二人の距離と温度差~当事者の誤算~
※リューネリア視点です。
朝はいつもと変わらなかった――。
でも確かに違和感はあった。あれはいつからだったのか……。
リューネリアは寝室からウィルフレッドの私室へとつながる扉の前で、ノックをしようと上げていた手を止めてふと考えた。
エリアスに私室に閉じこもった殿下をどうにかして下さいと言われ、この場にいるのだが……。
ふぅ、と小さな溜息がこぼれる。
なぜウィルフレッドが部屋に閉じこもってしまったのか、エリアスも理由を知らないと言った。もちろん、リューネリアにもわからない。
だが、朝にはすでに違和感があった。ということはもっと前――昨夜はどうだろう。しかし思い浮かべてはみたものの、小さく首を横に振る。多分この時すでにおかしかったのだ。ならば、もっと前ということになる。
その前といえば、昨日はランス公爵夫人たちと情報交換を兼ねたちょっとしたお茶会があった。その場に珍しくウィルフレッドが現れ、和やかに談話していたと思ったのだが……。
首を傾げ、考え込む。
確かにその時すでに落ち込んでいるように見えなくもなかった。だが、決してそのお茶会でウィルフレッドの気に障るような会話は出なかったはずだし、まして元恋人たちも付き合いはリューネリアよりも長いのだ。そのようなおかしな間違いはしないだろう。
どうしたものかと思いつつ、気を取り直して扉をノックする。
「ウィルフレッド様、リューネリアです。入ってもよろしいですか?」
中から返答はなかったが、鍵は基本的に寝室側にしかついていない。リューネリアは少し待ってから、ゆっくりと扉を開けた。
部屋の中ほどに置かれたソファに、ウィルフレッドは背をあずけて座っていた。
じっと宙を見ているようだったが近づくと、ちらりとこちらを見てから、自分の隣に座るようポンポンとソファを叩く。
促されるまま隣に腰を下ろすと、ウィルフレッドは深く息を吐き出した。
「どうなさったのです?エリアスも心配してましたよ?」
わずかに身体をウィルフレッドの方に向け、様子を窺う。
別に風邪をひいて体調が悪いとかそういった素振りは見えない。どちらかと言うと何か思い悩んでいるようにも見える。不機嫌とまではいかないが、いつもの軽さ――陽気さが欠けている。
ふとリューネリアに閃くものがあった。
「もしかして――、ウィルフレッド様……」
そうなのかもしれないと内心一人で納得する。
「新しく恋人ができたのですね?それで思い悩んでいらっしゃるのですか?」
結婚してからというもの、確かにコーデリア達三人以外の恋人の噂をいくつか聞いた。しかしそれはすでに過去の話で、現在進行形である恋人は今のところいない。だが噂によれば、リューネリアと婚約するまでは恋人がいなかった期間がないほどだったというのだから、現在の方が異常に思えるのは仕方がない。もしもそれが妻であるリューネリアに対してうしろめたいという感情があるのだとすれば、まったくもって杞憂である。
博愛主義は認めているとあれほど言ったのだから、悩むほどのことではないだろうに。それとも、その相手に全く相手にもされていないから思い悩んでいると?
