5Carat 天使は薇(ぜんまい)を巻いて時を巻き戻す 後編
昔、北条家は名家として栄華を誇っていた。
今の北条夫人――松下玲花は、そんな北条家の御曹司に見初められた。松下家は没落寸前の名家で、資金援助の条件のもと結婚に至った。完全な政略結婚である。
でも、玲花は幸せであった。
北条家の人々は彼女を温かく迎えてくれ、夫は自分を大事にしてくれた。
松下家は何とか没落を逃れ、両親も喜んでくれたのだ。
しかしそんな時、父が病に倒れ、帰らぬ人となる。
玲花は父が大切にしていた、その西洋風の置時計を形見として受け取った。
松下家は後継者争いに荒れた。
玲花の下には弟がいたのだが、生まれてすぐに死んでしまっていた。松下家の財産をめぐり、親戚は醜く互いを罵り合った。
その中には、彼女と親しいものがたくさんいた。
「あの人も、お金のことになると人が変わっちゃうのね……」
天国の父に悲しみを聞いて欲しくて、彼女は置時計に話しかけるのが、日課となっていた。
当時の時計類は定期的にゼンマイを巻く必要があるのだ。
その置時計は八日ごとに必要であった。
――――カタカタカタ、カタカタ……
ゼンマイを巻きながら、彼女は父に話すように、胸の内を語った。
「私に必ず金平糖を買って持ってきてくれてた、あのおじさんがね………私のことを特に気にかけていたから、自分こそ跡取りにふさわしいって言うの……あの優しさはこのためだったのかな……」
―――カタカタ、カタ……
―――――置時計はもちろん返答してくれなかった。
でも、ゼンマイを巻く音
均一に刻まれる針の音
文字盤の白と緑のクリスタルが、彼女を癒しているようだった。
「励ましてくれてるの?ありがとう。」
父のように、彼女もこの置時計を大切にし、そして愛した。
いつしか、松下家に不幸が続くようになった。
母が心労で倒れ、亡くなった。
派閥化し、相続権を争った有力者が次々と命を落としていったのだ。
それでも、しめたとばかりに新たな有力者が現れ、争いの連鎖は止まらない―――
「財産って、生きていける分だけあれば十分じゃないの……?」
冷めた瞳で、自分の家系を、置時計とともに彼女は見つめていた。
北条家は松下家の荒れた状態から、自分たちに争いの飛び火がくることを恐れ、関係を断絶した。
不動産で財を成した松下家も、相続争いに荒れ、贅沢にかまけたせいで借金を背負い、とうとう、没落してしまった。
その後の親戚たちの行方は分からない。
しばらくたって、北条家にも衰退の影が見えた。
家督を継いでいた彼女の夫が突然の事故で帰らぬ人となったのだ。
二人の間には子どもはいなかった。
再び、彼女の周りの人々が、醜い相続争いを始めた。
ある時、女中が怯えた様子で訪ねて来た。
「奥様……今、使用人の間で噂があって……。」
「―――――奥様のお父様、松下様が、屋敷で時々目撃されるんです……」
「そんな馬鹿げたこと……」
「本当なんです!深夜零時になると、奥様が客間に置いている置時計の前に薄ら立っているのが見えるんです……無表情でじーっとこちらを見つめて来るんです!」
女中のあまりにも必死な様子に、今夜確認する旨を伝えた。
「お父様………まさかね。」
半信半疑であったが、何故だか胸騒ぎを感じた。
その夜の午前零時前に、彼女は客間で緊張して置時計を見守っていた。
――――チ、チ、チ
置時計が静かに時を刻む。
長針の先端の太陽が、月型のクリスタルに重なった―――午前零時
「きゃあああああああ!」
廊下で女中の悲鳴が上がった。
彼女はその声に反応して急いで廊下に出る。
女中が口を押えて、必死で混乱した頭を落ち着かせようとしている。
「あ………あ……大旦那様……。」
そこには、仰向けに倒れている――――北条氏
ぞくっ
ふと、視線を感じた
――――客間のドアの前に、無表情の父の姿があった
そして、ふっ、と、その姿が消えた
北条氏の死因は心臓発作だった
それからの北条家の没落は早く、屋敷は現在の有様である。
彼女は置時計を倉庫に閉まいこみ、存在を忘れようと努めた
恐くなってしまった――――松下家と北条家の没落に父が絡んでいるとしたら……
父が死んでから、自分は母、夫を亡くした。
そこには、常に父の置時計の存在があったのだから――――
「――――それから、私はこの屋敷に一人で住んでいます。」
北条夫人は冷めた口調であった。
