1.携帯忘れた
ここからは主人公、リサにバトンタッチです。
セミの鳴き声が遠くに聞こえる、夏のある日。
既に夏休みが始まり、1週間が経っていた。
「あ~、携帯忘れたっ」
バタバタと階段を上るリサ。
自分の部屋が欲しいとねだった幼いリサの為、両親が一念発起して購入した建売住宅である。
それからもう、10年程この土地に住んでいた。
「こら、もう少し静かに上がりないっ」
「は~いっ」
階下で母親の声が聞こえたが、反省の色がない返答だけをするリサ。
自室で目的の携帯電話を手に取ると、再びバタバタと階段を駆け下りていく。
「リサ、気を付けるよのっ」
「は~い、いってきま~すっ」
出掛けにまた声を掛けられたが、それにもいつものように答えていた。
それよりも今は、時間が惜しかったのである。
「あ~ん、遅刻しちゃうっ」
家から飛び出したリサは、最近毎日のように通う道をひた走った。
実はリサ、夏休みに入ってバイトを始めていたのである。それも彼女の大好きな、某有名ドーナツ屋だ。
残り物でももらえないかと、シフトも遅くまで組んでもらっている。だが、実際は今までに一つしか─本当のタダでという意味では─もらえてない。
「急げ~、私っ」
自分を励ますように声をあげるリサ。
アニメやファンタジーが大好きで、そういった小説やマンガをこよなく愛する高校1年生である。
勿論、空を飛べたらとか、魔法が使えたらとか、思わない日はない。─現実問題として、不可能な事も十分に分かってはいる。
「到着~っ」
店のバックヤードに着いた時、既に勤務時間5分前だった。
それから店の制服に着替え、タイムカードを押して開始。
「いらっしゃいませ~っ。こちらでお召し上がりですか?」
声高に掛け声を掛け、マニュアル通りの応対を来客に行う。
高校生のバイトなので、元気が一番の売りである。
─だから、それ以上は求めないでほしいな。
「食べます…。あ、あの…ス、スマイルを…」
小太りの男が、何故か酷く汗を流しながら告げた。
思わず営業スマイルが崩れそうになるリサだったが、必死に耐える。─と言うか、この店舗は何故かリサがレジ担当になると、こういった輩が列を埋めるのだ。
─って言うかそれ、お店間違えてるってばぁ!某バーガー屋さんでしょ、ちょっと~っ。
内心の突っ込みと暴言は、ニッコリと微笑んだ顔の裏で隠す。
「他に何か御入り用ですか?ドーナツとご一緒に、ドリンクはいかがですか?」
注文通り笑顔を提供したリサは、次のオーダーを受けるべくセールスを行った。
「じゃ、じゃあ…コーラを、一つ」
「かしこまりました、少々お待ちください」
こうしてリサは己の心と戦いながら、1日を精一杯過ごすのである。
─って言うか、ドーナツ1個って!
誰も、リサの心のうちを知るよしもなかった。