3Carat 病の少女はサーカス色の夢を見る
3Carat 病の少女はサーカス色の夢を見る
「レディース!アーンド、ジェントルメーン!それ以外の方もーーーーもちろん、ウェルカーーム!!」
ステージの上でまぶしいスポットライトを一身に受けて、道化はおどけてショータイムを告げる。
パパーーーーーーーーーーーン!
人の身長ほどもある巨大なクラッカーが、一斉に鳴らされ、色とりどりの紙ふぶきや紙テープが空中へと盛大に飛散する。
「わあああーーーーーーーーー!!」
歓声があがる。
「いたたた!こらこら!私に当ててどうする!?」
クラッカーの一つが彼に向けられたようで、紙テープでぐるぐる巻きになって、紙ふぶきまみれになっている。
観客席からはどっと笑いが起きた。
犯人の団員はてへっと舌を出す。道化は、まったくもうっ、と腰に手を当てる。
「まあまあ――」
道化は勢いよく、くるっと一回転する。彼の銀髪が優美に弧を描いてなびく。
それに合わせて、彼の体を覆っていた紙テープも紙ふぶきもフッと消えた。
「わああああーーーーーーーーーーーーーーーー!」
ひときわ大きい歓声があがる。
「何はともあれ!Cirque de Magiciensがおくる夢と魔法の楽しい時間の始まりだーーーーーーーーーーー!」
―――-少女は、静かに寝返りをうった。
「クラース~~まだ怒ってるんですかあ~?」
「ふんっ」
クラースは、もこもこした白い羽毛を、怒りでさらにもこもこにしていた。
百合は、今朝方見かけた、近所の子どもたちの力作である、大きな雪だるまを思い出した。
不謹慎にも吹き出しそうになるのをやっとこらえて、
「ごめんなさい、まさかこんなことになるとは思わなくて……」
と、許しを請う。
「百合のせいではない!今、俺の目の前にいる、この全く悪びれていないすまし顔をした、こいつだ!」
アクワマリンとペリドットの鋭い眼光を向けた先には、文字通りすました顔のイレールがいた。
手袋をはめ、白い布で平然と宝石を磨いている。
「俺は人の食べ物が、大っ嫌いなのだ!」
百合はさっきまでの一部始終を思い出した。
昨日訪ねて来た少年の心を救うべく出かけた先で、彼へのお土産にと、梟の彼になぜかコロッケを買ったのだ。
彼女が今日、来たところ、お腹を空かせたクラースがいた。
それをイレールに告げると、意味深な微笑みを浮かべ、クラースの食事―――生肉、に小さく切ったコロッケをはさみ――彼に差し出した。
何も知らない空腹の彼は一口でこれを頬張ろうとした――が、「ごおっほ!」っと、激しく咳き込みだし、店内をバッサ、バッサと飛び回って天井に頭をぶつけ―――落下したのだった。
「好き嫌いはいけませんよ~。」
「そういう問題ではない!考えてみろ、人間でいうとパンの中に昆虫が入っていたようなものなのだぞ!」
それを想像するとぞっとする。
百合はもったいないと思って残りのコロッケを口に入れた。
ご丁寧にも温められてホクホクのコロッケはとても美味しい。
自分たちにしてみれば美味しいものも、別の生き物からすれば、ゲテモノになってしまうんだなと思った。
クラースがイレールを口ばしで小突く。
「いた!わわ、ごめんなさい、ちょっとやりすぎました!痛い痛い、ごめんって。」
「聞かぬ。時々、びっくりするほど悪ガキになりおって!昔からそういうところだけは、変わらぬとはな!」
イレールとクラースの攻防が始まった。
クラースが舞い上がり、鋭いかぎ爪をイレールに向けて、飛び回る。
イレールも抜群の反射神経で器用に避け続ける。
「悪ガキに制裁を与えるのだ!動くな!」
「そんな物騒なもの向けられたら、誰でも避けます!」
「あ、危ないですよ、二人とも!」
百合が間に割って入ろうとするが、二人はどこかこの状況を楽しんでいるような表情であった。友人とじゃれあっているだけなのだと気づき、見守ることにする。
「そういえばクラース、最近太りましたよね?ちょうどいい運動になってるんじゃないですか~?」
「なにを!これは冬用の羽毛なのだ!断じて太ってなどない!」
「相変わらず仲がいいな。」
「そうですね。…………………って、わあっ!」
百合は、誰もいないはずの隣から、いきなり聞こえた声に、驚いて倒れそうになった。
それを声の主は「おっと」と、彼女の肩を受け止める。
気持ちを落ち着けながら、体制を整える。
「ははは、驚かせて、すまないね。」
「いいえ、誰もいないと思っていたので……」
顔を上げた先には、ずいぶんと派手な格好をした長身の怪しい男が、ニヤニヤしながら立っていた。
装飾のない白い簡素な仮面で顔の上半分を覆い、口元からしか表情が窺えない。
赤を基調としたスーツには袖口に紫や黄色、オレンジの刺繍が走り、腰にはスカートのように広がったオレンジのショールが巻かれ、それの端のほうは、赤と黄色のレンガ模様になっている。
またそのショールの上から、水色と白のストライプの大きな長い布が、背中でリボン結びに結ばれて、地面に着きそうな位にその端がきていた。
肩にも赤紫のショールがマントのように巻かれ、そこにも、その下に合わせた水色と白のストライプのショールがリボン結びにされ、首元を飾っていた。
頭には南国の鳥を思わせるオレンジと青の羽がついた赤いシルクハットを被り、銀糸のような長い銀の髪が、ゆったりと背中に流れている。
「あ、来ていたんですね、クラウン。」
クラースが頭を狙うのを器用に避けながら、突然の来訪にも動じることなく声をかけた。
どうやら、彼は知り合いらしい。と、いうことは彼も魔法使いなのだろう。
「お邪魔するよ。」
クラウン、と呼ばれたその男は手をヒラヒラさせて挨拶する。
「さすが魔術師と死神のハーフです。今日も全く気配が感じ取れませんでした。」
死神という、あり得ないような言葉に驚くが、悪い人ではなさそうだ。
イレールの魔法で助かった彼女にとって許容の範囲内であったのか、動じなかった。
―――――クラースの動きがピタッと止まった。
ショーケースにとまった彼は目を瞑って肩を震わせている。
「お前は……お前は……」
「大丈夫ですか……?」
声をかけづらい雰囲気の彼に、遠慮気味に百合が声をかけた。
クラースの目がカッと見開かれた。
「どの面を下げて俺の前に現れたのだああああ!」
すごい剣幕だ。
冷静で理知的な印象を持たせる彼からは想像できない。
「どの面って、この面さ。」
平然とクラウンは答える。
「俺のいつもの定位置に……こともあろうに鳥もちを仕掛けおって!おかげで屋根から落ちたのだぞ!もし、百合が来てくれなかったらと思うと、ぞっとするわ!」
どうやら、クラースがけがを負ったのは彼の仕業らしい。
「プッ!鳥のくせに屋根から落ちたのかい。面白い話だな!」
悪びれもしない態度に、クラースの怒りが最高潮に達する。
今日は彼の厄日なのだろうか。
「制裁を受けるべきは、お前だあああ!」
標的を変えた猛禽類が、勇ましくクラウンのもとへと滑空する。
「危ない!」
百合がはっとした時には――彼はそれを素早い身のこなしで、いともたやすく避けた。
「威勢のいい猛禽類だ。考えもなしに突っ込んでくるとは。理知的なのは見た目だけかい?ま、私は少し遊んでやっても構わないよ。」
