第一節「逆空のアリア」
中空に少女が浮いている。いや、浮いている訳ではない、彼女を浮かせるその原動力となる肉体の活動が彼女のそれの何処にも起こっていない、つまり彼女が空に浮いているのは他の環境的な理由だ。透明な橋の上に佇んでいるとでも言う風で、少女は吹き抜けてくる風に身を浸して涼しげな表情を浮かべる。涼しげなその表情が、彼女がこの空中世界での生活にある程度適応している事を物語っている。
少女は跳んだ、跳んで、そしてまた、空中で着地した。空中のどこかに見えないブロックが浮いていて、それを見出しながらそれに飛び乗っていく事でこの世界を歩んでいるとでも言うように。その少女の動きは軽い、その動作にこの世界に不慣れであると言うぎこちなさが見られない。恐らく彼女の体は地上で歩いていた時期の動作感覚をこそ忘れてしまっているのではないだろうか。手足を交互に前に出し、地面と平行に前に進んでいくと言う動作、歩くと言う事とはまるで対極に有るような、瞬発的な、肉体のばねをフルに使った、自分の頭上を、上空を往く、飛翔。その飛翔を、彼女は歩くと言う動作の代わりの自分の移動手段としてごく自然に繰り返している。地面の無い世界、空の透明な地面の上で。
十数回それを繰り返し、また風を感じた彼女はそこで立ち止まる。よく見れば、少女はただ風を感じる為にいちいち立ち止まっているのではなかった、彼女は、風の吹いてくる方角を探していた。指に唾を付け、それを空―彼女の真下を地面と呼ぶとした時の―に向けて立てて風向きを確認していた。そして風が止むと、少女は風の吹いてくる方角へ体を向けて、また空中での飛翔を繰り返すのだ。
少女はふと後ろを振り返る。そこに有るのは、かつて彼女が存在し、しっかりと足を付け歩いていた、土色の地面。それが上下左右に果てなく伸びている、振り返った彼女の視界の全てを埋めている。高所恐怖症の人間で有れば振り返っただけで卒倒してしまうような光景だったが、彼女にはそう言った恐怖心は無いようだった、恐怖すると言うよりも、寂しげな表情を浮かべた、恐怖出来ない自分を、寂しいと思っているような、もう戻る事の出来ない場所を、恋しく思っているような、何とも言えない、無表情とも取れる機械的な表情。恐らく彼女は今までに何百度と無く振向いたのだろう、そしてその度にある程度は違うリアクションをしてきた筈だったが、いまや振向いた時に勃発する感情は一種しか必要無くなったのだ。それは、諦めだった。こんな場所を歩いてしまっている自分の空しさを泣いても、こんな場所に慣れてしまっている自分の可笑しさを笑っても、誰も一緒に泣いてくれたり、笑ってくれたりする人はいないのだ。感情を外部に積極的に伝える手段を持っても、自分が得るものは何も無いのだ、有るとすれば、泣くと言う動作や笑うと言う動作の自分の中での位置付けが、どんどん可笑しくなると言う事、もっと大切な特別な何かに対して起こさなくてはならない動作なのに、その大切な特別な何かが分からなくなっていってしまう、こんな異常な状況で泣いたり笑ったりしたら、自分もどんどん異常な世界の中で笑う事泣く事を普通だと思うようになってしまう、つまり、得る物が有るとすれば、普通の喪失、異常の獲得だった。彼女はまたいつの日か普通な世界での異常に悲しい事、異常に嬉しい事を泣いたり、笑ったりする為に、異常な世界での普通を、笑ったり泣いたりする事を諦めていたのだ。今は、異常な世界が普通なのだ、異常な世界での異常、つまり普通に出会うその日まで、私は泣いたり、笑ったりするべきではない。彼女は、かつて地上で見上げていた普通の一部だった筈の空、をきっと睨み付けた。泣く代わり、彼女は指先に付けた唾を両目の下に一直線に塗って、異常な世界での泣き方をして、また飛翔を繰り返し、空を一人、上って行った。




