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砂の国の冒険 第2夜

 イーニッドの市場は、想像以上の喧騒と熱気に包まれており、ウィルフレッドは思わず前を歩くアミールの服をつかんでいた。

 人ごみの中をまるで縫う様に歩くアミールと離れないためだったが、はからずも人とぶつかる回数が激減する。さすがにアミールもこの人ごみで(はぐ)れてしまうのを良しとしなかったのか、そのままにしておいてくれた。

 アミールと一緒に宮を抜け出す時、彼の侍女にしてはまだ若い少女がスカーフをもっと大きくしたような布を貸してくれた。どうしたらいいのか分からずにいると、彼女が頭から被せてくれた。濃い緑の布からはやわらかく甘い香水の匂いがする。お礼もそこそこに、質素な服に着替えたアミールに連れ出され市場へとたどり着いたのだが、ウィルフレッドはその間何度もお嬢ちゃんと呼びかけられた。その度に憮然としていると前を歩く王子に笑われる。

「仕方ないだろう?おまえはなかなかの美人だぞ?」

 男にとって嬉しくはない褒め言葉だ。ヴェルセシュカでもいつまでたっても可愛いと言われ続けていることがウィルフレッドの悩みの一つなのだ。

「アミールは美人だって言われてうれしいのか?」

「はっ、その前に俺にそんなことを言ってくる奴はいないな」

 威丈高な様相に、確かにどこからみてもアミールを女だと間違う者はいないだろう。たとえ今ウィルフレッドが頭から被っている布をつけたとしても男だと分かる。見るからに身にまとう雰囲気が女性のもつ柔らかさとは無縁だからだ。

「……やっぱりこの布、つけないといけないのか?」

 少なくともウィルフレッドにしてもヴェルセシュカで女の子と間違われることはない。しかし、もしもこの布が多少なりともウィルフレッドのもつ柔和な雰囲気に相乗効果をもたらしているのだとすれば、男としての沽券に関わる問題だ。

 しかしアミールにそれを止められた。

「止めておけ。おまえの肌は白いし、この日差しに耐えられないだろう。慣れないと目も痛めるぞ。明日の宴に出席する予定なんだろう?」

 アミールの為の宴だというのに、この他人事のような物言いにふと違和感を覚える。自分の誕生日が嬉しくないのだろうか。ウィルフレッドの誕生日には皆が祝福してくれ、遠くからもお祝いに駆けつけてくれるというのに。

 前を歩く赤銅色の髪を見つめ、感じた違和感を問おうとした時、ふいにアミールは足を止め視線だけで周囲を窺う。

「ああ、ヤバいな。気の早い奴らに気づかれたか……」

 小さな呟きは周囲の喧騒にかきけされ、ウィルフレッドの耳には届かなかった。

「なに?」

 問うと同時に、服をつかんでいた手を取られた。

「走るぞ」

「え?」

 途端、人にぶつかることも気にせず駆け出したアミールに、ウィルフレッドは必至についていった。

 頭を覆う布が邪魔になるが、時々後ろを振り返りながら何かを気にするアミールに気づき、この布を日よけと言ったのは間違いではないだろうが、事実でもないことに気づく。ウィルフレッドの金髪は、イーニッドでは目立ち過ぎる。ゴードヴェルクの民の大半はアミールと同じ赤銅色の髪に、飴色の肌をしている。その中に金髪に白い肌のウィルフレッドが混ざると、注目されることは必至だった。ならば、この布を取るわけにはいかない。

 入り組んだ街中に駆け込み、細い路地をアミールに連れられ何度も曲がる。ここで(はぐ)れてしまえば、絶対に王宮へと戻れない自信があったので、必死だった。

 が、何度目かの路地を曲がったところで、ふいにアミールの足が止まった。ウィルフレッドも勢い余って、アミールにぶつかりそうになったが、彼の肩越しに見た正面に立つ複数の大人たちに気づき、無言で立ち止まる。その数は十名ほどだろうか。