仮面の奥の瞳が赤く、怪しく光った。
まがまがしいほどの殺気を放つ。
先ほどのおどけたような口元の笑みではなかった。
――――ニタリ
冷徹で不気味な笑いに、百合は怯えて固まった。
生きとし生けるもの――それらすべての魂を、ためらいなく狩る存在。
やはり、彼は――――死神。
「やめてください!百合さんの前です!」
珍しく声を張り上げたイレールが彼らの間に割って入る。
「むう」
「はっはっ、冗談さ」
さっきの不気味さが嘘のように、ケロッとした顔で、クラウンが気さくに笑った。
クラースは納得いかなさそうだが、渋々、落ち着く。
カウンターに紅茶を並べ、三人と一匹で囲んだ。
クラウンはふんぞり返って椅子に座り、紅茶を楽しみながら、百合を興味深そうにじっと見ている。
視線を感じて落ち着かない。
「あの……私の顔に何かついてますか?……」
仮面をつけた顔がじっとこちらを見ているのは、気になって仕方がなかった。
「ああ、何でもないさ。ただイレールが人間を雇ったのに驚いてね。どういう風の吹き回しかと思ったが、君を見て納得したよ。……良かったじゃないか、イレール。」
マロングラッセを小皿に分けようとしていたイレールは、持っていたフォークをカチャンっと、落としてしまった。明らかに動揺している。
「……クラウン!ちょっと!」
頬をわずかに染めた彼がキッチンへとクラウンを招き寄せる。促され、面倒くさそうに立ち上がる。
「……もしかして、話していないのかい?」
「はい……。あの子、私のことを何となく、覚えていてくれているんです。」
「おお!いいことじゃないか!……なのに話さないとは?」
「今の私には話す勇気がないんです。きっとあのことを話したら、もっと私のことを知ってほしくなってしまう。あの子の人生に、どんどん介入したくなってしまうでしょう。でも、それを彼女が望んでいなかったら?あの子の人生に影を落とす結果になってしまったら?……あの子はそれほど大事な存在なんです……」
「でも、こちら側に招き入れたのは、彼女と時をともにしたかったからだろう?お前の念願だったじゃないか。」
「それは…………、彼女といるだけで私は幸せなんです……少なくとも今は。それじゃダメでしょうか?……」
ブルーサファイアの瞳が険しく、悲しげに瞬く。
クラウンはハアっ、と息をつくと、彼の肩をポンッとたたいた。
百合がキッチンのドアをノックし、何か手伝うことはないかと聞いている。
ドアのほうを一瞥して言う。
「私が口をはさむべき話ではないが、今はそれでいいんじゃないか?お前がいいなら。」
イレールは力なく微笑むしかなかった。
「すみません。お騒がせしました。」
キッチンから出て来るころには、彼はいつもの微笑みに戻っていた。
「なかなか出てこないので、心配だったんです。その……良ければ、その方を紹介して欲しいです。不思議な格好なので気になって……」
ちらっとクラウンのほうに視線をやる。
「私のことが気になるとは、物好きな嬢ちゃんだ。私に惚れたかい?」
「そういう意味じゃないだろう。」
クラースが冷静につっこむ。
「分かっているとも。私は魔法使いだけで結成されたサーカス団、Cirque de magiciens の団長をやっている。名前は無いから、道化でも道化師でも、クラウンでもジョーカーでもアルルカンでも、好きなように呼んでおくれ。因みにイレールはクラウンと呼んでいる。」
へらへらしながら、握手を求める。
「篠原百合です。ここでバイトをさせてもらっています。サーカスの方なんですね。その格好も納得です。でも、名前がないのはどうしてですか?」
握手に応えながら、不思議そうに尋ねる。
「――――――それはね、捨てたのさ。ずっと昔にね。」
「え?」
気になる物言いだが、その声には、これ以上の介入を許さない含みがあった。
あまり込み入ったことに立ち入るべきではないと思い、それ以上は聞かない。
「百合、こいつは超がつくほどの変態だから、近づかないほうがいいぞ!何されるかわかったものじゃない!」
クラースが威嚇するように羽を広げている。
「うん、私は変態だ。だがね、相手も自分も楽しいと思うことしか、していないつもりさ。道化は笑顔を届けるのが仕事だからね。」
マロングラッセに舌鼓を打つべく、椅子に座ったクラウンがひょうひょうと答える。
「そこまで毅然とした態度で変態と認めるのは、どうかと思いますが……、私にとって兄のように頼れる友人なんですよ。」
イレールが呆れたように苦笑いしながら、補足した。
百合もそこは否定してほしかったと思った、が、イレールにとって頼れる友人であるというクラウンを信用しないはずはなかった。
「そういえば、今度はこの町で公演をするそうですね。前回はドイツだったのに、いきなり日本まで来て、しかもあまり都会ではないこの町でするのは、些か不自然かと……何か理由があるんですか?」
アールグレイの匂いを楽しみながら、イレールが落ち着き払って尋ねた。
「えっ!クラウンさんのサーカス団、来てくれるんですか!うわあ!観たいな!」
百合が思わず身を乗り出しながら、歓声をあげる。
「うれしいね~~ぜひ観においで。ほら、招待券をあげよう。二枚あるから誰か誘うといい。」
「やったあ!ありがとうございます!」
招待券を受け取りながら、はしゃぐ微笑ましいその姿に二人と一匹は目を細めた。
クラウンはイレールに向き直ると、
「本当にお前は鋭い。それはね、ある女の子との約束を果たすためさ。病に蝕まれた、かわいそうな女の子との、ね。」
クラウンは昔を懐古する。
「あれは十三年前だったね――」
今から十三年前のこと、クラウンが統率するサーカス団、Cirque de magiciens は、この町で公演を行った。
公演は連日満席で大成功を収めた。最後の公演の日、いつものように団員全員で観客を見送っていたところ、小さな女の子が彼のもとへと駆けて来た。
「どーけさん、あのね。」
子どもは大抵、仮面を怖がって近づいてこないものだが、その子は違った。
めずらしいこともあるものだと思う。
「どうしたのかい?嬢ちゃん?」
恐がらせないように、優しい口調で話す。
「わたし病気なんだ。肺ってところが悪いんだって……完全に治すには二回手術しないといけないの。三日後、一回目の手術なんだ……」
「それは……君はその小さな体で、一生懸命闘っているんだね。」
「……うん。手術、すごく怖くて、ずっと泣いてたんだけど、今日パパが特別にここに連れて来てくれたんだ。そしたら、すっごく楽しい気持ちになって、手術もがんばれそうな気持ちなの。どーけさんたちのおかげだよ。」
「ありがとう。それは、サーカス団員全員の幸せだよ。」
膝を折り、少女と目線を合わせる。
「それでね……お願いがあるの。」
「何かな?」
クラウンは少女の頭をなでてやる。
少女はくすぐったそうにしながら言った。
「二回目の手術は私が十八歳になる年の冬なんだ。今度はもっと大きい手術だから、きっと私、怖くてまた泣いちゃうと思うの。だから……また来てくれる?」
死神の血が半分流れる彼は、望めば人の死期を知ることができる。
