第五節「エンジェル・クライ・イン・ザ・スカイ」
アサが、来た。いや、朝など来ていない、少女の夜はまだ明けていない、少女の精神はいまだ空の狂気のシロと愛し続けている、ふたりの長い長い愛の確かめ合いは永遠に続いている。その証拠に少女の視界は純白になった、一応のアサ、光の主張が夜の沈黙を無視するこの刻に有って少女の視界は灰色を脱してはいたが只その灰色の明度が世界を覆い尽くさんばかりに肥大化した、つまり、少女の視界にはもう、何もない、空の純愛色白以外に少女の瞳が捉えるものは何もなくなった。だが、少女は立ち上がっている、頭を抱え泣き笑うのを止め、たどたどしい足取りではあるが確実に、飛翔を、再開している。一体この少女を突き動かしている感情、空の愛という激流に飲まれてしまうことなく尚それに逆らって川を上って自分の到達すべき場所まで行かなくては成らない、という決意、状況への愛は一体少女のか弱く小さな体の何処から沸き起こっていると言うのだろう。少女の体はか弱く、そして小さい、だがしかし、心はそうでない、心はその弱き体を守護する騎士として彼女の中に居る、心は空の愛という血塗られた巨剣を跳ね返し、無数の鏃をその一身に受け、その抜き取った鏃を武器にしてさえ今この状況という戦地で必死に彼女の歩むべき道筋を切り開こうとしている。そしてその戦場はいまや一寸先は闇、とでも言うべき状況、そう、愛という名の盲目、白き闇、に閉ざされきっている、心と言う騎士の乗る決意と言う白馬の進むべき道は、何処にあるのだろう。その道を明るく示す存在、彼女の決意を愛する存在、彼女の歩みを祝福する存在、それは、この視界に頼る事の全く出来なくなった世界において、只一つ以前と変わりなく彼女に一片の普通を与えてくれる、以前地上で喜びの中で外を走り回っていた、転げまわっていた、はしゃぎまわっていた時の記憶、その記憶に寄り添うようにしていつもそこに有り、その沈黙で微笑し、その暖かさで抱擁し、その透明で彼女の世界を美しくさせてくれていた、そんな永遠の子供の理解者、そう風だ、風は吹いている、風は彼女の視界だ、風は、彼女の目となり、意思となり、彼女の手を引く親となり、彼女に絶対の安心感と信頼とを齎しながら、歩む道を、目には見えないそれでも確実な何かに繋がる、空の上の空色の橋を、彼女の前に示し続けていた。
彼女には思うことが有る。この風、この風は特殊だ。風は普通地上に平行に吹く存在だ、地上に平行に吹き、見知らぬ土地から訪れそしてまた見知らぬ新たな土地へ旅立っていくそういう存在だ、風は常に新しい、風には方向性が有るからだ、古い風が過ぎると必ず新しい風が他所から旅してやってくる、彼女はそんな風の流れに、さようなら、そしてこんにちは、と、心の中で挨拶をするのが好きだった。だがこの風は違う、この風には有るべき方向性がない、この風は地上に平行に吹いていないのだ、果てしない高度から地上に向っている、早く地上に辿り着いて、そしてまた新しい旅を始めたくてしょうがないのに、それでも果てしない高度から旅を始めなくてはならない、空の高みに留まらなくてはいけない理由がある、そんな事を彼女に感じさせる風だった。この風は、何かに捕われている、そんな事を思わせるのだ。彼女は自分の思いが、果たして非透明か、不透明か、と言うことを知りたく願って行動している。つまり彼女には、この風が停滞しているのは、ひょっとして空の罠なのではないか、と思う部分があるのだ。普通ここまで陵辱されたらもう歩けない、恐らくこの風が無ければ彼女はあの夜に舌を噛み切って空との愛の契りから自分を解き放っただろう、死と言う名の絶対の黒い夜に自分を凍り付けたに違いない。だが、彼女の心は凍り付かなかった、この風の温もりが彼女の涙を乾かし、彼女の笑顔を、狂気の笑顔を、少しでも幸せの笑顔だと優しく誤解させてくれたからだ。