第四節「ファースト・ナイト・ウィズ・スカイズ・ホワイト」
非透明愛は、もうその人にとっては愛なので本当に追求しなくてはならない透明愛の追求をそこで止めさせる、だがしかし彼女は間違い無く透明愛への追求心を、状況に持たされているかどうかはともかくとして、持っている。この状況が一体何処から来るのかと言えば、彼女が女の色香に惑わされている男ではなく、男の色香に誘われている女である、と言う所からだ。男が女の色香に惑わされる分には問題無い、そこに危険性が介在しない、男が女の色香に惑わされていざ事に及ぶ事になったとしても男側には何も喪失に対する心配を持つ必要が無い、男は女の振りまいた空中愛液が空中愛液のままで構わないのだ、それが本当の愛でなくても、それが本当の愛液で有れば、男に性の感動を与えてくれる存在愛液でありさえすればそれで状況は完璧なのだ、そこで彼の状況に関する保身思考はストップする、男であれば誰でも精神的愛液を見せた女に飛びつきそして精神的結合に見せかけた肉体的結合に事を運ぼうとするだろう(ちなみにここで扱っているのは非透明愛つまり色香なので男性にも当然ある真の精神結合欲求、透明愛の追求においてはこの限りではない)。だが彼女は違う、彼女は女だ、たとえ男の色香に惹かれて状況を事に運びたくなったとしても、もし男の見せつける物が単に色香でしかなければ彼女には警戒心が働く、この男との結合に及ぶ事になった時の自分の喪失と獲得を同時に見て、喪失の方が明らかに重いと言う場合において彼女の心はその男との事に関して了解しないだろう、男の空中愛液を睨み付けたり、目を背けて見たり、そして処女の場合自分の男と共には無かった貞操の道を振り返ってみたり、何らかの拒否反応を示す筈だ、女性にとって男性の愛液とは、恐怖だ、異物だ、愛と言う天使の顔をした支配翼の悪魔だ、そして彼女にとって今、その愛液とは、目の前に位置しつづける白い渦、空中愛液の渦だ。
この空のおかしな点、それは、かなりの高さまで飛翔した彼女が何故今になっても振り返ったときに彼女がこの狂気の空と言う男に魅入られる前に純潔であり続けた場所、地上を見ることが出来るのか、つまり、何故、雲が地上を彼女の視界から覆い隠してしまわないのか、と言う点だ。それは、雲が全部我先と白い渦の構成部位としてそれに成りに行こうとしてしまっているからだった。だからあれはある意味只の雲の渦なのだ、だが何故、先に言ったように只の雲の渦よりも圧倒的に扱っている物理要素が多いのか、それはこの雲達が自分たちが雲であった事を放棄しているからだった。雲の役割は、単純に雨を降らせることだ。雨と言う行為で常に地上との友好関係を守ってきたはずの雲、それが皆をして今度は空の渦の中へ雨を降らせようとしてしかしそんなもの降らせることができる訳が無いから液体を自分の中に溜め込んで遂には白いゲル状の空中愛液になってしまった。雲の渦は、雲が、渦である、という事以外に見るべき物理要素が特に無いが、この白い渦に関しては、雲を雲でなくさせる何らかが、雲を渦にさせている、雲を雲でなくさせる何らかが、雲の渦の真ん中に彼女を誘い込もうとしている、そう雲の愛液が空の渦の真ん中に来ようとしている彼女への射精への期待感に小躍りしながら渦巻いて、彼女を誘い込もうと自分の愛液の魅力をこれでもかと彼女に見せ付けているのだ、扱う物理要素が、同じ規模の中で無生物的であるものから生物的なものへと変貌しているならそれが圧倒的に多くなるのは当然だ、特に雲を雲で無くさせている彼女を渦の真ん中に誘い込もうとしている何らかは空の新要素としてはあまりにも新し過ぎる、巨大過ぎる異物なのだ。それを彼女は睨んでいたのだ、目を背けていたのだ、地上を振り向いて、自分のかつての純潔を思い出して自分の心を何とか正常に保っていたのだ。