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神ニ捧グ

作者: 安栖 咲

 洞窟は、天井は遥か高く一点に向かって窄まっていた。その一点には穴が空いており、一筋の光が漏れている。それは真っ直ぐ洞窟の湖に降り、宙に漂う埃を美しく照らし出していた。

 湖の色はまるでサファイアの様に蒼く、辺りをその色に染め上げている。洞窟には風は吹かず湖はしんと凪いでいた。


 そんな中を、音も立てず歩く少女が、一人。膝よりも少し長い白い服を纏い、金色の髪を腰まで垂らしている。足音が立たないのは、少女が裸足だからか。抜けるように白い少女の肌は薄暗い洞窟の中ではぼんやりと浮き上がって見えた。


 少女はためらいもせず、凪いだ湖に爪先を入れる。途端に湖は大袈裟なまでに大きく波紋を広げていった。幾重にも広がっていく波紋には目もくれず、少女は歩を進める。

 服の裾は水に入った途端、ふわりと広がった。そして水を吸った布はゆっくりと沈み、少女の肌に張り付く。徐々に水を吸い上げていく服は、しかし少女の歩みには追いつかず湖に埋もれていった。


 腰まで水に浸かった少女は両手でそれを掬い、淡く色付いた唇で受け止める。澄んだ水を飲み干すと、少女はほぅと息を吐いて微かに身震いをした。湖の水が冷たいためだ。

 しかし少女は膝を折り胸元まで浸かってしまう。そして祈るように手を組み顔を俯けた。

 暫しの静寂。それを破ったのは少女ではなかった。湖の近く、人ひとりが十分に隠れられる程の大きさの岩の方から衣擦れの音がしたのだ。音の主はその存在を隠そうとは微塵も考えてはいないようだ。

 少女ははっと息をのんで立ち上がり、そちらに身体ごと振り向いた。素早い動きにあわせ、長い髪から雫が飛び散った。


「誰です!」


 激昂した声に怯むでもなく、人影が姿を表した。少女はその人物に警戒を露わに拳を握る。


「禊ぎはまだ終わっておりませんが、何用ですか」

「あら、まだ終わってなかったの。ま、いいわ。ねぇ、今日は3人が山からの落石で死んだそうよ」


 まるで天気の話でもするような言い草に、少女の顔は蒼白になった。

「それだけですか」


 食いしばった歯の隙間から出した声に、女は意地の悪い光を目に宿す。そして大袈裟に目を見開いてみせた。

「まあ、それだけ、だなんて。人の生死の話をしているというのに、あなたって人は」

 そして腕を組み、無遠慮に少女を眺め回した。


「ちょっと、前くらい隠したらどうなの?はしたない」

 少女はかっと頬を赤らめ、慌てて髪を胸元に垂らした。水に濡れてぴったりと身体に張り付いていた服は、少女の肌を透かしていたのだ。

「禊ぎの最中に入ってきたのはあなたです!それを、さも私が破廉恥女か何かであるかのように!」

 悲鳴のような怒声を浴びた女は、しかし片眉を上げるだけに留めた。騒ぐ少女など眼中に無いのだ、とでも態度で示しているようだ。


「ともかく!禊ぎはまだ終わっておりません、お帰りになってください!」

 少女は女の後ろを指差すと踵を返し、湖に差している一筋の光の中へ入る。女はわざとらしく溜め息を吐くと大人しく洞窟の入り口へ向かった。


 「……お許し下さい」

 ぽつりと呟かれた少女の言葉は、誰の耳に入る事もなかった。



 禊ぎを終えた少女は数人の娘の手を借り、美しく着飾っていた。豊かな金髪は複雑に編み込まれ、銀色の小さな髪飾りが所々に散りばめられている。額には真珠のような石が垂らされ、顔に薄化粧を施している。

 着ている服は純白だった。細やかなレースが肩から指先までを覆い、大きく開いた胸元は何の飾りも付いていない。そのすぐ下からはふんわりと広がり、水の流れを模した刺繍が縫い付けられていた。裾は爪先を隠す程に長いが動きを極端に阻害するような作りではなく、寧ろ少女の動きに合わせて広がるよう計算されている。

 背中は大きく谷型に空いているが、その型に合わせて腕の付け根から薄いベールが長く伸びていた。それは地面についてもなお飽きたらず柔らかに広がりながら人ひとり分の長さが余っていた。


 少女は磨き上げられた鏡に自身の姿を映し、睫毛を伏せた。少女の憂いた表情は少女の気持ちとは裏腹に美しさを一層増した。


「見て、何て美しいの。贄にぴったりじゃない」

「しっ!聞こえるわよ。ご覧なさい、あの顔。贄に選ばれたのが不満なのだわ」

「あんなんじゃ、生贄を捧げても意味ないんじゃないの」

 少女から少し離れた場所では年嵩の女達が少女を値踏みしていた。少女は瞼を震わせ、涙を堪える。


 —―私だって、好きで贄に選ばれたわけじゃないわよ


 半ば自棄になったような心境で声には出さず、呟く。少女は何処にでもいるごく普通の村娘だった。しかし度重なる厄災から村を守るために厄災を呼ぶ獣への生贄として選ばれたのだ。