「ファイサル殿下だな」

 布で顔を隠し、目だけを出した男が発した声は、布越しでくぐもっている。

「……おまえたちに名乗るような名はないな」

 アミールが見せたのは決して余裕といえる表情ではなかったが、それでも尊大な態度だけは崩さない。真剣な眼差しを正面の男たちに向け、ウィルフレッドを庇う様に一歩前に出る。だが、すぐに正面の男の背後に立っていた男たちから野次が飛ぶ。

「まだ子供(ガキ)のくせに女連れとは生意気だな」

「さすが王子さまというだけあって、女どもも放っておかないか?」

 アミールの背後で黙って聞いていたウィルフレッドだったが、また女の子に間違われたことにカッとなる。だが、男たちが続ける野次に逆に口を閉ざすことになった。

「殿下は奴隷の女にずいぶんと熱心なんだってな」

「ああ、あれだろ?市場で買いあげたとかいう噂を聞いたな」

 奴隷?と斜め後ろからアミールの表情を窺う。

 確かに、ゴードヴェルクには民族によって厳しい身分差があると習った。敗戦に追い込まれた周辺民族や国家には、ゴードヴェルクへの従順さによって厳しい税率と労働の提供が課せられる。さらに一部の民族には人権さえ与えず、ほとんど家畜同然に扱われている民族もいると聞いている。それがどのようなものなのかはウィルフレッドには想像もつかないことだったが、その奴隷というものをアミールが買ったというのだろうか。

 少なくとも奴隷の話を習った時、ウィルフレッドは、人を買う、という言葉に嫌悪を覚えたことを記憶している。

 だがアミールの表情からは何も窺えなかった。

 視線を男たちに戻すと、ひとしきり言いたいことを言って満足したからか、それとも正面の男に止められたからか、再び周囲が静かになった。

「殿下にはこの場で命を渡しいただきたい」

 覆面の男がくぐもった声で告げると、アミールは鼻で笑った。

「愚かだな。おまえたちを差し向けたのは、気が早いところからしてさしずめ二番目の兄上あたりか……」

 言いながら腰に佩いた刀剣をすらりと抜き放つ。男たちもそれぞれの武器を手に身構える。

 どう考えても、アミールの方が不利だ。相手は大人なのだ。どれほど剣の腕前がよくても、十人を相手にどれほどのことができるか。

「待って!」

 ウィルフレッドはもしかしたらと思い、彼らの間に割り込む。そして被っていた布を取り払った。

 一瞬、その場の空気が揺れた。

 目の前に現れたこの場にそぐわないほど華やかな黄金の髪に、男たちは一瞬息をのむ。

「僕はヴェルセシュカの第二王子だ。彼に手を出すとおまえたちはせっかくの同盟国であるヴェルセシュカを失うことになるぞ!」

 たとえ権力にものを言わせても、どうにかアミールを守りたかった。たとえゴードヴェルクの王子が何人いて王位を継ぐ者などいくらでも代わりがいるのだとしても、ウィルフレッドが知っているゴードヴェルクの王子はアミールだけだ。死んでなど欲しくなかった。

 だが、覆面からのぞいていたその目は冷ややかなままだった。

「ヴェルセシュカのような小国など属国で十分だ。同盟など結ぶ価値もない」

 告げられた言葉と、背後から腕を引かれたのは同時だった。

「馬鹿が!おまえは逃げろ!」

 背後に放るように投げられ、地面に背中から落ちる。

 一瞬、あまりの痛さに息が止まるかと思った。が、直後、耳に入ってきた剣戟の音に、痛みを我慢して飛び起きた。

「アミール!」

 ふらつきながら立ち上がり、自らの腰に佩いた剣を取ろうとする。

 が、覆面の男と剣をむすびながらチラリとこちらを見たアミールが、歯をかみしめながら叫ぶ。

「逃げるんだ!」

 覆面の男の剣の腕は、アミールと同じぐらいに見えた。アミールにでさえ歯が立たないウィルフレッドが手助けをしようなど、おこがましいにもほどがある。しかし、残りの男たちは見るからに金で雇われた者たちだろう。アミールの隙をついて切りつける程度で、逆に手傷を負わされていた。

