけられてしまった今、もはや紅美にそれを伝える術は無い。紅美は、窓の向こうで悲嘆にくれる両親のほうを見ることが出来ずに、天井をぼんやり見ていた。その両目からは涙が溢れていたが、それは彼女の横顔に赤い筋を描いて、白い枕を赤く染めていった。だが、その顔には既に表情が失われていた。

 

 図書館から、感対センターに行った由利子とジュリアスは、センター長室に入り席に着いた途端に(くだん)の記事を読まされて、一様に言った。

「何だよ、これはっ!!」

「なんちゅーとんでもにゃー記事だなも」

「これじゃあまるで、アレクがラスボスみたいじゃないか!!」

「まったくだがね。捏造にも程があるて」

 ギルフォードを挟んで座った二人は、怒りが収まらない様子でしばらく口々に文句を言っていた。反面、噂の本人は、不機嫌な様子のまま一言もしゃべろうとしない。その様子を見て収集がつかないと思ったのか、高柳が口を挟んだ。

「二人とも、怒る気持ちもわかるが少し冷静になりたまえ。今のところ、よくあるタブロイド誌の誇大記事に過ぎないのだからね」

「しかし高柳先生、今回のことで一番心を痛めているのは、他ならぬギルフォード先生です。それなのに、何でこんな風に書かれなきゃいけないのですか!? 何がブラッディ・プロフェッサーだよ、ふざけんな!」

「憤慨する気持ちも判りますがねえ、篠原さん」

 今度は九木が割って出た。

「要は、ギルフォード教授が目立ちすぎるんですよ。これから良くも悪くも注目されてしまうでしょう。それを避けるためには、教授がこの事件から身を引くか、完全に裏方に回ってもらって公の場に出ないようにするしかないでしょう。私はそう思いますけどね」

「九木さん。そんな言い方はないでしょう! こんなクソ記事のために、今まで教授がやってきたことが否定されるなんて、あんまりです!」

「少なくとも私は否定はしていませんよ。いや、むしろ評価していると言ってもいいでしょう。ただ、他の方に引き継いでいただいたほうがいいのでは無いかという意見を申し上げているだけです。日本のことは日本人に任せるべきだということをね」

「こっ、九木さん、あなた……」

「由利子さん、落ち着いて」

 九木に突っかかろうとする由利子を、葛西が焦って止めた。

「九木さんも、今そんなことを言ったって仕方が無いでしょう。それにこれからは、この記事なんかよりはるかに問題のあることが起こる可能性があるのですから、もっと先を読んだ対策を立てなければ」

「その通りですよ、ジュン」

 今まで沈黙していたギルフォードが言った。

「だけど、ココノギさんが言われてることも一理あると思います。僕が公の場に顔を出すことは、余計な混乱を招く可能性がありますから。ですから、前に言ったように、僕は表立つつもりはありません。でも、僕はこの事件から身を引くつもりもありません。これからも、僕は陰ながら知事やタカヤナギ先生のサポートを続けていきます。これは、僕の使命です」

「ほお、言い切ったな、アレクサンダー」

 いきなり戸口で声がしたので、皆がそちらに注目した。そこには長沼間が立っていた。

「ノックしたんだが、取り込んでいたようなので勝手に入らせてもらったよ」

「ナガヌマさん、どうしてここに?」

 ギルフォードの疑問に、松樹が答えた。

「私が呼んだんだ。この雑誌の実物を見たいということだったのでね」

「そういうことだ。……で、九木さんだったな、あんたの思惑はわからんがね、こっちではギルフォード教授も含めたチームワークが出来上がりつつあるんだ。いらんことかき回すのはやめてもらいたいね」

「かき回すつもりはありませんがね」

 九木は、肩をすくめながら言った。

「ふん」

 長沼間は鼻先であしらうと、ツカツカと応接セットに近づき、テーブルの上の雑誌を手に取った。

「これか。実物は今日始めて見るがね」

 長沼間は、パラパラと雑誌をめくり、件のページを開いた。

「おや、トップ記事だったのか。しかし、あんたも大変だな、アレクサンダー。プロフェッサー・ギルの面目躍如ってところか」

「このまま教授がハカイダーにされないように、気をつけないといけませんね」

 と、得意分野に葛西が乗っかって言った。さらにジュリアスがそれに乗っかる。

「映画の『ハカイダー』はカッコ良かったなも。大型バイクもキマっとったがや」

「私それ、DVDで見た。昔美少年って騒がれていたH君が悪役で出てるって聞いてねー」

「あー出とった出とった。最初、大ケンに見えてまったがねー」

「あのね、ネタ元の僕にわからない話で盛り上がらないでください」

 ギルフォードが仏頂面をして言った。

「キング君、そもそも君を呼んだのは意見を聞きたいからだったんだがね」

 高柳が少し困ったような顔をして言った。松樹と九木は既にとり残されたような顔で座っている。オタク話に振った長沼間が、軽く肩をすくめ苦笑いをした。何の気なしに言った冗談に、まさか3人が食いついてくるとは思わなかったからだ。ジュリアスと由利子が頭を掻きながら申し訳なさそうに言った。