この少女への心配からその能力に頼ろうとするが、ばかばかしいと思ってやめる。
「もちろんだ。約束しよう。」
騎士のように少女にかしずき、胸に手を当てて誠意を表す。
「ほんと!?じゃあ、十三年後にまた来てね!約束だよ!」
澄んだ濁りの無い瞳をきらきらさせた。
遠くで彼女の両親が呼んでいる。
「行かなきゃ。じゃあね、どーけさん!」
少女は彼のもとから駆け出す。
「お待ちなさい!君の名前は何だい?」
走っていく少女の後姿に尋ねる。
「前橋千代美だよ!またね!絶対だよ!」
振り向いた彼女は、屈託のない笑顔だった。
「―――――そして今年、私は約束を果たすために、ここに来たってわけだよ。」
思った通り、彼は優しい人だと、百合は思った。
仮面で表情を隠し、右手でフォークを退屈そうに弄んでいるが、声からは慈愛が感じられた。
「でもね、町で一番大きな病院にいるだろうと思って、様子を見に行ったのさ。窓からそっと覗いてね。そしたら、彼女、完全に滅入ってしまっている。部屋に籠りっきりで、ずっと浮かない顔をしているもんだから、彼女の死期を見てしまおうかと思ったよ。でも、怖くてできなくてね。そもそも、この子が十三年前の約束を覚えている保証もない。覚えていても、サーカスを観に来てくれるのか。観に来られないほど病気が深刻なものだったら……心配事が溢れて来たよ。あれから毎日様子を見ているが、何も変化はないね…だから……もしかしたら、お前の力を借りることになるかもしれない。」
「その方が希望を完全に失っているのなら、私にはどうすることもできませんが、貴方の頼みです。全力で力になりますよ。」
「すまないね。心強いよ。」
イレールがきりっとした表情で、力強く了承する。
マロングラッセをフォークで差し、悠々と口に入れようとしていた彼だが、パッとそれを急いで口に入れた。
「あ、まずい。私はここらで、おいとまするとしよう。」
急に立ち上がると、いそいそと帰り支度を始める。
「ああ、道化よ。今日も迎えが来たな。さっさと引きずられて行ってしまえ。」
クラースが右羽でしっしっと、あっちへ行けと促す。
「また、仕事をほっぽり出して来たんですか?彼女、きっとかんかんに怒っていますよ。公演前で忙しくないのかとは、思っていましたが、クラースからの制裁は免れても、彼女からの制裁は免れられないですよ~。」
二人があーあっと呆れているのをしり目に、百合は彼女とは誰だろうと思っていた。
「じゃあ、鬼神が来る前に、おいとまするよ。」
クラウンが手を振った時だった。
「鬼神って誰のことかしら?」
――――スパッ!
声とともに、風を切る音がしたかと思うと、クラウンのシルクハットが下に落ちた。
そばにはダイヤのエースのトランプが落ちている。
「レ、レディ~……」
クラウンが情けない声を出して見つめているのは、仮面舞踏会の会場から飛び出したかのような優美な女性だった。
それも舞踏会の花と言われそうな。
ビビットピンクのラインストーンが散らばる蝶の形の派手な仮面で顔の上半分を隠し、水色に緑がかったトルコ石を思わせる癖の強い髪は後ろでポニーテールにされ、上品に渦巻く。大きく肩の出た露出度の高い、海のようなブルーのグラデーションのマーメイド・ドレスを着て、耳にはパールのイヤリングをつけている。
彼女は派手な水色のファーのついた扇子で口元を隠し、仮面越しに、自分の上司――クラウンを冷やかに見つめていた。右手にはトランプの束が1デック握られている。おそらく、彼女がクラウンの帽子めがけてトランプを投げたのだろう。
「きじんってあれだよ!貴人のこと!地位の高い人のことだよ!」
ひょうひょうとした余裕を無くし、彼が、何やら精一杯弁解している。
「あら、そう?私には鬼のほうに聞こえたけれど?知っているのよ。私のこと裏で鬼、悪魔、鬼神って呼んでいるってこと!」
「あー…はは、それは~」
目が泳いでいる。
イレールたち残り三人は、その滑稽なやり取りに笑いをこらえるのに必死だった。
「そ、れ、と、何より!あなた今回の公演は力が入ってるって言ってたじゃない!珍しく真剣に言うもんだから、私たち団員は張り切って準備を進めているのよ!?一方で、当の本人はときたら……仕事を抜け出してマロングラッセ食べてんのよ?!なにこれ?これが力の入った人のすること?ちがうでしょーーーーーーーーー!」
彼女はクラウンの肩を掴むと、彼の頭をすごい勢いでぐらんぐらん揺らした。
頭が盛大に揺らされていても、弁解は止めない。
「ちがうんだってーーーー!力が入っているからこそ、ここにいるんだよーーーーーー!」
こちらは弁解に必死た。
ことの収集がつきそうにないので、イレールが止めに入る。
「レディー・アーレイさん、彼は本当にしっかりした理由があって、ここにいるんです。それくらいにしてあげてください。」
「……まあ、イレールさんが言うのなら、一応やめるわ。まだ言い足りないけど。」
渋々、彼の肩から手を放す。
「うっぷ……」
頭を振り回されたクラウンは気持ち悪そうだ。
「あら?かわいらしい子ね~新人さん?」
彼女――レディー・アーレイは百合の存在に気づく。
「レディー・アーレイよ。ジョーカーのもとでサーカス団員として働いているわ。担当演目はトランプ投げ。よろしくね!」
ジョーカーとはクラウンのことだろう。
「篠原百合です!ここでお世話になっています。わぁ~!きれいですね~レディー・アーレイさん!」
女なら誰しも憧れてしまう気品に、百合はうっとりする。
「あら。ありがとう♡でも、あなたは私以上に美人さんだと思うわ。仲良くしましょう!私はかわいい女の子が大好きなの!」
そう言うとぎゅ~っと抱き着いてきた。
「アーレイさん!?」
彼女は見た目に反して、天真爛漫で人懐こい性格のようだ。ベルガモットの香水の匂いにさらにうっとりしながら、
「私で良ければ、喜んで。」
と、頬を赤らめて言った。
「うーん満足した!………ほら、帰るわよ!お邪魔したわ!」
赤くなって固まっている百合の拘束を解くと、床に気持ち悪そうに突っ伏している上司の背中と彼のシルクハットをひっつかみ、入り口へと引きずっていく。
「あんまり虐めないであげてくださいね……。クラウン、明日、伺いますから、話の続きは明日にしましょう。」
クラウンは引きずられながら、力なく手をヒラヒラさせている。
「クラウンさん、お大事に!」
何と声をかけたらよいか分からなくて、とりあえず、そう声をかけた。
――パタン
ドアが閉まった。
「うむ、今日もレディーの制裁は素晴らしかったな!」
クラースは晴れ晴れとした表情をしていた。
昨日と違って今日はにぎやかであった、
二人はお茶の時間を再開する。
クラースはカウンターにとまって昼寝を始めた。
「この店には、どんな人が来るんですか?」
改めて聞いておこうと、イレールに尋ねる。
「色んな人が来ますよ。ほとんどが、私が救える見込みのある心に傷を負った人間ですが、私の友人も時々顔を出してくれますね。クラウンは一週間に一度は来て、クラースをいじって帰りますよ。あんな感じでね。そのほかにも、純粋に宝石やジュエリーを買いに、魔法使いが来ることもあります。」
そうだ、魔法使いは、そんなにたくさんいるのだろうか?
