5.逃げろ
事切れた団員をゆっくり地に下ろした時、激しくジゼラが嘶く。
「どうした!」
振り返ったヴァルトの視界に映ったのは、いる筈の愛馬ではなく、周囲の景色を歪ませる黄昏だった。
大人が一抱えする程の空間に、黒い稲妻のような放電が起こっている。
周囲の空気を侵食するように、黒いモヤ─闇が溢れ出してきた。
「ジゼラ、逃げろ!」
近くにいる筈の愛馬に命じる。
闇に触れれば、いかなる生物もその存在自体を変質されてしまう。
ヴァルトも実際に、己の目で見た事があった。
獣はその形を朧気に残しつつも、大きく黒く、狂暴な人を喰らうだけの魔獣に成り果てる。
それはもう生物ではなく、死しても屍すら残らない。絶命したところで、黒いモヤとなって霧散してしまうのだ。
例外もなく、人も同じ。むしろ人の場合は、全身を黒い鱗が覆い、長く突き出した口にはビッシリと鋭い牙が現れる。そして人を喰らうだけの、理性なき魔物となるのだ。
愛馬の嘶きは聞こえるが、それよりも気になるのは黄昏の中心部。黒い放電の中、何故かそれを打ち破って出てこようとしている何かの気配がする。
─くそっ…、どうなってるんだ。何がいるって言うんだよっ。
焦りだけが生まれ、ヴァルトはその場から動けずにいた。
内側から抉じ開けようとする、手のような物が見える。
今までの報告では、黄昏は闇を放出するだけのものだった。しかしながら、目の前では違う動きを見せている。
─…っ、来る!
即座に判断。身体が勝手に動く。
黄昏の中から飛び出してきた何かを、腰に佩いた剣で受け流す。相手が硬質なのか、痺れる程の感覚が右腕を襲った。
─何だ…?
高速で動く黒い何か。目で追う事は敵わないが、身体は空気の流れで察し、剣を振るう。
だがその中で、ヴァルトは酷く違和感を感じていた。
動きそのものが見えるのではなく、知っている感じがしたのである。
己の剣の動き。何処かで…。
だが、それにも限界が訪れた。
受け流した剣より早く、ヴァルトに届かんとする黒い影。
「ぐ…あぁぁぁぁぁ!」
咄嗟に盾にした左手を裂かれる。
刹那、全身を焼けるような激痛が襲った。
ヒヒーン!
ジゼラの甲高い嘶きが響き渡る。
青毛の牝馬は黄昏の危険性を無視し、己の主を助ける為に飛び込んできたのだ。
そして主を見つけるや否や、口に銜えて走り出す。
「ジ…ゼラ…」
苦痛に眉根を寄せつつも、ヴァルトは己の愛馬を確認した。
戦いに常に身を置いている為、負傷しても剣をその手から放すヘマはしない。
コーリアの町をそのまま脱出したが、黄昏もあの黒い影も追ってくる気配はなかった。
「…っ、ジゼラ、下ろしてくれ」
異様に熱を持っている左腕に眉根を寄せつつ、愛馬に告げる。
ジゼラはその言葉に反応し、立ち止まるとゆっくり地に主を下ろした。
─くそ…、やられた。
ヴァルトは己の腕を確認すると、崩れ落ちそうな程に落胆する。
何故ならば、傷を負った部分から魔物化を始めていたからだ。