 少女の背丈ほどもある大きな窓から空を見上げ、少女は潤んだ瞳を高く昇った月へ向けた。金色の光を放つ月は消えてしまいそうなほどに細く欠けている。あれが霞雲に覆われた時、少女は贄となりに山中の洞穴へと赴くのだ。


 洞穴には古くから、厄災を呼ぶ獣が住むと言い伝えられている。そして数百年に一度生贄を求め、麓の村へ厄災を呼ぶのだ。

 本来であれば、生贄というのは満月の日に捧げられることになっている。しかし迷信深い少女は伝え聞く厄災の獣を恐れ、獣の力が最も薄れるとされる新月を待ちたがった。

 だがそれは村にとって最悪の決断に他ならない。獣の力が薄れたとしても少女が贄になるということに変わりはないのだから。少女とてそれは理解しており獣を倒すことが出来るなどとは微塵も思っていない。しかし僅かでも恐怖が薄れるのではと希望を抱いていたのだ。


 新月は明日だった。しかし、村を災いから守り、村の行く末を導く巫女が昨晩遅くに亡くなってしまった。少女はもう、引き伸ばすことなど出来なくなってしまったのだ。

 やがて、村の巫女見習いが呼んだ霞雲が月を覆いだした。少女は顔を隠すための薄布を被り、歩きだした。目指すは岩肌の露出する獣の住む山。村から山の麓までは村人が総出で篝火を焚いて列をなしている。そして洞穴の入り口までは巫女見習いが贄のベールを持って付き従うのだ。



 「さあ、先へ」

 促された先は完全なる闇。少女を飲み込まんと大口を開け、今か今かと待ちかまえている。少女は深く息を吐き出し、振り返って巫女見習いの少女を見やった。

 深紅の衣を纏った巫女見習いは、その年齢にそぐわない無表情を保っている。十か、十一か。そんな幼さを残した顔立ちは既に巫女のそれだ。しかし恐怖は隠しきれていない。

 巫女見習いの少女を見つめながら少女は思った。きっと、この子は私同様鏡を見ている気分なのだろう、と。


「さあ、これを」

 少女は震える指先で顔を隠していた薄布を巫女見習いに渡した。この先へと進む贄には顔を隠す薄布など何の意味もない。薄布は麓まで独りきりで降りる付き添いの巫女見習いに渡すのが慣習だった。無事帰ることが出来るよう、贄の少女は祈りを捧げ、巫女見習いは村へ帰る。古くからそう決められていた。

「では、私から祈りを」

 少女が指を組んで告げると巫女見習いは厳粛に頷いた。


「私の血が、そなたを護るでしょう」


 少女は指先を噛み切って血を一滴、薄布に擦り付けた。巫女見習いは恐怖ともすすり泣きとも思える音を上げ、一歩下がった。そして片膝を付いて深々と頭を下げる。

 少女はそれを見るとさっと踵を返した。やるべきことは全てやった。あとは、贄となるだけだ。洞穴の中で何が待っているかは分からない。


 巫女見習いが立ち去る微かな足音を聞きながら、少女は深く俯いた。その間も、足は止めない。足を止めたら二度と動けなくなるか村まで逃げ戻るかだと自身でも分かっているから。

 心臓の音に合わせて殆ど駆けるように進む自分の足音を聞く。外の明かりは既に届かなくなって、目も闇に慣れていた。とはいえ、余りに暗過ぎて何も見えないが。運がいいのか、と少女は思った。獣の姿など見てしまったら、どんな失態を晒すか分かったものではない。

 もうどの位進んだのか。道は随分と前から下っていて今頃は地面を潜っている頃なのだろう。村から山までの道を何往復もするほどの距離を歩いているのではないのか。少女は胸元で強く拳を握りしめた。


 ――そして。


 少女は突然歩みを止めた。何かを聞いたのではない。何故なら自身の鼓動で足音ですらかき消されてしまう程だったのだから。何かを見たのでもない。何故なら相も変わらず少女は闇に捕らわれていたのだから。

 少女は、熱い風を感じたのだった。ぶわり、ぶわりと定期的に吹いてくる不快な風。生臭い悪臭も共に漂ってくる。


 恐る恐る顔を上げた少女は恐怖に目を見張った。少女の背丈の倍ほどの高さに赤く光る一対の瞳があったのだ。

 厄災を呼ぶ獣だ、と少女はまるで他人事のように思った。正面から送られてくる風は位置を変え、少女の頭を僅かに掠る程度となった。獣も自分に気づいたのだ。少女は一歩、また一歩と後ずさった。

 じゃり、と重々しい音も動く。ぐるぐると腹の虫が低く唸った。きっと少女の香りを嗅いで食欲をそそられたのだろう。

「あ、あぁ………」

 小さく呻いて少女はその場にへたり込んだ。逃げる気力などない。自分は死ぬのだ、と確かな現実味が感じられた。



「あああああああああああっ!!」




 恐怖と激痛にまみれた少女の断末魔は、山を下る巫女見習いの少女ただ一人が聞き届けた。

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