「大々的に話の腰を折って申し訳にゃ……ないです、高柳先生」

「すみません。私がいきなり怒り始めたものだから、脱線しちゃったんです」

「ま、素直に怒れる君たちが羨ましいよ」

 高柳は片眉を上げながら言うと続けた。

「さて、キング君、感情的な面は抜きにして、この記事をどう思うかい?」

「どうもこうも、アナクロニズムと悪意に満ちた、ガセ記事以上のものじゃあーせんでしょう。ただ、民衆は理論的な小難しい説明より、こういった明確な『敵』を設定したわかりやすい話のほうが受け入れ易いでしょうから。それに、なんでもアメリカが悪いという人はけっこう多いですからね」

 と、アメリカ人であるジュリアスは、少し不満そうに言った。

「これが後々問題を引き起こす可能性があるということだね?」

「ええ、問題はこの記事が世に出てしまったことで、その真偽ではあーせんでしょう。特にこちら側がいつまでも明確な情報を得られずに、具体的な説明が出来なければなおさらでしょうね」

「うむ、君の言うことは最もだが、かといって検証もせずに情報を垂れ流すわけにもいかんのでね」

「まあ、その点は難しいところですね」

「……ところで、この件も含めて明日対策本部の合同会議があるんだかね、メガローチ捕獲作戦を遂行した君にも参加して説明をしてもらいたいのだが……」

「おれ……いえ、部外者のぼくが? えーのですか?」

「既に君は部外者ではないだろう。それに、同じ作戦の遂行者である葛西君は、これに関しては門外漢だから、専門である君にフォローしてもらいたい。専門家でもギルフォード君にとって、この件は厳しい内容だろうからね」

 高柳は、ギルフォードのゴキブリ嫌いが病的なものであることを既に見抜いていた。だが、この高柳発言に九木が耳ざとく反応した。

「何故、ギルフォード先生にとって厳しい内容なんです?」

 それをいち早くフォローしたのは、なんと長沼間だった。

「あんたにだって、苦手なものはひとつくらいあるだろう? もちろん俺にもある。そういうことだ」

「生憎、私には今現在苦手なものはありませんね。子供の頃にすべて克服しましたから」

 九木は涼しい顔でそう言ってのけた。

「へっ、やなヤツだね」

 長沼間は、肩をすくめると躊躇せずに言った。するとこんどは、由利子が興味津津(しんしん)といった風情で尋ねた。

「へえ、長沼間さんにも苦手があるんだ」

「そりゃあまあ、俺だって普通の人間だからな、苦手なものくらいあるさ」

 長沼間は、チラリと九木の方を見て言った。

「俺は、あの翅の無いコオロギみたいなやつが大の苦手でな……」

「あ、カマドウマのことね」

「バ、バカッたれ! その名前を言うなッ!」

 由利子の答えを聴くや否や、長沼間はそう怒鳴ると反射的に後ろに飛びのいてドアに張り付いた。その反応があまりにも劇的だったために、皆の視線が長沼間に集中した。それで、地味にソファにのけぞるように張り付くギルフォードには、ジュリアス以外誰も気がつかなかった。


 森の内は、官邸の総理執務室の応接セットで、総理と向かい合って座っていた。このウイルス・テロについて、現地の状況を詳しく聞きたいということで、内密に呼ばれたのだ。しかし、まさか執務室に呼ばれ、1対1で話すことになるとは、森の内も思っていなかった。

「そう緊張しないでください」

 内閣総理大臣、谷川(いわお)は、人好きのする笑みを浮かべて言った。

「お気遣いありがとうございます。まさか官邸で総理とサシでお話するとは思ってもいませんでしたから……」

「どこからどう話が漏れるかわかりませんから、念のためですよ。さて森の内知事、まず、新事実を含めて、改めて当初から順を追って説明してくださいませんか? 私も頭の中を整理したいので」