「イレールさんみたいな魔法使いは、たくさんいるんですか?」
「そうですね……あんまり自分たち魔法族のことを、人間に話してはいけない決まりですが、貴女なら、何の問題もないでしょう。誰にも話してはいけませんよ?」
イレールが口の前で人差指を立てる。絵になるポーズだ。
「はい……もちろんです。」
ドキドキしながらも、利口に、しっかりと返事する。
「――私たち魔法使いには多くの種族がいます。私は白魔術族、クラウンは白魔術族と死神族のハーフです。死神族は人間界に仕事柄たくさんいますが、その他の魔法族は人間界とは空間を別にする、魔法界に住んでいます。でも、人間に興味をもったり、気に入ったりした魔法使いが、人間界に移り住むことがあります。私もその一人です。数はあまり多くありませんが、百合さんがここで働いている以上会えると思いますよ。みんな素敵な方ばかりですから、きっと気に入っていただけると思います。」
仲間のことを思い出すと、うれしいらしく、いつも以上に柔らかい微笑みを浮かべている。
「うわあ……楽しみです!」
「そうそう、私も貴女に聞きたいことがあったんです。」
「何ですか~?」
「せっかく、艶めく黒髪をお持ちなのに、飾らないんですか?」
「へ?」
考えてもいなかったことに、気の抜けた声を出す。
「実は、自分に似合う髪型が分からなくて、いつも寝ぐせを整えるだけにしちゃうんです。友達からは女子力が低いって言われるんですよ。」
えへへっと、頭をかく。
――――ガタン!
急に彼が立ち上がった。
「そんな!もったいない!今日はもう来客はありません。貴女に見合うジュエリーを探しましょう!私の気が収まりませんから!」
彼の中の何かに火をつけてしまったらしい。呆気にとられている百合にはお構いなしに、店内を歩き回り、宝石のついた見事なジュエリーをいくつか見繕ってくる。
「この中でお気に召すものはありますか?」
瞳はブルーだが、炎がメラメラと燃えているかのようだ。それに圧倒されながらも、カウンターに並べられた髪飾りに視線をおとす。
「わあ~!かわいい~!うーーーん、迷いますけど、この赤いリボンにピンクの石がついてるバレッタが気になります。」
彼女が選んだのは、真紅のリボンに楕円形のオーバルカットのピンク・サファイアが愛らしいバレッタであった。
サファイアの周りを小さな石が囲み、シルバーの地金で、上品さをも放つ。
「お目が高い!こちらはピンクサファイアにメレ(小粒のダイヤ)を合わせ、可憐で愛らしい印象で、貴女そのものだと思ったんです。しかも宝石部分は取り外してブローチにもなるんです。」
今の彼はとても活き活きしている。宝石商が適職なのも頷けた。
「サファイアにピンクのものがあるんですね。知りませんでした!」
「一般的にはブルーを想像しがちですが、緑や黄色もありますよ。ピンクみがかったオレンジのものはパパラチャ・サファイアといって大変希少なものです。また、サファイアとルビーはコランダムという同じ鉱物に属していて、意外なことに、赤いサファイアをルビーと呼んでいるんですよ。」
「ええ~!じゃあ、ルビーってサファイアの兄弟みたいなものなんですね!うわあ!」
宝石には宝石の物語があるのだ。さすが宝石商だなと思う。
「これ、差し上げますよ。バイト代の代わりです。」
「え!ダメですよ!とっても高価なものなんじゃ……」
彼はとんでもないことを言い出した。
「いいんですよ~ほらほら。」
楽しそうに、動揺する彼女の背後に回ると、百合の髪をいじりだした。何をしているのかは分からないが、くすぐったい。
「わわっ!なにしてるんですか、私の髪に!」
「あんまり動かないでください―――ほらっ、できた!」
「え?できた?」
頭に違和感を感じて手を伸ばしてみると、自分の髪がハーフアップにされて、例のバレッタで飾られていた。
「まだ抵抗するのでしたら、貴女が自分でつけてくれるまで、私が意地でもつけますよ?」
ちょっと意地悪そうに笑っている。
「う……わかりました。イレールさんがよろしいなら、ありがたく頂きます。ほんとはすごくうれしいです。大切にしますね。」
「はい、そのピンクサファイアも、喜んでいますよ。」
充分に華のある彼女の髪に、いっそう華やかさを足して、ピンクサファイアは誠実で母性を難じさせるような、ゆったりとした輝きで瞬いていた。
百合は紅茶を一口含み、一息つく。
「そういえば、私のお母さんが、久しぶりに声をかけてくれたんですよ。」
寂しさはあるものの、幸せそうに言った。
紅茶に映った彼女の瞳が優しく細められている。
「なぜかお母さん、砂糖がたっぷり入った甘い玉子焼きが好きなんです。少しでも、元気をだしてくれたらと思って、お父さんが出て行った時から、毎日作ってたんです。でも、何も話してくれないし、元気ないままだし、意味がないのかなって思ってたんですけど……」
「イレールさんに助けてもらって、元気を取り戻した私は、手紙なら反応してくれるかなって思ったんです。だから、昨日は玉子焼きの隣に手紙を置いてきたんです。」
「いかがでしたか……?」
「今日の玉子焼きは何点ですかってだけ書いたんです。そしたら、“まだまだ甘さが足りません。六十五点です”って書いて……あって……」
幸せそうに微笑みながら、涙が零れていく。
「まだ元気はなくしたままで、部屋からも出てこない…けど、きっと、いつかは…………。」
「幸せです……幸せじゃないけど、幸せです……!」
幸福に満ちた微笑みを浮かべて、朝露のようにきれいな涙が落ちていく。
イレールは何も言わず、目を瞑り、彼女の頭に手をそっとのせて、微かに微笑んでいた。
ショーケースの中の、小さな宝石たちは、安寧の眠りについている梟と、幸せそうな二人を邪魔しないよう、今日は控えめに輝いていた。
次の日、イレールに連れられて、百合はクラウンたちが公演の準備をしているテントに居た。
一昨日、あんなに降った雪も、すっかり快晴の太陽に溶かされて形を失い、地表をクリスタルの粒子を広げたように、銀色にきらきらさせていた。
彼女の黒髪にも、今日はピンクサファイアが輝き、綺羅を飾っている。
「わあ~!すごくメルヘンですね!」
「このサーカスのテーマは夢と魔法なんです。サーカスとしての規模も大きいですから、準備を見ているだけで楽しくなりますよね。」
クラウンたちが公演をするのは、この町で一番大きなホールであった。美術館や図書館も同じ敷地内にあり、広大な芝生の公園が広がる、町民の憩いの場である。
最も、その広大な公園はサーカスの力強い原色のカラフルなテントに埋め尽くされ、別世界になっている。
派手なペイントを顔に施した団員たちが、忙しげにテントとホールを行きかっている。頑丈な檻にはトラやライオンの猛獣が入れられ、猛獣使いが動物の世話をしている。妖精のように華奢で、しなやかな体格をしているのは軽業師だろう。今から飾りに使うのか、カラフルなポールや旗のついたロープがあたりに散乱している。
どこもかしこもサーカス色で染まっていた。
(この人達みんな魔法使いなんだっけ……?例え普通の人間だったとしても、魔法使いに見えちゃうくらい異世界だな~!)