それは愛液を顔面に掛けられてしまう膣内に注ぎ込まれてしまう前の女のささやかな抵抗、処女だけが持つ男性の性支配への敵対心、処女の凛だ。顔面に掛けられたり膣内に注ぎ込まれたらその時点で終了してしまう女としての純潔を彼女はまだ守っている、彼女はいずれ抵抗するまでも無く愛液を顔面に掛けられたり膣内に注がれたりする事実を知っているが、それでも今はまだその状況には無い、彼女は性行為への最後の抵抗をする、処女を今正に捨てようとしている少女だった。
だが、その抵抗はいまやもう、危い。今、世界は初めての夜を迎えた、空と、彼女の、記念すべき最初の夜、初夜だ。夜、それは黒い、しかし彼女にはそうと見えていない、白と黒の中間色、灰色の夜が何処までも広がっていた。彼女はこんな光景を今まで一度だって見たことが無かった。見たことが有るとすれば、灰色を孕んだ雲が全天を覆い尽くしているような状況、それが有る位だったが、今は夜だ、灰色を孕んだ雲の灰色も黒に沈んでいなくてはおかしい状況なのだ、それでも彼女の目にはくっきりと、灰色の周囲が映っていた。彼女の目は、もはや手遅れだった。雲の愛液を見すぎたせいで、世界を色を的確に捉える事が出来なくなっていた、彼女は空の純愛に汚染されきっていたのだ。彼女は、空に抱きすくめられてからの十時間余り、一度として涙を流したり笑ったりした事は無かったが、今は、頭を抱きかかえて、泣いて、笑ってしまっている。もう彼女は知った、彼女には二度と、いろんな異常を喜んだり悲しんだり出来る笑う事泣う事が与えられない事を。彼女は状況を諦めたと言ったが、それは諦めと言うよりも、我慢だ、諦めと言う状態が真に深まると、心の何処かからまだ諦めていなかった自分が急に浮上してくる、当然だ、生きている人間で、何か決定的なことを完全に諦めきれる人間はいない、食べる事を諦めても絶対にそれを諦めてはいないし、性の結合を諦めてもそれを諦めてはいない、普通に生きることを諦めてもそんな事をしている事自体が諦めていない事の何よりの証拠だ、諦めと言う言葉は、何処までも仮初だ、自分の中で欲望と言うわがままな子供をあやす理性と言う親、これが諦めと言う行為における構造だが、この理性と言う親には何か決定的なものというものが無い、理性は、生きていく上での絶対条件ではない、欲望がちゃんと成立していなければ、子供が満足に生きていくことが出来なければその存在理由が全く無い立場だからだ。言い方を変えれば、理性にとっての決定的なものとは欲望なのだ、親にとっての最優先事項は子供なのだ。今、彼女の中の子供が死んだ。普通に生きていくと言う欲望が、たった今親の目の前で息を引き取った。彼女の中には今はもう、拠り所の無い決定的なものの完全に欠如した親が只一人、正常に知覚出来ない完全に黒い訳でも白い訳でもない全く決定的な感じのしない灰色の無気味な温もりの中で怯えているだけだ。普通と言う子供を無くした彼女に対して、この空と言う子殺しの雄獅子は彼女と今度は異常と言う名の子供を儲けようとしているのだ。彼女はこの求愛に対し、どうゆう返答を取るだろうか。今この場で舌を噛み切って雄獅子の支配から逃れようとするだろうか、それともまだこの雄獅子の愛の間違っている事を言うだけの気力が残っているのだろうか、彼女の空の黒き純愛に侵食された瞳の奥には、いまだ黒に染まっていない不透明な思いが残っているのだろうか。その回答を持っているのは、恐らくは今の彼女ではない。この夜を越えたところにいる、精神的な破瓜をされた後の、処女の純潔を捨てた後の彼女だろう。彼女に今出来る事は、心の流す処女血を眺めながら、まだ自分の事をぬくもりで包んでくれる風の耳元を過ぎ行くのを聞く事だけだった。