「父はきっと嫌になったんです。財力があれば、人はどうしても荒んでしまう……私を政略結婚させるときも、ずっと、すまないと私に謝っていました。今の松下家の状況を救うにはそれしかない……でも、私の気持ちを酌んでやっていないと悩んでいました。それ以外の親戚は生活の質を落とさないために………私を嫁がせようと必死で、そんな父を説得していました。」
夫人は立ち上がって、窓の外を眺めた。
「最後に父は言っていたんです………お金なんてなくても、家族でもっと仲良く過ごしたかった、と………」
「だから………松下家と北条家を呪ったんです。」
「―――――それは、違います。」
イレールがぴしゃりと否定した。
「イレール、この置時計とこのご婦人を救う方法、見つかったのね。」
ミカエラが彼を見つめる。
「―――はい。」
彼は夫人の手を取り、椅子に座らせた。
「突然やってきたあなたに何がわかるの?」
夫人は冷やかな視線を彼に向ける。
彼は動じることなく続ける。
「ここに来て、貴女のお話を聞いて、やっとこの置時計を理解してあげることができました。」
「夫人のお父様は――――貴女をずっと必死に守っていたんです。」
「この、ファントム・クリスタルの力をかりて………」
百合が疑問を訪ねる。
「でも、これには憤怒の情念と誰かへの殺意がこもってるって………私に注意してきましたよね……」
「確かに、とてつもないほどの憤怒と殺意がこもっています……。しかし、これは松下氏の思いではありません―――松下家と北条家の人間の財をめぐる争いが生んだものでした。」
イレールが穏やかに言いながらルーペを取り出す。
「クリスタルはもともと、強い浄化作用を持っており、人間のネガティブな感情に触れるとそれを浄化してくれます。このファントム・クリスタルはこの小さな体に、両家の負の感情を取り込んで、少しずつ…少しずつ…浄化してくれていたんです。松下氏の残した―――玲花さんに幸せになってほしいという思いに呼応して………」
「あなたは一体何を言っているの………?」
夫人は頭を混乱させているようだが、父親の思いが話に出てきて、気を取られて口をふさぐ。
イレールは話を続ける。
「お金は関係なく、家族で仲良く過ごすのが彼の願いでした。彼のその強い思いは死後もその置時計に宿り、ファントム・クリスタルはそれに著しく反応して、玲花さんに少しでも人間の負の感情を当てないために、自らの体にそれらを取り込んでいたんです。」
そう言うと、気を取り直すかのように、夫人に疑問を投げかけた。
「玲花さん………貴方はファントム・クリスタルに宿った松下氏の愛情が具現化した彼の幽霊を見ましたね。また、貴女は両家の醜い遺産相続の争い、近しい者の死に、心を痛めていましたが、その争いには巻き込まれなかったのではないですか?」
「それは…………。」
確かにそうだった。
自分は傍観者であった。
女性の身の上で家督を継ぐことが許されなかったあの時代だったが、不思議と彼女は傍観者でいられたのだ。
「それらこそ―――あなたのお父様の思いに答えるために、ファントム・クリスタルが貴女への負の感情を浄化して、貴女への刃を払った何よりの証拠です―――ミカエラ。」
イレールは精悍な顔つきになって、ミカエラを促した。
ミカエラが立ち上がる。
「ええ。わたしの出番ねぇ。」
―――――ふわぁ……………
ミカエラを優しいあたたかな光が包み――――彼女の背に、見事な純白の羽が現れた
おとぎ話の世界でしか誰もがその姿を見ることのできない天使。ミカエラは間違いなくそんな存在なのだ。
「ああ、お父様………!そんな!」
夫人は顔を両手で包み、涙を流し始めた。
「百合さん、夫人についていてあげてください。」
百合はこれから、彼らなりの救いが成されることを感じ取った。
「はい…………」
返事をして、夫人の手を取って彼らから距離をとった。
「ミカエラ、ファントム・クリスタルが必死に負の感情を抑え込んで、私の介入さえも拒んでいます。無理やり、こじ開ける形になってしまいますが………私がルーペでその壁を破壊しますから、あとは――――お任せしますよ。」
「りょうかいよぅ。苦しみから、この置時計とご婦人を助けてあげないとねぇ~」
こんな状況でも、彼女は相変わらずおっとりしている。
イレールがルーペをかざすと、ファントム・クリスタルが一瞬、瞬いた
―――パリーーーーーーーン!