いつもは見られないサーカスの裏側を興味深そうにキョロキョロしながらイレールと歩いていると、派手な短い金髪で、瞳のところにスペードのマークのペイントをした若い男に声をかけられた。チャラチャラしているという表現が相応しい。
「あれっ、イレールさんじゃないっすか?団長ならホールで、レディーと打ち合わせ中っすよ?」
「ご無沙汰しています、ブラック・スペードさん。そうですか。てっきりこちらのほうかと。わざわざありがとうございます。」
イレールが丁寧にお礼を言って、
「ホールへ行きましょうか、百合さん。………あれ?」
と、百合のほうを向いたが、そこに彼女の姿はなかった。
「きゃああああ~~~!助けて~イレールさん!」
百合の悲鳴が聞こえて慌てて声のほうを見ると、ブラック・スペードら団員に抱き着かれて、押しつぶされそうな彼女が目に入った。
「さっきから気になってたのよ!すごくかわいいなって!」
「でかしたぞ、生意気なお前にしてはやるじゃないか、ブラック・スペード!」
「でしょ!イレールさんの後ろに目がいったら、そこに美少女がいたから、思わず連れてきちゃった!」
「お目目がぱっちりして、お人形みたいよ!」
ぎゅうぎゅう詰めの、その一帯は彼女をちやほやして、押すな押すなの大騒ぎである。
百合は何が起こったか分からないといった様子で、ただ顔を青くしている。
イレールは呆れたように肩をすくませると、パチンと指を鳴らした。
「どうああああああああ!」
彼の指が鳴ると同時に、背中を引っ張られたように、その一団は後ろにしりもちをつく。
倒れて目を回している一団の合間を縫って、縮こまっている彼女を救出する。
「ありがとうございます……イレールさん」
「いえいえ……、無事で何より。魅力がありすぎるのも問題ですね……」
はあっと息をつく。倒れて体をさすっている団員に向き直ると、
「みなさん、なんてことするんですか。彼女は人間なんです。我々魔法族と違って体は丈夫にできていないんですから、節度をもってください。いいですね?」
穏やかに言い聞かせているが、目が笑っていない。
団員たちはびくびくしながら、ただうなずくしかなかった。
「行きましょう。」
百合の手を引く。やっと落ち着いた彼女は、団員たちが気の毒になって、
「みなさん、ごめんなさい!そういうつもりは無かったってこと、分かってますよ!」
と、彼に引かれながら叫ぶ。
―――――天使だ……
団員たちの目にはそう映ったらしかった。
「団員たちが迷惑をかけたみたいだね。私からも謝らせておくれ。」
クラウンが申し訳なさそうに言う。
「ブラック・スペードが主犯なんでしょ!後でシメておくから安心して!新しい関節技を覚えたばかりなの。」
レディー・アーレイは、何やら物騒なことを言っている。
「クラウンが謝ることではないですよ……でも、よろしくお願いします、レディー。」
イレールが頭を深々と下げた。
「あわわわ!シメなくていいです!悪気は無かったんですから!」
珍しく不機嫌そうなイレールの言葉を慌てて修正する。
「このままだと、私がシメに行ってしまいそうなので、本題に入りましょう。」
クラウンが案内した、ホールの談話室の椅子に腰かける。
「貴方が約束を交わした少女――――前橋千代美さんでしたよね。」
「ああ、どうやら、ちーちゃんと呼ばれているらしくてね。私もちーちゃんと呼んでいるよ。」
「そうですか。では、とりあえず千代美さんの様子を拝見させていただきたいのですが、昨日は様子を見に行かれましたか?」
あだ名の情報は不要だと判断されたらしく、話を進める。
「無視かい?かわいくて呼びやすいだろ。結構気に入ってるんだが。まあいいか。それがね、昨日の夜も様子を見に行ったんだが、医師や看護師に運ばれていくほど苦しんでいてね…治まったみたいなんだが、よくわからないチューブを体にたくさんつけられて、見ていられなくなって……戻ってきちゃったのさ。」
仮面越しに彼のやるせなさが伝わってくる。
「厳しい状態なのかもしれませんね……今、彼女を目にするのはつらいと思いますが、一緒に付いて来てくれますか……?その方が、彼女のためにも、貴方のためにもなると思うんです。」
「ああ。私はあの子との約束を果たしてあげたい。血の気の引いた顔に、もう一度笑顔を届けてやりたい。そのためには、私があの子を取り巻くものと向き合う必要があるからね。」
「お前もついてるし、魔法族の誇りにかけて、不可能を可能にしようじゃないか!」
クラウンが立ち上がる。
「私は夢と魔法のサーカス団、Cirque de Magiciens の団長にして、道化。道化がたった一人の少女も笑わせられないとは、お笑い種さ!」
銀糸の長い銀髪を揺らしながら、クラウンは余裕たっぷりに、ニヤッとした。
病院の横に広がる公園に、彼女の姿を見つけた。
二人はコートを着ているのであまり目立たないが、クラウンはとても人目を引いてしまうため、病院の屋上から様子を窺っていた。
「あ!あの子ですか?看護師さんから、ちーちゃんって呼ばれてますよ!」
百合がいち早く反応する。
「そうそう、あの子だ。外に出ているということは、今日は調子がいいんだね。」
クラウンは、そう言っているが、百合には調子がいいようには見えなかった。
ピンクのパジャマを着て、看護師の引く車いすに座っている彼女は、見るからにやつれて血色の無い顔をしている。肩くらいまでの真っ直ぐな黒いショートヘアの艶も失われていた。
「とりあえず、彼女がクラウンとの約束を覚えているのか、病状はどんな状況なのか、調べる必要がありますね……」
「あの……良かったら、それ、私に任せてくれませんか?」
百合が申し出た。
「そうですね。クラウンはもちろん、私が行っても怪しまれるだけだと思うので……お願いできますか?」
「頼むよ。でも、道化は怪しくてなんぼの商売なのでね。」
「はい!がんばります!」
今回は役に立てそうな雰囲気に、気合が入っている。
「では、よろしくおねがいします。」
――――パチン!