「承知しました。……発端は、ウイルスの名前にもなった公園で、四人のホームレスが遺体で発見された事件からでした……」

 森の内は、順を追ってわかりやすく説明をした

 谷川は、森の内の話を聞き終えると、現在の発生状況やメガローチのことなどいくつかの質問をして、ため息混じりに言った。

「結局、ウイルス自体も見つからず、犯人の目星もついていないということですか……」

「残念ながら。サイキウイルスの発見は、まだかなり時間がかかるでしょう。ただ、テロリスト或いはテロ組織からの声明も干渉もほとんど無い今、テロの可能性をいち早く察知できたことは、評価していただきたいと思います。いえ、それ以前に感染が拡大する前に、出血熱ウイルスの発生に気がついた幸運についても」

「それは、承知しているつもりですよ、知事」

「犯人についての手掛かりは、月曜に駅で『自爆』テロを行った人物から捜査をしております。地道で進展は見えなさそうに思われるかもしれませんが、塵も積もれば山となりますし、どんな些細なことがヒントに繋がるかわかりませんからね」

「森の内君、必ずこの疫病を撃退してください。テロリストの思い通りにさせることは許されることではありません」

「もちろん、私もタスクフォースチームもそのつもりで動いています。あなた方が早期の公表を許して下さっていれば、もっと早く大々的な手が打てたのですけれども」

「君の言いたいことは、良くわかっています。しかし、当初の感染規模や情報量の少なさを考慮すると、簡単にGOサインが出せなかったことは、わかってくださいますよね」

「総理、差し出がましいことをお聞きしますが……」森の内は、声のトーンを落として言った。「ひょっとして、総理の方で何か情報を得ているのではありませんか?」

「私が情報を? どうして?」

「ええ。先ほどのお話の中でも申し上げましたが、うちのバイオテロ対策の顧問をお願いしている教授に、スパムを装った挑戦状が送られて来たことがありました。ですから、総理のほうにもひょっとして、テロリスト側からの声明文の類が送られて来たのではないかと……。それに今、『テロリストの思い通り』という言い方をされましたので……」

「そんなバカな……」

 谷川は一笑に付した。しかし、森の内には谷川の表情が一瞬だけ固まったように思えた。

「穿ちすぎですよ、知事。残念ながら、そういうことは一切有りませんよ。『テロリストの思いどおり』というのも、テロの一般的見地から言ったまでのことです。明確な意思表示があれば、それこそ大々的な対策が取れますし、公表だってもっと早く許可出来たはずで、しかもその時テロと言うことを告げる事だって出来たでしょう」

「失礼なことをお聞きして申し訳ありません。ちょっと気になったものですから」

 森の内は、無礼を詫びた。

「気になさらないでください。ところで知事、今日の上京の目的は?」

「はい。今日は陸上自衛隊化学学校と国立感染症情報センターに行って、いろいろお話や見学をさせていただきました」

「ウイルスについて、何か進展はあったのでしょうか」

「いえ、CDCからもパスツール研究所からも、未だ連絡はありません。せっかく使えるようになったBSL-4実験室も、またもや住民の激しい反対にあって使えない状況で、国感センターの方も嘆いておられました」

「未知のウイルスで致死率100%となれば、住民が万一の漏洩を畏れて反対するのは仕方ないことでしょう。で、これからもう帰られるのですか?」

「明日の会議にも備えないといけませんからね。睡眠時間の減る一方ですよ」

「自衛隊の治安出動を要請をするほど、事態が逼迫する可能性はあるのですか?」

 谷川が不安そうに聞いた。知事から自衛隊の出動要請があった場合も、出動命令を出すのは自衛隊最高位である総理大臣の役目であるが、谷川は自衛隊を出動させることに難色を示していた。

「万一、物理的な封じ込めが必要になった場合は、やむを得ません。警察だけでは手に負えなくなるでしょうから。そうならないように、今、私達が頑張っているのですよ」

「わかっています。知事、必ずやF県内、最悪、九州内でこのウイルスを封じ込めて、制圧してください。私も最大限の協力をしますから」

「もちろん出来うる限りの手は尽くします」

 森の内がまっすぐ谷川を見て言った。

「尽くしますが、ことは深刻です。総理のほうも腹をくくっておいてください」

「わかっています。ですが、今はあなた方にお願いするしかありません。このままでは、日本の経済は悪化にむかって加速してしまいます」

「まあ、日本車の評判が落ちたから、こんどはウイルスを輸出したとか言われかねないですからね。クジラやマグロのタタリだと言う連中もいそうですし」

「知事、冗談ごとじゃありませんぞ」

「失礼しました。つい、昔の癖で軽口を」

「モリッチーがご健在なのは嬉しいですけれど、ご自身のお立場もわかってください」

「申し訳ありません」

(あなたも総理大臣として決断する覚悟を持ってくださいよ)

