第1話
世界は広い。かつての師が、口癖のようにそう言っていた。
幼い頃からコロッセオと闘技奴隷の待機所の狭い空間が全ての俺には、外からやってきた彼の教える読み書き、計算なんて何の役にもたたないと思っていたけれど、彼はいつか自由になった時に不便だからと、俺よりも俺の未来を考えてくれていた。そんな未来がやってくるなんて希望は、結局最後まで持てなかったけれど。
剣の方は、どちらかというと俺の方が強かったので殆ど手解きを受けたことはない。それでも、確かに彼は俺の師匠だった。
脳裏に焼きついて離れない、彼の最後の姿。彼の命を絶ったのは、俺が深く、深く突き立てた剣。
「諦めるな。生きて、幸せになってくれ……」
そう言って笑いながら倒れた。
「レーグ、時間だぞ」
門番に話しかけられて目を覚ました。
「大丈夫か?なんだかうなされていたが」
「問題ない」
全身から滴る汗を拭い、不快感に覆われる身体を鼓舞し、コロッセオに向かう。
「お前との付き合いも長かったけど、今日でそれもお終いかもな」
唐突に付き添いの門番がそう言った。
「どういう意味だ?」
「そのまんまの意味だよ。お前の強さは知ってるけど、今日は待機所で朝を迎えるのは無理だと思うぜ」
つまり、俺は今日殺される。そう言いたいらしい。賭けでもしているのだろうか、門番はニヤついた顔を隠そうともしないで下品に笑う。
「そうか」
話しても面白くないので俺は小さく返事だけをして会話を切った。今まで殺されてきたやつなんて何人も見てきた。そして、自分がいままで生きてきたのは、そんな屍をいくつも積み上げてきたことの証に他ならない。
自分の番が回ってきても、しょうがないことだとは思う。それは自然なことだ。
生きて、幸せになれ。
先程の夢を思い出す。祝福のように、呪いのように、頭の中からこびりついて離れない。
暗く狭い通路を抜けて、一気に視界が広くなる。嫌味なほどに空は青く、日差しが眩しい。
観客の歓声が、そこかしこから鳴り響く。いつものことだ。
いつもと違ったのは。
正面にいるのが、ヒトではなく。
トカゲによく似た、二翼の大きな魔物だということだろう。
生物としての差、圧倒的な威圧感。体躯は、返り血のように赤く染まっていた。大きな四肢は、俺を叩き潰すことなど容易だろう。何もかもを見透かすような赤色の双眸で魔物はこちらを見ている。いや、顔を向けているだけで、俺の存在など認識なんてしていない。本能がそう感じ取る。
動けない。いや、動きたくない。一度、生物として認識されれば、人間が羽虫を潰すような気軽さで一瞬の内に死んでしまうだろう。
しかし、正面の魔物もうつぶせのまま動けないようだ。体には無数の傷が刻まれており、コロッセオを囲むように術式が刻まれた大きな楔のようなものが打ち込まれている。魔術師達が動きを抑えてくれるようだ。それくらいの温情はあるらしい。そもそも、動ける状態でこの魔物を解き放ったら、ここにいる人間は全て一瞬で消されるだろう、そんな確信があった。
こんな魔物をどうやって捕らえて、どうやってここまで連れてきたのか、気にはなるがそんなことを考えている暇はない。魔物の周りには、武器と肉片となったヒトだったものが散乱としていた。アレと戦ってーーーおそらく戦いにすらならなかったのだろうがーーー彼らは死んだのだろう。
「ほら、受け取れ」
門番が、いつものように剣を手渡す。笑っている。成る程、確かにこれには勝てない。勝てるのが決まりきっている賭けだ。あまりにもワンサイドすぎて、賭けにすらなっていない。勝った分がパンの一つにでもなれば御の字だろう。
入ってきた門が閉められる。そして、客席を覆うように魔法壁が幾重にも出現する。
爆発魔法が打ち上げられる。これが開始の合図だ。
震える手を必死に抑える。ようやく、俺の存在を認識したように、焦点を合わせた。
咆哮。全てを吹き飛ばすような音の圧は、魔物にとっては、欠伸のようなものにすぎないのだろう。
次の瞬間、俺の正面には、炎の壁が迫っていた。
体が動いた。動いてくれた。とてつとない熱量が体の横を通り過ぎる。さっきまで自分がいたところを見ると、魔法壁のないところを除いて、全てが崩壊していた。
規格が違う。人間は、あんなものと戦えるようには出来ていない。
生きる為には、アレと戦わなければならない。しかし、アレと戦えば、確実に死ぬ。二律背反、どうすることもできない。出来ることと言えば、潔く。
握っている剣を首に突き立てる。しかし、震える手は、最後の一線を越えることを良しとしなかった。
生きろ、生きろ、生きろ。戦え、戦え、戦え。
瞬間、走り出す。恐怖を押し込めるように、叫ぶ。
火球が迫る。あの傷ついた体から察するにこの攻撃すらも本来のものではないのだろう。しかしあの魔物と比べれば貧弱以前の問題のこの体に当たれば、死は免れない。
すんでのところで回避して、魔物に肉薄する。傷ついている、ということは、全くの無敵というわけではない、そう思うしかない。
剣を突き立てる。
無敵では、確かにないのだろう。しかしそれは、量産品の剣などで、傷つけることが出来るというわけではない。それを察するのが、俺は遅かった。遅すぎた。
剣の切っ先は、魔物の体に触れた瞬間、弾け飛んだ。 呆然とする俺の前には大きな口を開けた、魔物。
《中々、見所のありそうな人間だったが、相手が悪かったな》
頭の中に、何かが直接響く。