気付くと、千代美が座っているベンチのすぐ近くに立っていた。
屋上を見上げると、二人が手を振っている。
百合は少し緊張しながら、コクッと頷くと、千代美の様子を探った。
都合よく、彼女の傍についていた看護師にお呼びがかかり、その場に彼女だけになった。
「こんにちは。ここ座ってもいいですか?」
年上なので丁寧語で、百合がにこやかに話しかけた。
「どうぞ。病人の隣でよければ。」
力なく彼女は笑い、自嘲気味につぶやく。
「ありがとうございます。」
寂しくなりながら、すとん、と、千代美の横に座る。
「あたしね、明後日手術なんだ……」
「え!?」
百合が口を開くよりも早く、千代美が切り出した。
「それも大きい手術……臆病だからすごく怖くて、気持ちで負けちゃってて……昨日も発作が起こっちゃったんだ。でも、毎日楽しい夢ばかり見るんだ。笑えるよね。」
「……どんな夢なのか聞いてもいいですか?」
「サーカスの夢。空中ブランコにマジック、ナイフ投げに、おどけた道化、小さい頃に見に行って、すっごく元気が出たんだ。その時も、手術の前で、あんなに怖かったのに、全く涙も出なくなった。不思議なくらい勇気が出たんだ……」
「それは……!そのサーカスの名前覚えていますか?」
百合は心の中で、彼女がサーカスを覚えていたことを喜んだ。
「確か、Cirque de Magiciensって名前だったと思う。……団長さん、幼いあたしが、わがままで言った約束覚えてくれてたのかな……今この町に来てるみたいなんだよね……」
「約束って……?」
「十三年後、大きな手術をするから、また来て欲しいってお願いしたら、聞き入れてくれたんだ。」
「……観に行くことはできないんですか?クラウ……団長さんきっと待っていますよ。」
「行きたいよ。でも、手術は明後日だし、昨日発作を起こしちゃったから、外出許可もおりないだろうし……行けないよ。」
ただでさえ血色の悪い顔が、落胆の色をもってさらに蒼白になる。
「手術ね……失敗の確率が六十パーセントなんだって……でも、今死んだら、サーカスの夢を見ながら、死ねる気がするんだよね。それなら、幸せかも……………」
血色のない微笑みが痛々しい。
看護師が千代美を迎えに来た。
「じゃあね、聞いてくれてありがとう。」
車いすに移った彼女が、看護師に引かれていく。
「待って!希望を捨てないでください!私は応援していますから!」
遠くなっていく彼女の背中に叫ぶ。
千代美は驚いたように振り向いて、
「ありがとう……でも、もういいの。」
とだけ、返した。
一人残された百合は、彼女が建物の中へと消えていくまで、複雑な面持ちで後ろ姿を見送った。
「そうか………ありがとう、百合。」
クラインの表情は分からないが、しんみりと言った。
自分との約束を覚えていたことはうれしいが、素直に喜ぶことができないでいることは、痛いほど分かった。
「明後日となると、公演の準備もまだまだ終わっていない。厳しいね……しかし、やってみせよう!うちの自慢の団員たちなら、大丈夫なはずだ!それよりも……」
クラウンがイレールを見た。
「……彼女は希望を完全に捨ててしまっています……私は希望を失いかけた方しか、救うことはできません。」
イレールは悲しげに目を伏せた。
「でも、クラウン、貴方なら、心が傷つき、破壊され、希望まで失った彼女に、もう一度希望をもたらすことができると思います。私も公演の準備を手伝いましょう!」
「私も、手伝います!」
百合も力強く言う。
「はは!心強い!まだまだこちらには希望があるようだ!やることは山ほどある!これじゃあ、団員たちに鬼畜と言われてしまうな!あっいや違う、私は死神だったな!」
この中で一番傷ついたであろう彼は、豪快に笑う。
彼らは公演を明日までに実現させるべく、テントへ向かった。
―――病室の窓辺に身を傾け、物思いにふける少女の姿があった。
長身の彼女は、痩せこけ、さらに線が細く見える。
枯れかけの花瓶の花を、力なくなでる。
「レディース、アーンド……ジェントルメ―…ン……それ以外の方も………もちろん、ウェルカー…ム」
遠い昔に聞いた、楽しい時間の始まりをつげる言葉を思い出して、口ずさむ。
「……行けないみたい。ごめんね団長さん……」
少女は自分の身を抱きしめる。
「ちーちゃん、またサーカスの夢を見たの?」
看護師が尋ねた。
「看護師さんまで、ちーちゃんって呼ぶんだね。そろそろ恥ずかしいからやめてよ。あっ、でもいいか、どうせ明後日までの命だし。」
「そんな悲しいこと言うもんじゃないわ。駄目よ。患者さんのほうが諦めちゃったら、病気に勝てなくなっちゃうわ。サーカスも元気になって、行ったらいいじゃない。」
「死んでるのに、どうやって行けばいいの?団長さんも、いつまで経ってもあたしが来ないから、約束を破るような人間なんだって思うんだ。こっちはわざわざ来てやったのにって。」
「ちーちゃん……」
さすがの看護師も、かける言葉が見つからなかったのか、黙って出て行ってしまった。
「ほらね……どうせ死んじゃう人間にかける言葉なんて、薄っぺらいから後が続かない。パパもママもあたしの前で変に饒舌になって、見ていて痛々しいよ。治ったら、みんなで旅行に行こうとか……分かるんだよ。ああ、あたしって、もう生きられないんだって……」
もうすでに涙も枯れ果てていた。
彼女は花瓶の枯れかけた花を掴んで、ごみ箱へと落とした。
ぱさっと、かすれた音を立ててそれは落下する。
彼女は、ベットに崩れるように倒れこんだ。
クラウンはステージに立ち、すべての団員を招集していた。テントの多さから、大所帯だとは思っていたが、三百人ほどいるらしい。ガヤガヤと各々自由に騒ぎ、ホールは異様な熱気に包まれていた。
「これ、みんな魔法使いなんですよね?」
百合は数に圧倒されていた。全員が派手な格好をしているため、さらに異様さを増している。
「はい。人間界ではまれな光景です。しかし、ここまで個性的な集団が出来上がっていることに、魔法族は関係ありません。例えこれが人間であっても、まれな光景だったでしょうね~」
イレールは楽しそうだ。
「はいはーい!全員注目!さっき話したように、明日までには公演ができる状態にしたい!そのために、いつも以上に君たちの力を貸して欲しい!『いきなり何言ってんの団長!?鬼、悪魔、死神!殺す気か!』と言いたいのは十分に理解しよう。申し訳ない!」
クラウンが頭を下げた。
あれほどガヤガヤしていたその集団は、一気にシーンと静まり返った。
「頭、上げてよね、ジョーカー!」
その沈黙を破ったのはレディー・アーレイであった。