ガラスが割れるかのような音がする
その瞬間、彼めがけて黒い茨が襲った
―――パチン!
彼は瞬時に態勢を整え、指を鳴らし、その茨の塊を正八面体の透明な結晶体で捕らえた
――――「ギィィィィィーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
それは黒い茨が集まってできた蛇のような形をしていた
赤黒い舌を出し、不気味にうねり、結晶を破壊しようと暴れまわる。
ミカエラはそれに怯えることなく、近づいて行く。
「ずいぶんと………まがまがしいわ。悲しくなっちゃう………人の負の感情は時として、こんなに恐ろしいものを生み出してしまうわ……」
「――――でも、こんなに強い思いに満ちたものを作り出せるほど……人の心は計り知れない力をもっている。今回はそれが悪い方向に働いてしまっただけのこと………」
彼女は聖なる純白の大きな羽を広げた
「―――――聖なる浄化の光よ、ここに集い―――悪しき想い…妬み…憤怒…悲しみ……それらと溶け合い調和せよ。輝きに満ちた心を、もう一度――――ここへ咲かせよ―――」
彼女の羽が光を放ちながら、その蛇のような形をした人の心が生み出した怪物を包む。
―――――パァァァーーーーーーーーーーーーー!
目を開けていられないほどのその光が収まった時には―――そこには何もなかった
その代わりに、置時計がカタカタッと音を出し、ゼンマイが切れて、動きを止めたのだった。
「この置時計、寄贈されますか?」
ミカエラが、改めて夫人に尋ねた。
「はい。この時計は父との大切な思い出の品です……ここにあったら、私の老い先短い身で、どうなるか分かったものではありません………大切なものだからこそ、美術館で未来永劫、保存してほしいと思います。」
夫人は穏やかに言った。
「それと、あなたたちのことは………老体がたまゆらに見た夢、まぼろし、ということにしておきます……」
「まぼろし……“ファントム”ですか……それはありがたいお言葉です。」
イレールが微笑む。
「どうぞ、またいらしてね。時々、年寄りの思い出話をきいてほしいのです。父や母、親戚たちと過ごした―――あのころの幸せな思い出を。」
「もちろんです。」
三人は微笑みながら賛同する。
ミカエラが、唐突に口を開いた。
「ご夫人はルノワールをご存知ですか?」
「ええ………、知っていますけど……」
「じゃあ、ぜひもう一度、彼の絵を見てほしいです。彼の創造理念は、とても素敵なんですよぅ。」
口調に、彼女らしさが宿った。
「この世界には、たくさん目を背けたいものがあるから、これ以上苦しいものを創る必要はない――――好ましかったり、きれいだったり、楽しいものを集めたものを創ればいいって!思ってるのよぅ~~~~~」
夫人の人生は、確かに耐えがたい苦しみに満ちていた。
―――でも、幸せだった瞬間があるのだ
それは―――遺産相続なんて起こるのが嘘と思われた、家族に囲まれた、あの頃
その時間は、今でも彼女の中で、輝いているのだ。
「ほんとうに……あなたたちは何者なのかしら」
夫人は微笑みに、一筋の涙を頬に伝えた。
――――「………百合さん、今回は怖くなかったんですか?」
宝石店に戻ったイレールが、恐る恐る尋ねた。
百合は、うーーん、としばらく考え込んでいる。
「それは……やっぱりちょっと怖かったですけど………イレールさんがついていてくれたから、平気です。」
彼女は本当に、肝が据わっているというか、呑気というか………
彼は苦笑しながら、彼女の頭を撫でた。
百合は頬を赤らめているものの、くすぐったそうに目を細めて笑っている。
(信頼してくれているんですね……少し調子にのってしまいますよ。)
イレールはそんな彼女の反応に、ひそかに心の中でひとりごち
こんな瞬間も、二人にとっては幸せの一ページなのだった。
ミカエラは美術館の、アンティーク家具の展示室にそれを設置していた。
―――――カタカタカタ、カタカタ
薇をゆっくり回して、置時計に命を吹き込んでいく
――――チ、チ、チ………
長針の太陽が動き出し、時計は時を刻みだす――――
心なしか、ファントム・クリスタルも輝きを増したように見える。
「うん!やっぱり、時計は優しく、時を刻むものでなくっちゃねぇ~~~~~」
アンティーク置時計は、夫人が幸せの中に居た、あの頃の時間のように―――穏やかに時を紡ぎ始めた。