 ならば、ウィルフレッドにも手助けは出来る。しかもゴードヴェルク特有の刀剣の動きは、アミールとの剣の打ち合いで感覚をつかんでいる。それに、剣の練習をした相手はいつも大人相手だった。腕の長さや間合いなど、距離感はつかめている。

 覆面の男と再び切り結んでいるアミールに、横から襲いかかろうとした男の剣をウィルフレッドは弾き飛ばす。

「おまえたちの相手は僕がする」

 静かに告げ、雇われ者たちを見渡す。

 彼らの腕がどれほどであるかなど分からない。だが、ウィルフレッドが刀剣の動きに慣れていなかったように、彼らももしかしたら剣の動きに慣れていなかもしれない。憶測の域を出なかったが、この場でアミールを見捨てて逃げ出すことだけは出来なかった。

 それに途中でアミールに返り討ちにされた者を除くとすでに片手ほどだ。なんとかなるはずだ。

 剣をかまえ、静かに呼吸をする。集中して彼らの動きをみる。

 実践などしたことはない。だが、必要ならばしなければならない。アミールの心配をするよりも、まずは自分の身を心配しなければならない。

 そう決意すると、ぐっと唇を噛みしめて剣を握りなおした――。



 再びアミールと路地裏を駆け抜けていた。

 髪を隠すための布はあの場に忘れてきたため、人気のない道を選んで走る。

 あの後、子供相手に剣をふるっていたあの者たちは、あの場に住んでいた住民――主に子供を抱える女性や年配の女性――に見咎められ、鍋や皿を投げ付けられウィルフレッドたちに加勢してくれた。一階や二階の窓から飛んでくる日用品に、こんなものでも立派な武器になるのだとウィルフレッドは感心して見ていた。這う這う(ほうほう)の体で逃げていく雇われ者に、覆面の男は諦めたように剣を引き、身を翻した。だが、完全に諦めたようにも見えず、アミールに促されてその場を急いであとにしたのだ。


 つけられている気配はなかったが、慎重に身を隠しながら移動するアミールに一度このまま砂漠に出ると告げられた。

「どうして?」

 すでに西の空に太陽は傾いている。

 日差しは幾分か和らいだが、すでにウィルフレッドの白い肌は赤みを帯びている。それでも身を隠しながら移動したおかげで、幾分かはマシなはずだ。肌の表面は熱を持っているようだったが、まだそれほど痛みを感じていない。

「砂漠の方が遮るものがない分尾行されにくいし……、俺しか知らない隠れ場がある」

 最後の方は言いたくはなかったようだったが、それでも話してくれたのはウィルフレッドを信用してくれたのだろう。ウィルフレッドは隠れ場という言葉に目を輝かす。

 一昨日読んだ本にも隠れ場が何度も出てきた。それは洞窟の奥深くだったり、地下遺跡だったりしたのだが。

 くいついたウィルフレッドに、アミールは苦笑した。どうやら何を考えていたのか分かったらしい。

「期待はするなよ。そんないい場所じゃない」

「うん。楽しみだ」

 にっこりわらって答えると、仕方がないというようにアミールは天を仰いだ。

 歩きながら、地面が次第に石の混ざった砂へと変わってきたことに気づき正面を向く。

「うわっ……」

 気づくと目の前にはいきなり砂漠が広がっていた。民家はぶつりと途切れ、こぶし大の石が地面にごろごろと転がっている。草もほとんど生えていないその地面は遠くまで望むことが出来た。

