第三節「笑顔よ、風になれ」
笑うのを待っていた少女は、笑う事を忘れていた。笑いたくなんて無かった少女は、笑う事しか出来なかった。だから、少女の笑い声は、とても笑い声とは思えないものだったし、少女の笑顔もまた、苦しげに身悶える重病人のそれだった。直る見込みの、自分の表情を自分の物と呼べる日が来るのを、来ない日を、待つ、重い病の人の仮面の様な笑顔。少女は誰に見られるでもないその操り人形の様に狂った顔を隠してしまった、両手で、しっかりと、でも力が入らない、力が入らない手は彼女の望まない笑いを制御する事が出来ない、それでも必死に、彼女の手は彼女の顔面の仮面を剥がそうとしていた。彼女はいつか誰かに言われた心に残る言葉の破片を継ぎ接ぎ合わせ始める。笑顔、諦める事、出来る事、大丈夫、生きているという事、笑顔を諦める事、笑う事が出来る事、諦めても大丈夫、出来るなら大丈夫、生きているという事、笑顔を諦める事が出来る事、笑う事が出来るのを諦める事、諦める事が出来るなら大丈夫、生きているという事、生きているという事、それは、笑顔を諦める事が出来る事、その強さ、笑う事が出来るのに諦めてしまう事、その弱さ、その弱さを強さで塗り替えてしまおうという事を諦める事、弱い自分を曝け出してしまおうという事、他者に受け入れて貰えるかどうか分からない、脆く傷つけられ易い花の様な自分の不器用な笑顔でも、そのたった一つの小さな心の開花する場所を守るという事、それが、貴方が今ここで確かに次の光の朝を迎えようとしているという事、宵闇の茨を潜り抜けて冷気のトンネルを震えながら越えて、それでも何処にも辿り着けない人の不幸を思えるという事、そんな光を得られない人々の分の輝きをもその身に纏い、何も零さず何も失わずに歩いていこうとする事、それが生きているという事なのよ…。
それじゃあ、笑ってばっかりいる人は、どうなってしまうの…?少女の心に回答者は無かったが、それでも少女の心には明るく見えてきた物が有った。笑わないでいる事に強さ弱さが有るのなら、笑う事にも強さ弱さはある筈で、ずっと笑っていられる強さ、ずっと笑ってしまう弱さ、今、この二つが鬩ぎ合っているのが私の仮面に宿る笑顔を悲しくさせているに違いない、この場合、私は何を諦めたらいいのだろう、「その弱さを強さで塗り替えてしまおうという事を諦める事」、そうか、笑う事に疲れたなら、今の今まで私の本心を隠し続ける為に笑い続けてくれた私の仮面の笑顔が疲れたなら、その時に、ありがとう、って笑いかけてあげればいいんだな。私は今まで、この現実から逃げたり隠れたりする為に、泣いてみたり、笑ってみたりしていたけれど、そんな事をしていても何も始まらない、本来泣く事笑う事は行動の結果として起こる物で、これら自身が行動の原因となる事なんて無い。それどころか次の行動へ移る際の障害物ですら在る。だけど、それだけど、私の泣き顔私の笑顔は、私が恐れた次の行動から私を守ってくれたと言ってもおかしくない、私に止め金を打ち込んで私の心と体がばらばらになってしまわないようにと、私と言う存在のこの非現実での所在を確かな物にしてくれた、そうゆう価値有る行動だったと言えるはずだ。だから私はそんな私の弱さに、御礼を言える強さを持とう、それが今私に出来る、笑い続けるという強さ弱さを諦めてこの世界へと立ち向かっていける本当の強さだ、本当の、心の底からの、笑顔の在り処だ。彼女の笑い声は、彼女の一番好きな響きを含むものになっていた。一番好きなその響きとは、咽喉だけではない、腹の方から来る素直で貴重な笑い声の事だ。




