第一雪「夢色透明」
少女の目は、慣れてしまった。何にか、通常暗闇に在って人は光を視覚で拾えるようになる、つまり黒から白の方向を目指して黒と白の合間の明度を自分の空気の居城の輪郭として獲得形成していく。少女の場合、その明度回復現象を得た訳ではない、実際視覚的な事より精神の目を病んで行っていると言った方がいい、少女は心の中に一生懸命築き上げてきた小さな積み木のお城が段々見えなくなってしまっていた。それでも少女は積み木の、脆く直ぐにでも、ちょっとした突風が少女の心を吹き抜けたら跡形も無く崩れ去ってしまいそうなその大事なか弱い、か弱い彼女の心の住まう小さな家、それを、もっと大きくしようとしていた。つまり、少女の心にまだ希望の泉は湧いている、では少女の目は一体何に慣れて来たのか、それは、絶望、だ、希望と絶望を同時に持てる人間はいない、そんな矛盾は在り得ない、人間は本来絶望を持つ事が出来ない、絶望を持つ人間は即ち命を絶つ事を選択するからだ、どんな状況に有っても人は、生きてさえいれば心の何処かに希望の欠片を灯火を太陽の閃光を迸らせている、それが今の彼女の逞しくも儚い足の一歩一歩であり、くすんではいても何処か奥底に凛とした輝きを守る瞳の真っ直ぐさであり、彼女の心の大空を羽ばたく虹の羽根を持った神の鳳の心臓音なのだ。絶望、望みを絶つ事は人は人として人の尊厳を守る者として出来る事ではない、それでも、限り無く絶望に近い希望の終りかけた人間と言う者は、在る。それが今の彼女だ。彼女の瞳は絶望の暗闇に慣れつつある、灰色でも不確かな希望の暗い光にじんわりと満ちていたこの世界が、まるでこの世界に産声を上げながら知覚した世界の眩しさに慣れて行く過程、つまり生への順応から、それが時間軸を逆にして再現されていく過程、死への順応へと移り変わっていく。白が何処かに有るかもしれないと思い願った彼女の心が、希望の光が、黒い暗い夜の深遠へと堕ちて行こうとしている。
勿論今世界の色は微塵も以前までと変わってはいないのだ、灰色が今までと同様彼女の全方位に寄生して永遠に細胞分裂している。だが、その寄生は遂に彼女の体を貫いて彼女の心にまで到達してしまったのかも知れない。彼女は、いまや視覚によって世界に歩を進めているとは言い難い、彼女はもう、心の目でしか世界を見ていない、だから、彼女の心の世界を歩いている、絶望の黒に染まっていく灰色の夕方を、直ぐ今までそばで作っていたのに急激に遠ざかり見えなくなってしまった積み木の家を、白く暖かな彼女の為の昼の世界を目指して歩いている。世界はどんどん黒くなる。家もどんどん遠くなる。それでも彼女は、歩くのを止めない。手に持った積み木が、きっと最後のジグソーピースだから、これさえ嵌めれば、きっと綺麗な絵が完成するに違いない、綺麗な絵の中にはきっと私もいて、お母さんもお父さんもいて皆で暖かいスープを囲んで笑い合っていてそんな情景が窓から零れるように夜の黒を通じて空にいる私の友達達に届いているに違いない、だから、私はこの積み木をちゃんとその家に置かなくちゃいけない、この積み木で家を閉じてしっかり光の世界を宝物の箱に鍵をしてしまわないといけない。
最後のジグソーは宙を舞った。
彼女は転んでしまった。もう、この世界をちゃんと確認して歩くことを止めていた彼女は、ちょっとした石に躓いて転んだ。彼女の世界には、灰色の夕方、綺麗な絵、そして最後のジグソーの三つしかもう残ってなかったからそんなかけっこの邪魔をする自然物の存在を失っていたのだ。彼女は慌ててジグソーを探す。擦り剥いてしまった顔なんて関係無い、先ほど風が優しく洗ってくれた髪が汚れてしまったけれど、そんな事より、綺麗な絵の中の家に入るたった一つの鍵を探さなくては。倒れたまま手探りをして、彼女の手は先ほど転んだ石で止まった。安堵して取った。そして気づいてしまった。生々しいごつごつした、とてもではないが綺麗な絵の一部になど成り得ない無骨な肌触りに彼女の神経はショートした。綺麗な絵も、ジグソーも、もう何処にも無い、残っているのは、もう、灰色の、暮れなずむ冷たい景色だけだ。彼女は遂に、石を抱きしめたまま泣き出してしまった。でも、彼女の手は約束したのだ、彼女の望む物を、彼女の為に手にする事を。望む物なんてきっと何処にも無い、だから手の約束は優しい嘘だった、しかし彼女の涙は魔法を生んだのだ。草原に吹く、豊かな緑の中を悠々と吹き抜ける透明な風を、一瞬だけれど生んだのだ、この彼女の手のひらの上に。手は、その偽物のジグソーを本物にしてあげようと思った。だから、偽者を胸に押し付けて君の心を傷付けようとするのは止めて。確かに今持っているそれは偽者だけれど、君の心の中には、まだ本物が残っているだろう、持っているだろう?それを今見せてあげるから、だから、そんな悲しい苦しい表情で涙を流すのは止めて…。
少女の胸に風が集ってきた。いや、実際には、その石ころに風が集っていた。石ころの灰色が剥がれ落ちていく、代わりに、風の透明が石の周りを覆っていく。石は、透明になった、透明になって、彼女の心の中の風景を彼女の泣き続ける瞳の前に見せつけた。それを見て彼女は泣き止んだ、涙の中に色を見た時と同じだ、彼女は色を見た事に驚いているのではない、ただ、もうこの一時だけはこの世界の住人ではない、この石の中に踊り、石の中に駆け回り、そして疲れてこの石の中で眠る、そんな妖精になっている。いや、彼女は眠った。疲れてしまったのだ。疲れて、眠って、この世界を閉じた、閉じて、この石の中で遊ぶ事を選んだ。これが風の答えだ。灰色である事は、多分透明である事よりも希望の有る事です、何故なら、光は黒と透明以外の物で出来ているから。だけれど、透明は黒ではない、透明は、何か新しい色が来る前の、新しい光の絵の具で塗り替えられる前のまっさらなカンバスです、だから、私は貴方がこの世界がまた新しい希望に満ちた色で塗り替えられる日が来るまでの家となり、親となりましょう。貴方は灰色の世界で誰よりも強く白を願った。それが私が貴方を風の子供として受け入れる理由です。風は、黒い世界で吹く事を望みません。白い世界で吹く事を望みます、白がこの世界を満たす日を何時までも待ちつづけます。何故なら白は、私たち偽りの純粋色がなりたくてもなる事の出来ない、本当の意味での希望の色なのですから。
風の子は、親に尋ねる、ねえ、私は、なんと言う名前を名乗るといいのかしら…?
何も無い冬の灰色に春の家を願った子、ハルカ