 森の内は頭を下げながら思った。

「森の内知事、頼みます」

 谷川は立ち上がると、森の内に右手を差し出した。森の内は恐縮しながら立ち上がりその右手を取った。二人は形式上の握手はしたものの、その実、お互いの気持ちを計りかねていた。

 森の内が帰った後、谷川はしばらく一人で机に座ってじっと考え事をしていた。数分後、大きなため息をつくと搾り出すような声でつぶやいた。

「森の内君、たのむ。悪魔の仕掛けたゲームから、この国を……、いや、世界を守ってくれ……」

 その後もう一度深いため息をつきながら、両肘を机に着き組んだ指に額をあて再び考え込んだ。


 斉藤孝治は、カプセルホテルの中でうなっていた。

 ネットカフェは、今日早朝に通報されるという憂き目に遭ったため避けたのだ。後安価で泊まれるところは24時間営業の健康ランドかカプセルホテルあたりしか心当たりが無かった孝治は、迷わずカプセルホテルを選んだ。出来るだけ人とは会いたくなかったからだ。チェックインの時、彼は本名ではマズイと思い、友人の住所氏名を勝手に使って無事に今夜の宿泊場所を得ることが出来た。友人の住所はうろ覚えで番地マンション名部屋番号は適当だったが、それでも特に疑われることはなかった。場末のカプセルホテルゆえに、訳アリの宿泊者がけっこう来るのだろう。

 朝から何となく軽い頭痛と倦怠感を感じていたが、ホテルにチェックインする頃にはかなり頭痛が悪化していた。しかし、病気を疑われると不味いと思い、かなり無理をして健康を装った。しかし、ほとんど這うようにして、カプセル内に入り込むと、そのままぐったりと横になった。テレビやラジオ、雑誌などが完備されていたが、とてもそんなものを利用する気にならなかった。特にテレビのように光が点滅するものは。

(部屋が下の方で良かった……)

 確かに今の体調だったら、上のカプセルに上ることすら苦痛だったに違いない。

 孝治はそのまま少しの間眠ることにした。休めば少しはましになるだろう。そのあとサウナに入れば、気分もきっと良くなるに違いない。そう思った孝治は目を閉じたが、悪夢にうなされすぐに目が覚めた。それでも小一時間は眠っていたらしい。孝治はベッドから起き出すと、カプセルの部屋から出てサウナに向かった。平日の夕方なので、まだ利用者は少ないようだった。孝治はロッカーで服を脱ぎながら、右肩を見てぎょっとした。今朝方の逃走劇の時ぶつけた場所が内出血し、大きなどす黒いあざになっている。そこまでひどくぶつけた覚えは無いがと、首をかしげながら、サウナ室に入って木のベンチに座った。しかし、ものの数分もしないうちに激しい動悸が襲ってきた。変だなと思いふと身体を見ると、あちこちに小さく内出血し始めている。サウナの高温で急激に血管が拡張をしたため、ウイルスに冒され脆くなった毛細血管の一部から出血を始めたからだ。孝治は驚いて立ち上がると、早々にサウナから出てざっとシャワーを浴び、サウナ室から飛び出して服を着るのもそこそこに部屋へ戻った。

(いったい俺の体で何が起こっとおとや……?)

 孝治は狭いカプセルの中で、混乱しながら考えた。この期に及んでも、孝治は自分の症状と殺人ウイルスを結びつけて考えることはなかった。彼は既に合理的な思考能力を失いつつあった。彼は答えにたどり着くことが出来ずに、布団にもぐりこんだ。 


 由利子は、感対センターの駐車場でギルフォードの車に乗り込んでいた。運転席にはギルフォード、助手席にはジュリアスがしっかり納まっている。時間は夜9時を回っていた。予定を切り上げて東京から帰って来た森の内を加えて、話し合いが続き、こんな時間になってしまったのだ。

