9.侵食されている
結局、他に女神に関する記述を見付ける事が出来ず、ヴァルトは書庫室に籠るのをやめた。
それでも黄昏の報告があれば、誰よりも早く現場に急行する。つまり、ヴァルトは諦めた訳ではなかった。
そんな日々が続く中。
─く…っ。
人気のない森の中で、大きな幹に身体を預けて崩れ落ちるヴァルト。
左腕を押さえ、苦悶の表情で脂汗を浮かべている。
苦痛を押し殺しながら、腕に巻いている包帯を解いた。─包帯は限界だったのか、黒い煙をあげてグズグズと崩れてしまう。
見るとヴァルトの肘から指先までは、完全に黒い鱗に覆われてしまっている。
─っ…、侵食されている。
神聖魔法を施した包帯では、完全に魔物化を抑え込む事が出来なかった。
ジワジワと進行する魔物化に、気が狂いそうになる。
目の前の魔物や魔獣を討伐する度に、いずれ自分が討伐される側になるのだと、思わないではいられないのだった。
「聖なる女神よ。いにしえの契約に従い、不浄を清めたまえ」
何度目になるのか。ヴァルトは新しい包帯に神聖魔法を掛ける。
初めの頃はそうでもなかったが、魔物化が進むにつれ、神聖魔法を施した包帯の方が悲鳴をあげてきていた。─少しずつ黒っぽく変色していき、最後には煙をあげるのだ。
その頃にはヴァルト自身も痛みを感じるようになり、今回のように立っているのも辛くなる。
そして、巻き直す時の激痛も増している。包帯を巻くだけなのに、捩じ切られそうな痛みだった。
─ぐぅぅぅぅっ…っ。
何とか歯を食い縛り包帯を巻き終えた頃には、ヴァルトは精も根も尽き果てた状態となる。
普段はすぐに二の腕までの手袋をつけているのだが、もはやそれすら出来なかった。
暫くの間短い呼吸をしながら、何とか活力が回復するのを待つ。
─このまま肩まで魔物化が進んだら、切り落とすしかあるまい。
切り離したところで、魔物化を避けられるかは不明だ。だが、万が一の可能性に賭けたいだけなのである。
もはや藁にもすがりたい気持ちもあり、絵物語と一笑にふした『運命の乙女』すら、何処かにいないかと願う程なのだ。
「…様~。ヴァルト様~っ」
呼ぶ声が聞こえる。恐らくフェルディナントだろう。
こうして誰もいなさそうな場所へヴァルトが立ち入る理由を、唯一彼だけが知ってるからだ。
「…ここだ」
まだ立ち上がる事が出来ない為、ヴァルトは返答をする。すぐさまフェルディナントがそれに気付き、駆け寄ってきた。
「ヴァルト様、ここにいらっしゃいましたか 」
ヴァルトの姿を確認し、ホッとした様子のフェルディナント。だがその状態から、期日が迫ってきているのだと察する。
「俺がこのまま魔物化したら…、お前が討て」
「っ?な、何をっ」
「頼む、フェル」
滅多に弱気など見せないヴァルトの頼み事だった。
「ずるいですよ、団長。そんなふうに言われたら、嫌って言えないじゃないですか」
わざと冗談めいて言い返すが、片手で顔を隠すので精一杯なフェルディナント。─真意を分かっているだけに、確実な拒絶が出来ない。
「…頼む」
「分かってますよ、…ルト」
それでも再度ヴァルトから乞われ、フェルディナントは愛称を呼ぶ事でその気持ちに返すのだった。