「そうっすよ!オレらは団長のそんなかっこ悪い姿、見たくないっす!」
ブラック・スペードが叫んだ。
みな口々に叫んでいる。
「魔法界に居場所を見つけられなかった俺たちに、居場所をくれたのはクラウン、あんただ!」
「そうよ!あの時ジョーカーがアタイを拾ってくれなかったら、どうなっていたか!」
「俺たちにとっちゃ、団長はかっこいい存在なんだ!」
「私たちは団長の、そんな他人思いなところが好きなんだから!」
「お前たち……!」
息をのみ、クラウンが頭を上げる。
「とにかく、何が言いたいかというと、水臭いわよってこと!」
レディー・アーレイが、折りたたんだ扇子をピシッと彼に向けた。
「何でもっと早く言ってくれなかったんっすか!そんなことならオレら、張り切っちゃいますよ!」
ブラック・スペードが前に歩み出る。
「さっきだって!オレらが百合さんを押しつぶしちゃいそうになったこと、怒らずに許してくれたじゃないっすか!今度は私も参加させてくれって!オレもう感動し――」
「ああーーー!もういい!ありがとう、ブラック!お前の気持ちはよく分かった!これ以上言葉はいらないよ!」
慌てて大きな声を出し、止めさせる。
イレールのほうから殺気を感じたのだ。
いきなりどす黒いオーラを出し始めたイレールを、百合はぎょっとして見つめた。
「イレールさん、気分でも悪いんですか?」
それが殺気であることに気づかない純粋な少女は、気分が悪いのかと聞いてくる。
彼はその無垢さに苦笑する。
「いいえ、大丈夫ですよ。それよりも百合さん、クラウンに近づいてはいけませんよ。」
「あれ!?どうしてクラースさんみたいなことをおっしゃるんですか?」
昨日はクラースがそう言った際フォローしていたのに、今日はどうして彼が同じことを言うのか。百合には理解できない。
「どうしても、です……」
複雑な胸の内を話すわけにはいかず、イレールはしゅんとしながら、彼女の頭をなでた。
「では、皆の衆!夢と魔法の楽しい時間を病の少女に捧げるべく、取り掛かろうではないか!」
クラウンが団員の士気を高めるべく、ステージ上で高らかに叫んだ。
「うおーーーーーーーーーーーーーーー!」
団員たちも雄叫びを上げ、それに応えた。
コツっ、コツっ、コツっ――
誰もいない静まりかえった夜の病院の廊下を、千代美は歩いていた。
今日、偶然知ったのだ。非常口の鍵が壊れかかっていることを。
見つからないように慎重に、非常口まで辿り着く。
周囲に誰もいないことを確認すると、鍵をいじりだす。すると、想像以上に簡単に壊れた。
そっと、ドアを開けた。
冬の風が、身を切り刻むほどに冷たい。それでも――
千代美は、夜の暗闇へと消えていった――
雲一つない星空を、クラウンは一人で眺めていた。
団員たちが技の調整を真剣に行っているテント群から、ポツンと一人孤立している。
「貴方らしくありませんね、もの思いなんて。」
イレールが傍らに立つ。
「私もたまには、一人静かに星を見たいと思うことぐらい、あるさ。」
そっけなく答える。
しかし、イレールの胸に輝いているスターサファイアのブローチに、視線を落とした。
「それを見ると……私の中に光が差すようだよ。」
愛しいものへの愛の囁きのように、優しい声だった。
クラウンの思いを、その石へ届けるように、イレールがブローチをなでた。
「………私もです。」
しばしの沈黙があって、再びイレールが口を開く。
「…………これはやはり貴方が持つべきです。」
クラウンは彼がそれを外そうとするのを、手で制する。
「いや、それはお前が持っているべきだ……Saint-Hilaire」
「その呼び方は嫌いなんです。知っているでしょう?」
嫌悪感を隠すことなく、クラウンを睨む。
「じゃあ、私も貴方をこう呼びますよ?餓鬼大将の――」
「おっと!そこまで!悪かった、悪かった。」
慌てて言葉を遮る。
再び、しばし沈黙の時が流れた。
「………私はどうも……昔から、死に直面した人間をみると、冷静でいられなくなる……。」
自嘲気味に言う。
「ほかの死神は人間の死に対して、淡泊なところがありますからね。」
「死神失格さ。人の死期を伸ばしたい、と考えてしまうなんてね……死神界の恥さらし、笑いものさ……」
「でも、それにいつしか誇りを持ち始めた……違いますか?」
クラウンが隣に居る友人を振り返った。
「私は道化だ。―――――あの日からね。それ以来、笑いものの死神として、誇りを持っているよ。」
静かに、そう言った。
イレールは、穏やかに微笑むと、その場をあとにする。
少し歩みをすすめて、立ち止まると、クラウンの背中に言った。
「私は貴方のそういうところ、尊敬していますよ。」
月明かりが、怪しく光る白い仮面をつけた顔に陰影をつくっている。
クラウンは少し顔を上げた。陰影が変わる。
彼は僅かに口の端を上げた、ように見えた。
学校が終わるとすぐに、ホールへと向かう。
その頃にはすっかり日が沈んでしまっていた。
「イレールさーーーん!」
「百合さん!どうやら千代美さん、病院を抜け出してしまったんです。」
「そんな!体があんな状態なのに!」
息を切らして彼のもとへと駆け寄った。
「大丈夫です。今はもう見つかって、無事が確認されています。お疲れのところ申し訳ありませんが、彼女を今から迎えに行こうと思います。付いて来ていただけますか?」
にこやかな表情に変わった。その表情で百合はすべてを悟った。
「千代美さんの望みが叶うんですね!行きます!」
百合は自らイレールの手を取った。
彼が指を鳴らし、移動した先は、この町で二番目に大きいホールだった。
そのホールの入り口近くのベンチに体重を預けて、目を瞑って千代美は座っている。冬の冷風に当てられ、かなり衰弱している。
「千代美さん。起きてください。」
イレールが穏やかに話しかける。
「千代美さん。」
百合も千代美に優しく語り掛けた。
「う………あれ……昨日の子……?」
体をだるそうにしながら、彼女はゆっくり目を開けた。
「やっとお迎えが来たんだね……?昨日あなたを見たとき、天使かと思ったんだよ……死にかけの病人のもとへ現れた純粋な天使……だから、思わずペラペラしゃべっちゃった。」
「私は天使じゃないです。でも、天使が現れるより、あなたにとってうれしいことが起こり
ますよ!」
百合は花の咲くような笑顔で、彼女の手を取った。
「さあ、千代美さん。私の大切な友人たちが貴女へ贈る、夢と魔法の時間の始まりです。」
もう一度指を鳴らす。
気が付くと、千代美は真っ暗なホールの観客席の一番前に、一人で座っていた。
「え!?何が起こったの?!」