《しかし、こやつを喰らった所でどうなるわけでもなし。さて、どうしたものか》
喰らう。そんなことを考えるのは今目の前にいる魔物だろう。原理はわからないが、頭の中に響いてくるのは、この魔物の思考のようだ。
「…………ふざけんなよ!!!こんな、こんな死に方、納得できるかよ!!!」
俺は叫んでいた。意味もなくこんな化物に殺される、そんな終わり方があるものか。まだ俺は、何もしていない。師匠の言う、世界の広さなんて全然知らない。死を目の前にして俺は、こんなにも生きたがっているということに気がついた。
《人とは醜いものよな。死を目の前にすると、喚き散らしてやかましいことこの上ない》
「醜くくてもな!俺は生きなきゃならないんだよ!!そう言われたんだだ!!!」
反論する。その瞬間、魔物の目がぎょろっと開いた。
《お主、もしや我の声が聞こえるのか!?》
「ああ、よく聞こえるよ!!うるさいったらねぇ!!」
《ふはははは!!!なんたる、なんたる僥倖!!その赤髪、翠眼。こんな所で、よもや竜器の一族に出会えるとは!!》
咆哮。天を衝くこの咆哮は、歓喜のものだろうか。
《お主、我と契約せぬか》
「契約……?」
《ああ、我が拠り所となってもらう代わりに、お主に我が力を多少貸し与えてやろう。一度契約でもして、この体を捨て去らぬと、この忌々しき呪いからは抜け出せそうにないからな》
原理はわからないしついでに言えば言ってることの1割も理解できないが、どうやらこの魔物は、俺を使えばここから抜け出せる、そう思っているらしい。
「契約しないと言ったら……?」
《このままお前を一呑みにしてやるだけよ》
咆哮。選択肢がないのをあざ笑うかのように、魔物はまくし立てた。
《さぁどうする?》
「……契約すれば、俺は外の景色を見れるのか?」
《人間の言う外、とはどこを指すのか我にはわからんが、我が翼で飛んで行ける所なら何処にでも連れて行ってやろう》
答えは出ている。世界は広い。その言葉を信じて、俺は。
「……いいだろう。俺はお前と契約する!!」
この小さい世界から羽ばたく。
《よくぞ言った!!人間、名はなんと申す》
「レーグだ!!」
《貧相な名前よの。まぁよい、ここに契約はなった。ーーーー汝の魂は我が器となりて、それを以って我は世界に顕現するーーーー呼べ、我が名を!!》
あの巨体が一瞬のうちに消え去る。そして、とてつもない異物感に襲われる。拠り所、という意味が理解できた。俺という存在を上書きされるような、そんなおびただしい量の魔力。
「ーーーーこい!!アストリット!!」
瞬間に、大地が震える。
かの魔物は、傷一つない姿で、その体躯を震わして現れた。
《やれやれ、なんとか成功したようじゃな》
歓声がいつの間にか悲鳴に変わっていた。当然だ、彼らは見世物として、無抵抗な魔物、にすら蹂躙される闘技奴隷を見に来ているのだ。その無抵抗な魔物が、万全の状態で野放しにされたらどうなるか。
《いくら弱っていたとはいえ、こんなチンケな術式で封じ込まれてたかと思うと、悲しくなるというものじゃ》
そういうと、コロッセオを囲んでいた楔が、一瞬で吹き飛ばされた。これで魔物を縛るものは、もうない。
《さて、どうする主よ。おそらく奴隷であった主にとって、ここは嫌悪すべき場所であろう?全て消しとばしてやろうか?》
咆哮。確かにそんなことはこの魔物にとって容易いのだろう。
阿鼻叫喚、といったような人の波を眺める。
「いや、いいよ。生きるためでもないのに何の罪もないやつを殺したら、目覚めが悪い」
《主を見世物にしてた奴らじゃぞ?復讐とは、人間に許された唯一の権利だと我は思うがな》
「……案外優しいんだな、アストリット」
なんだか笑ってしまった。こんな規格外の存在が、案外人を思いやる繊細さを持っているというギャップに。
《……何をバカなことを言っておる。動作確認のついでにしてやろうと思っただけよ。まったく、興が削がれたわ》
あたりは避難しようと押し合う観客で騒がしくなっていた。魔術師達も、魔法壁なんてとっくに解除して我先にと逃げたようだ。空が広い。
「さて、それじゃ行こうか」
《行くあてはあるのか?》
世界は広い。心の中で反芻する。
「それを探しに行くんだ」
《ふむ、まぁそれも良かろう。では、乗るがよい》
アストリットの頭の上まで、ゆうに俺の身長の30倍はある。頭を差し出すとか、そういう手助けはしてくれないようだ。
地面を蹴り、跳ぶ。自分の体とは思えないほど、軽やかに動いた。あっという間に頭頂部にたどり着く。
「これも、アストリットの力ってわけか」
《この程度で驚くでない、馬鹿者め。それでは行くか。落ちるでないぞ》
両翼がはばたき、アストリットは静かに、しなやかに飛んだ。どんどんどんどん高度は上がっていく。俺の世界の全てだったコロッセオがどんどん小さくなっていく。
暫く、その様子を眺めていた。ついには豆粒のようになった故郷を見て、アストリットがいなければ、あの小さな世界で俺は終わっていたのかと思うと、なんだか馬鹿馬鹿しい気分になった。
《おお、今日の夕陽は中々のものだな》
妙に人間臭い台詞をアストリットは言う。
顔を上げると、夕陽に照らされた見渡す限りの大地が広がっていた。どこまで行けば果てにたどり着くのか、想像すらできなかった。
《なんだ、泣いておるのか?》
「あっ……ごめん。あんまりにも、綺麗だから」
《ふん……こういう時はありがとうと言うのだ、馬鹿者め》