しかし、コーデリア達から聞いた話によれば、ウィルフレッドにとって女性を落とすことは決して難しいことではないらしい。ではやはり違うのか、と思っていると再びウィルフレッドの口から溜息がこぼれた。
「違うのですか?私は別に気にしませんから、ウィルフレッド様も私のことは気になさらないで下さいね」
思いやって言ったつもりだったが、珍しくウィルフレッドの眉間に皺が寄る。
「……リューネリア。それは思っていても口に出して言わないで欲しいな」
やっと言葉を発したウィルフレッドに、一歩前進と向き直る。話してくれなければ何も解決にならない。
気を取り直して再度訊ねる。
「では、どうなさったのです?部屋に閉じこもるなど皆が心配しています」
きっと廊下側の扉の前ではエリアスが鬼のような形相で、ウィルフレッドが出てくるのを待ち受けているに違いない。
「あなたも?」
ちらりと湖のような瞳がこちらを窺う。真っ直ぐな瞳に、リューネリアは思わず口ごもる。
「――……はい、当然です。ですから――」
「なんだかその間が気になったんだけど?」
不満を呟くとともに、何度目かの溜息をつくウィルフレッドにリューネリアはこうなったら、と素早く返す。
「気のせいです。私も心配しておりますし、ウィルフレッド様が仕事をして下さらないとこの国の皆が困ることになります」
「……本心はそちらか――」
小さな呟きに、リューネリアは首を傾げる。おかしなことを言ったつもりはなかったのだが、今明らかに顔色が悪くなったのは気のせいではないはず。
もしかして、昨日のお茶会でもリューネリアにとってはおかしなことを言ったつもりではなかったが、こうして傷つけていたのかもしれない。
自分の不注意に、リューネリアは思わず口元を片手で覆った。
「すみません。私が悪かったのですね」
「リューネリア?」
「私の不用意な言葉が殿下の気分を害してしまったのですね?」
口元から手を下ろし、ドレスをギュッと握る。
原因が自分にあるのならば、ここは素直を謝ってどうにか機嫌を直してもらわなければならない。
「申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げたリューネリアは、だが、すぐに両肩をつかまれ身体を起こされた。目の前にあるのは、少しバツの悪そうな顔をしたウィルフレッドだった。
「……違う。リューネリアが悪いのではなくて、その……単に、羨んでいただけだ」
やっと本音を聞けたが、首を傾げる。
「羨む?誰を?」
意外な台詞に、リューネリアは目を瞬いた。
「コーデたちが、リューネリアを愛称で呼んでいただろう?」
「ええ。――もしかして……それでですか?」
まさかという思いで問い返すと、ウィルフレッドは憮然として、視線を逸らした。
「自分の妻が、他の人間に先に愛称で呼ばれるなんて、負けた気分だったんだ」
「……名前を呼ぶのに勝ち負けなんて……。ウィルフレッド様も愛称で呼んで下さって構いませんのに……」
確かに結婚してから一カ月が経とうとしているのに、今さらという気もしなくはないが。
「同じ呼び方をするのはイヤだ」
子供みたいな言い訳に、リューネリアも眉根を寄せる。
「ですが、パルミディアでも皆『ネリア』と呼んでもらってました」
親しい人からは愛称で呼ばれていた。だからそう言っただけなのに、それを聞いたウィルフレッドはさらに顔を険しくした。
「それなら、なお嫌だ」
「ウィルフレッド様……」
子供ではないのだかと思っていると、ふとウィルフレッドの表情が晴れる。
「――そうだ。ネリー……、ネリーにしよう」
「あの?」
その甘たるい呼び名は、まさか――。
ひくりと頬を引きつらすと、その頬にウィルフレッドの手が触れる。
「ネリー」
かすかに撫でられる感覚に、途端頬に血が集まる。
「あ、ああの。それは、ちょっと――、恥ずかしいというか」
「嫌?」
ここでハイと答えられたらどんなにいいことだろうと思いつつ、せっかく機嫌を直したウィルフレッドを部屋から出せる機会なら、呼び名の一つや二つ我慢すればいいだけなのだ。人前での仲の良いフリに比べれば、恥ずかしさは比ではない……はず。
「……――是非、ネリーとお呼び下さい」
観念して告げると、いつもの陽気さを取り戻したウィルフレッドは頷いた。
「そうしよう」
満足げなウィルフレッドに対して、逆にリューネリアはどっと疲れを感じた。
後日、人前で仲のいいフリをする度に愛称で呼ばれ、今まで以上に恥ずかしく思ったことを、リューネリアが激しく後悔したのは言うまでもない――。