 そのまま遠くに目をやると、夕日が照らす砂漠は次第に色を変える。石がほとんど見えなくなる砂地は赤く染め上げられ、同じ色に染まった空と一緒に一枚の絵のように見える。

「――すごくきれいだ」

 感嘆を込めて呟くと、隣から誇らしげな声がする。

「ああ。これがゴードヴェルクの宝だ」

 自然の作りだす物は、どんな宝石よりも美しい。決して人間の手では作り出せないものだ。

 しばらく恍惚と見惚れていたが、アミールに促され砂漠へと足を踏み出す。

 空には一番星が輝き始めていた。



「え……と、隠れ場?ここが?」

 目の前の建物と呼ぶべきなのかも不明なものに、ウィルフレッドは思わず顔がひきつる。期待はしていなかったが、期待を裏切るものではあった。

 あれから砂漠に出て、イーニッドの西側へと向かった。そこは街を潤す豊かな水源があり、その周囲にはナツメヤシの林が群生している。そこで水を補給し、イーニッドに背を向けて真っ直ぐ西へと向かった。そこからも遠目に何か建物のようなものが見えてはいたが。

 実際に近づくと、高さは普通の建物の三階から四階分ぐらいだろか。だが建物というよりも塔と言った方が的確かもしれない。周囲にもまばらに、同じようなものが見える。

 アミールは笑いながら正面の扉を開く。

「そう、ここは王族の――墓だ」

「お墓!?」

 思いがけない隠れ場に、青ざめてしまったのがバレただろうか。アミールはニヤリと口の端を持ち上げた。

「ヴェルセシュカの王子は死体が怖いのか?」

「そ、そんなことはないよ。それに、お墓だろう?もっと敬意を抱かないと駄目だろう?」

 ウィルフレッドはゴクリと生唾を飲み込むと、入口に向かった。アミールがニヤニヤしているのを尻目に、恐る恐る足を踏み入れた。

 そこは王族の墓にしては内部はあまり広いとは言えなかった。その代わり天井は高い。

 壁にはまるで本棚のように石棺が安置され、正面の奥には二階へと上がる階段があった。後に知ったことだが、王族だから墓はあるものの一般の民には墓などないとのことだった。

 アミールに促され、奥へと向かうと扉が閉められる。暗闇の中を記憶を頼りに進み、急な階段をどうにか上り切ると、そこはかすかな明かりがあった。

 二階は死者の生前の生活用品が置かれている場所のようだった。そこには換気の為の窓も設けてあり、満月が近いのかお互いのいる位置がかろうじて分かるほどの明るさがあった。

 ウィルフレッドとアミールは冷え込む砂漠の夜をそこで過ごすことにした。

 調度いい具合にそこにあった生活用品の中には衣類もあり、多少の埃っぽさを除けば寒さをしのぐには充分だった。

 お腹は空いていたが、耐えられないほどではない。水は先程確保したしていたものを二人で分けて飲んだ。

 夜も更けて、きっとレイラやジェレマイアたちも心配しているだろうことを考えると、申し訳なくなる。彼らの仕事はウィルフレッドの安全が第一なのだ。それを黙って離宮を抜け出し、挙句の果てにはその日の内に戻ることも出来なくなってしまった。これは怒られるだけではすまないかもしれないと不安になる。だが、今更離宮を抜け出したことを考えても、どうしようもないことだ。出来ることは一つ。無事に帰ることだけだ。

 そう結論づけると今度は、昼間の出来事が脳裏に蘇ってくる。

 なぜ、アミールが狙われているのか。これは昨日、レイラから教えてもらったことに関係しているに違いない。だが、アミールは言っていなかったか。気が早いと。ということは、いずれ近いうちにあるべき事態であって、アミールはそれを知っていたのだ。だが、予想よりも早かったということだろうか。

 それともう一つ興味を引いたことがあった。アミールが奴隷を買ったということだ。そもそもヴェルセシュカには奴隷という制度がない。だからどういうつもりで買ったのか理由が知りたかった。