「じゃあ、由利子さん気をつけて帰ってください。アレク、ジュリー、よろしくお願いします」

 葛西が後部座席の窓の前に立って言った。その斜め後ろには九木が黙って立っていた。

「うん、葛西君もあまり無理しないでよ。ちゃんとご飯食べて寝るんだよ」

「はい。僕の心配をしてくれるなんて嬉しいです」

「何言ってんの、バカね」

 由利子は照れ笑いをしながら言った。

「で、葛西君たちは……?」

「これから県警本部です。明日の会議に備えないと」

「あ、そっか。大変だね」

「ジュン」

 と、ギルフォードが運転席から助手席のジュリー側に身体を乗り出して、窓を開けつつ言った。

「僕だって君の心配をしてますからね」

「おれの腹の上で何をゆーとるんかね、この大たーけはっ」

 ジュリアスが若干不機嫌そうに言ったが、前ほど嫌な顔はしなかった。彼も葛西をけっこう気に入っているのだろう。

「はいはい。じゃあ、車を出しますよ」

 ギルフォードはそう言って体勢を元に戻すとエンジンをかけ、車全体に振動が伝わった。

「葛西ぃ、じゃあまたな~。おやすみ~」

「葛西君、おやすみね~。九木さん、ごきげんよう」

 手を振る二人の影をのせて、ギルフォードの車が遠ざかっていった。葛西は振っていた手を止めやんわりと下ろした。急に不安になった気がした。

「さて、私達は帰ってからまた仕事だな。行こうか」

 車影が公道の車群に紛れると、九木が言った。

「はい」

 葛西が九木の方に回れ右をしながら言った。


「九木さんってばさあ」

 由利子がくすくす笑いながら言った。

「ムスッとして立っていたくせに、葛西君の後ろで一緒に手を振ってたわよ」

「意外とおれの好みだなも」

「えっ?」

 由利子とギルフォードが同時に言うと、驚いてジュリアスの方を見た。

「アレク、ちゃんと前を見て! 危ないから」

「はい、スミマセンでした」

 由利子に注意されて、ギルフォードは急いで正面を向いた。

「ジュリーも守備範囲広すぎ! この前だって……」

 由利子が言いかけたので、ジュリアスがあせって振り向きシイッと言う仕草をしてから言った。

「実はおれ、けっこうオッサンむさいオッサンが好みなんだわー」

「まあ、アレクもオッサンといえばオッサンだけど……」

「ま、考えたらおれもオッサンだったわー」

 ジュリアスが、カラカラと笑いながら言った。

(それにしても……)

 由利子は思った。

(けっこうラブリーな親父じゃん、九木さんって)

 それなのに、何であんなにアレクに突っかるんだろ……、と、由利子は不思議に思った。

 その後、例の雑誌をネタにして話が弾んだが、ふと由利子が気がついて言った。

「ところでアレク、紗弥さんは? 大学で会ってから姿が見えないけど……」

「サヤさんは、今日、僕に変わって研究室の方をお願いしていました」

「へえ、すごいじゃん」

「どうも学生達は、残念ながら僕よりサヤさんがいたほうが緊張するようで、仕事がよく進むんです。」

「要するに、アレクが甘いわけね。で、何やってるの?」

「この前、K市で流行ったインフルエンザ、あの発生マップ作成が今回の事件で中断したので、その続きをしているんです。本チャンに備えてね」

「ホンチャン?」

「サイキウイルス発生マップだがや」

 ジュリアスがすかさず答えた。

「未だ水面下で広がっとるなら、ある時いきなり感染者が大発生する可能性があるからねー。その時、発生地をマークしていくんだわ」

「そっか。地図にすると、発生状況が良く把握できるものね」

「そういうことです。学生たちにとっても、良い実習になってますよ。さあ、ユリコ、マンションの前に着きましたよ」

「ほんとだ。話が面白いと早いなあ。じゃ、ありがとう。また明日~」

 由利子はさっさと降りると、手を振ってマンションの玄関に向かった。

「待って、ユリコ! キケンです! 部屋まで送りますから。ジュリー、ちょっとここで待っててクダサイ」

 ギルフォードはそう言うと、由利子のあとを追った。ジュリアスはそれを見ながらつぶやいた。

”あいつもあの調子なら大丈夫だね。日本に様子を見に来て良かった……”

 ジュリアスは二人が仲良く並んで歩くのを、ほっとした表情でみつめていた。

 

20XX年6月20日(木)

 日付が変わった深夜、高柳はセンター長室のソファで仮眠中にたたき起こされた。北山紅美の容態が再び悪化したというのだ。高柳は飛び起き、スタッフステーションに駆け込んだ。紅美の部屋の窓の前には、既に両親が立って不安そうに娘を見つめていた。

 ふと、高柳が気がついた。園山看護師の姿が無い。

「あれ、園山君は?」

「仮眠室にいるはずですけれど……。起こしてきましょうか?」

 事務スタッフの横井が言った。

「頼む。彼も疲れているだろうところを申し訳ないけど……」

「はい。すぐに行ってきます」

 彼女はそういうと、すぐにスタッフステーションを走って出て行った。


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