心細くなって、立ち上がろうとした、その時――
幼いころ聞いた、忘れられない楽しい時間を告げた、懐かしい声が聞こえた―――――
「レディース!アーンド、ジェントルメーン!病院を抜け出しちゃった、やんちゃな君も、もちろん、ウェルカーーム!!」
スポットライトが、懐かしいあのご機嫌な姿を照らし出す。
千代美は病人とは思えないキラキラした瞳を見開いた。
「我々Cirque de Magiciens が今宵お贈りしますのは、やんちゃな君――ちーちゃんへの特別スペシャルな夢と魔法の楽しい時間!」
爆音のように盛大なトランペットの音を合図に、人の身長ほどもある巨大クラッカーが一斉に鳴らされる。
カラフルな紙テープと、紙ふぶきが舞う。
巨大クラッカーの一つが彼を襲うが、それを今度は華麗に避けてみせた。
「十三年の時を経て、私にその手はもはや通用しない!そう!人は成長する!」
かっこよく決めポーズする。
彼の仮面と銀髪がスポットライトを浴びて、キラっと輝いた。
「うわあーーーーー!かっこいい!」
千代美は手をたたいて喜ぶ。
「燃えるじゃないか!では、どんどん行ってみよう!第一の演目は、猛獣たちと命知らずでクレイジーな男たちの火の輪くぐり!」
ますます気を良くしたクラウンが、ニタァと笑い、進行を進める。
ライオンとトラ、ヒョウ、男たちが、勢いよく火の輪に飛び込んでいく。
千代美は興奮で顔を真っ赤にし、成功するたびに手をたたく。
「続いてはレディー・アーレイのトランプ投げ!芸術の領域まで高められたこの妙技をご覧あれ!」
「さあ、お次は本当に種も仕掛けもないマジック、これはもはや魔法だあーーー!」
「お次は、妖精姉妹による華麗な空中ブランコ!うつくしいーーーーー!」
クラウンの進行で盛大にショーは盛り上がっていく―――――――
「最後は人間大砲だ!さあ、頼んだよ!大砲野郎!」
彼が大砲野郎を促した時だった。
がっしりした体格の大砲野郎は、クラウンをがしっと押さえた。
「え!何だい!?」
「みんな今だ!」
大砲野郎が呼ぶと同時に、団員たちがどっと押し寄せ、クラウンを大砲台へと運ぶ。
「どうやら、最後に華麗な姿を見せるのは私のようだ!とくとご覧あれ!」
口ではそう言っているが、
「聞いてないよ!やったことないんだけど!」
「団長が最後にかっこいいとこ見せないと、ダメっすよ!」
「そうよ~男らしいとこ、見せちゃいなさい♡」
と、ブラック・スペードとレディー・アーレイが小声でなだめている。
完全にアドリブのようだ。
「あれ、大丈夫なんでしょうか?……」
ステージ裏でイレールと様子を見守っていた百合が心配した。
「大丈夫ですよ。彼らが信用し合っているからこそ、なのでしょう。」
イレールが笑いを堪えながら言う。
―――ドォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!
「どおおわああああああーーーーーー!」
クラウンの正真正銘の悲鳴が聞こえて、彼は空中に勢いよく放り出された。
「――何のこれしき!」
繰る、繰る、繰る―――
――――彼は空中で三回転すると、そのままステージ上空の空中ブランコの踏み台へと――華麗に――――すとん、と着地した。
「きゃあああああーーーーーーー!」
千代美は興奮して赤くなった顔を、さらに赤くしながら、立ち上がって叫んだ。
恭しくお辞儀をするクラウン。
その口元には安堵と満足感が見て取れた。
「どうだったかい?我々の楽しい時間は?」
誰もいなくなったステージに、クラウンと千代美が並んで立っていた。
スポットライトが中央にいる二人を照らし、演劇のワンシーンのように見える。
「すごく、すごく良かったよ!楽しくて、すっごく興奮した!」
興奮が未だに冷めない彼女は、顔を真っ赤にしている。
「はは!それは良かった!これだから、サーカスはやめられない!」
腰に手を当てて、誇らしげだ。
「――一つ君に謝らないといけないね……」
一変して、申し訳なさそうになる。
「君がこのホールではなく、別のホールに居たのは、十三年前、我々が公演をしたのは、そこだったからだね……誰もいなくて落胆しただろう?すまない……」
「ううん……何も知らないまま病院を飛び出しちゃったあたしが悪いんだから……」
彼女の表情にも、謝罪の色が浮かんだ。
「みんな優しいから、心配してくれてるだろうな……」
「もちろんさ……私も、君が病院を抜け出したと聞いたときは、心配でたまらなくなって、すぐに探しにでたよ……探し回って…まさかと思って、あのホールに行ったら、君はそこに居て……体の力が抜けてしまうぐらい安心したんだからね……」
「ごめんなさい……あたし、嫌な子だったよね。まだ死んでないのに、死ぬんだって決めつけて、周りに冷たい態度取っちゃって……病院を抜け出して、心配かけて……!」
「いいのさ。それほどまでに君は、死の恐怖に怯え、私との約束に心を痛め、追い詰められていたんだから。」
クラウンは形の良い細い指で、彼女の涙を拭う。
「団長さん、ううん!――――道化さんのサーカスは、私が小さい頃からまた観たいと夢見て、眠りの世界でも夢に見て……楽しさに勇気をもらったもの、そのものだったよ!」
「ありがとう…………そうだ、もう一度、私と約束してくれるかい?」
喜びに浸りながら、招待券を取り出す。
「君が病気を治して元気になった笑顔に、会わせてほしい。」
「約束してくれるだろう…………?」
照れくさそうに、頭を掻きながら、彼女に差し出す。
「――うん!ありがとう!道化さん!」
彼女の笑顔が、スポットライトを浴びて、一段と輝いた。
「私の出る幕は無いようですね。」
イレールが優しくつぶやいた。
「はい。本当に、良かった!」
百合とイレールはホールの入り口で笑い合う。
すっかり暗くなった冬の町を仲良く歩いている。
イルミネーションが、イレールの店の宝石たちのようにキラキラして、幻想的で明るい夜であった。
「クラウンさんは、優しい死神ですね。死神っていったら、もっと怖いイメージがあったんですけど……」
「ええ、死神は死を司っていますから、人間たちは恐れていますが、みんな悪い人ではないんですよ。死神と言っても彼はハーフですし、何より――彼は人を生かす死神なんです。」
「わあ!本当ですね!」
「団員たちに慕われ、彼らを生かし、彼らとともに、おどけて、人間をも生かす。」
「本当に、すごい方です――――」
イレールが遠くに見える、サーカスのテントを振り返った。
百合もテントを見上げた。
今宵、少女はいつものように、サーカス色の夢を見るであろう。
より、鮮やかな色彩を加えた、その夢を。