 早く寝ろと言われていたが、悶々と考えていると目は冴える一方だ。しかも日に焼けた肌は次第に痛みを持ち始めている。とてもじゃないが、眠れそうになかった。

 壁に寄りかかるように座っていたウィルフレッドだったが、少しだけ間をあけて同じく座っているアミールを見る。

 俯いてはいるが、眠っている様子はない。少し身動ぎすると、その気配にアミールは顔を上げた。

「寝られないのか?」

「……うん。なんか、いろいろと考えて」

 じっと見つめながら言うと、アミールも気配で察したらしい。ため息をついて座りなおした。

「一つだけ、おまえの質問に答えてやる」

 このまま聞かなければ、教えてくれる気はなかったようだ。

「一つだけ?」

 不満を込めてみたが、アミールも譲らない。

「ああ。今日のことでいくつか聞きたいことが出来たんだろう?一つだけとは言ったが、俺が答えを言うとは限らない。だから、俺が答えられる質問を選ぶんだ」

「そんな、無茶な……」

 質問の幅がさらに狭まったような気がするのは、気のせいだろうか。

 ウィルフレッドは立てた片膝に顎をのせ、しばらく考える。

 最初に一つだけと言っておきながら、次には答えられないものには答えないと言ったのはなぜだろう。それは多分ウィルフレッドの質問を警戒してのことだろう。一つのことから多くのことが分かる場合もある。そして多分、アミールが触れて欲しくない部分は昼間襲われた件に違いない。ならばその中のどの部分なら答えてくれるだろうか。

 頭を悩ましながら口を開く。

「じゃあ……聞くけど。襲ってきたやつらが言ってた、奴隷の女の人を買ったって?」

 悩みに悩んだ末の質問だった。

 アミールが答えたくないことなら、聞かないというのも一つの手だ。ならば、どの部分なら答えてくれるかのかと考えた結果だった。

 だが、次の瞬間、アミールの爆笑が墓中に響き渡る。

「お、おまえ、考えた末がその質問か!?」

「なんだよ。悪いか?」

 ムッとして答えると、アミールはまた笑った。

「いや、構わない。それなら答えてもいい」

 ククッと笑いながら、こちらを見ているような気配を感じ、その馬鹿にした態度に憮然とする。だから、思わず叫んでいた。

「ヴェルセシュカに奴隷はいない!」

 それがどれほど国が安寧である証であるか、きっとアミールは知らないと思った。

 だが、すっと笑いを引っ込めたアミールが、今度は逆に静かになる。お互いの位置はかろうじて分かる明るさだが、表情までは見えない。今、アミールがどんな顔をしているのか、ウィルフレッドには分からなかった。

 だから、ひどく沈んだ声が聞こえた時、自分の吐いた暴言に気づいた。

「……そう、おまえの言うとおり奴隷など必要ないんだ」

 その声音と、実際にアミールの取った行動は一致していない。必要ないものなら、普通買わないだろう。

「――ごめん。ひどいことを言った」

「いや、かまわない。きっとヴェルセシュカはゴードヴェルクと違って豊かな国なのだろう」

 大国であるがゆえ、隅々にまで潤いが行き届かない。中央にばかり富がかたより、貧富の差はひらく一方だとアミールは告げた。

 確かに、身を隠しながら通ってきた街中は、中心から離れていくほど建物自体が豪邸から小屋のようなものへと変わっていった。そこに人が住んでいること事態に、驚きを隠せなかったほどだ。

 アミールは小さく息を吐き出すと、淡々と語りだした。

「おまえも会っただろう?布を貸してくれた女だ。名をレイラーという。発音は違うが……おまえのところの怖い侍女と同じ名だな」

 気落ちしているウィルフレッドを気づかってか、軽口を叩く。だから、ウィルフレッドも努めて明るく言った。

「レイラは心配性なだけだよ」

「おまえは女に甘いんだな」

 苦笑交じりに言われたが、このままでは話が続かないと先を促した。

「あいつは辺境の民の出で、その民自体が奴隷と決められている。……彼女の容貌を覚えているか」

 言われ、脳裏に蘇ってくる。

 髪は砂漠の民にしては珍しい金髪だった。肌の色もどちらかといえば白い方で、ヴェルセシュカの人間に近い。辺境とは言ったが、きっとゴードヴェルクの北方のどこかに住む民族なのだろう。瞳の色は濃い茶色で物静かな雰囲気の少女だった。