もし、この風が、空と言う食虫植物の振り撒く拒否しがたい甘い神経破壊の蜜の予感を運ぶ香りの粒子の流れでしか無いのなら、彼女はもうそれでしょうがない、自分はこの食虫植物に無様に魅入られた一匹の蝿なのだ、この感情は状況に持たされていた非透明でしか無いのだ、もしかしてこれが空の罠でしか無いのなら、それはもう、それでいい、私が幸せの予感を抱き、そしてその幸せと言うのが何処にも無いのだとしても、その幸せの予感を抱いたまま死ねるのなら、黒い夜に深く深く落ちてゆくのが幸せの予感と言う夢と共であるのならそれはそれで構わない、とそう思っている。だがもしそうでないなら、この風は私に救いを求めているから吹き続けているなら、そこには私の意思が入る、私はまた新しい風との、さようなら、そしてこんにちはをする為の最初のきっかけを作る事ができるかも知れない。私の手を取って歩いてくれた風と、今度は自分から手を取ってこの牢獄から抜け出す事が出来るのかも知れない、そう思っているのだ。彼女はその牢獄から抜け出すと言う事が肉体を伴って、つまり以前までの普通に戻れると言う意味で抜け出せる、と思っていたがその考えは甘かった、と言うことを知った。もう、彼女は普通の人間には戻れないだろう、彼女は今でさえ自分の体が上手くコントロールできていない、今彼女は常に涎を垂らしてしまっている、空の愛液を排泄しようとしているのだ、何処にもそんなもの入っていないのに、彼女の頭はもう空の愛液が自分の血液になってしまったのだと言う位に本気で自分の体を拒絶している。彼女は自分が汚されてしまった事を本気で拒絶しているのだ、自分は汚されていない世界の住人でいたい、しかしもうこの肉体を伴ったままでは汚されていない世界の住人にはとてもなれそうに無い、ならば。風の手を取って風の世界へ連れて行ってもらおう。風の世界へ連れて行ってもらうと言う事、それは、風と同格の存在になると言う事だ。それがどういう事になるかも、彼女は知っている。それでも彼女は歩いているのだ、彼女は選んでいるのだ、消極的な死ではなく、積極的な死を。残された選択肢から、確実に後者だけを選択したのだ。前に歩かない、つまり、その場で死ぬか、それとも無様に戻れるわけの無い地上を目指すか、それを選んでいないのだ。地上を今更目指しても、ここまで来るのに十時間以上が経過しているのだ。戻るにはそれの倍以上の時間が掛かるだろう、もう体が活動する為のエネルギー源が無いのだ、そして地上に戻ったとしてもそんな物を獲得できるとは思えない。それ以前にこの世界の物理は異常だ。空への飛翔以外の行動は何も許されていないのだ。人は、ジャンプすると、ジャンプして空中に上がる、と言う部分では紛れも無く自分の力による行為になるが空中から地上に戻る、という部分では自分の力は何処にも関わらない、そこに有るのは重力の影響力だけだ。だがこの世界は、空が重力を支配している、つまり、ジャンプした人間を下降させる事を許さないのだ、そして下降する事を許されない人間はそれをどうする事も出来ない、下降すると言う動作を持っていないからだ。だから、彼女が狂って地上に戻ろうとしても何も起こらない、目を見開いて全く近づいてこない地上をずっと見つめていることしか出来ない。それを選択しないという意味で彼女はまだ正常だ、だが、自分の死を目指して歩いている人間が正常と言えるのか、それも怪しい事だった。彼女は、汚れた自分を捨てるために跳んでいる。飛ぶ動作一つ一つで、汚れていない存在、天使に近付けるとでも言うように。少なくとも、白い世界で、純粋な思いを胸に、透明な風に導かれ、静かに無駄なく飛び続ける彼女の姿は、天使そのものの様であった。彼女の涎は、目から流れ出る人間の涙ではなく、人間の瞳からは流れ出ない天使の涙だったのかも知れない。