「彼女が街で売られていた時、たまたま通りかかった。髪も肌も薄汚れていたし、同じ人間とは思えない身なりだった。目も死んだようにうつろで、ただ空を見上げていた。だから俺は最初、頭が壊れているのかと思っていた」

 それがどれほどの状態だったのか、ウィルフレッドにはやはり想像がつかない。人を売る。しかも心が崩壊しかけた人を、だ。いや、もしかしたらその奴隷と言う現状に、崩壊させられていたのかもしれない。

「だが興味半分に近づいて行った時、ふと目が合ったんだ。今だから言うが、正直ゾッとした。何を考えているか全く分からない。かといってそれまで何を見ているわけでもない目がぴたりとこちらを向いたんだ。わかるか?今まで少々のことにも怖気づくことのなかった俺が、あの何も映さない目を怖いと思ったんだ」

 だから、とアミールは続けた。

「俺はあいつを買った。あいつの何が怖いのかを知るべきだと思ったんだ」

 それは恐怖を克服しようとする強い意思が感じられ、アミールの中に流れるゴードヴェルクの民が好戦的だと言われている血の一端を垣間見た気がした。それがもしかしたら、彼らの強さなのかもしれない。ウィルフレッドはふとそう思った。

「それで……彼女の何が怖いのかわかった?」

 続きを促すと、アミールは失笑した。

「いや。未だに分からない。だが、多分こういうところだとは思う」

 そう言って話してくれたのは、ウィルフレッドをも青ざめさせた。


 アミールはレイラーをそのまま王宮に連れ帰り、身なりを整えさすと同じ人間だということが良く分かったという。こちらの言っていることも理解し、実際には頭も壊れていなかった。だから好きなようにしていろと言ったが、レイラーはアミールの側を離れようとしなかった。理由を尋ねると彼女は、買った人が主人なのだから、その人の為に自分は生きるのだと告げた。では昼も夜もなく命じれば働くのかと聞くと、働くのではなく主人の為に生きているのだという。人間のように働く時間を決める必要もない。奴隷が人間と同じように生活をすることは絶対にあり得ない。奴隷と人間は別物だと言い切った。

 その上さらにレイラーから聞いた奴隷の生活はアミールの想像を絶するものだった。とてもじゃないが、それは人間の生活ではない。奴隷商人はいつまでも売れ残った奴隷には食事も与えず、死ぬのを待っているともいう。それはほんの一端に過ぎなかった。

 だから彼女の言った、主人を持てた奴隷は幸せな方だということも納得が出来た。だが一つだけ、彼女の言葉を信じなかった。というか、信じられなかった。だからアミールは聞いた。命令されて嬉しいのならば、その証拠を見せろと。


 アミールはじっと宙を睨みつけていた。何かを思い出すように。痛みを噛みしめるように。

 そして吐き出す息と共に呟いた。

「俺はあいつにナイフを手渡して言ったんだ。では――死ね、と……」

 人間だろうと動物だろうと死ぬのは怖い。口では綺麗事を言っているが、いざとなると怖気づくものだ。さて、どんな反応が返ってくるのかと、アミールはじっと窺った。

 そこで不意に言葉が途切れ、暗闇の中に静寂が満ちる。

「それで……?」

 ウィルフレッドは嫌な予感を拭えず、聞いておきながら耳を塞ぎたい心境になった。

「――躊躇いなくやってくれたよ」

 あっさり言って、自らの喉元を切る真似をした。

 現在も生きているのだから助かったということだが、言われてみれば彼女はゴードヴェルクの侍女が着ているような首元の開いた服を着ていなかった。他民族だからかと思っていたが、どうやらそれは違うのだと気づく。

「しかも、あいつは喋らなかっただろう?」

 自嘲気味に問われ、頷くしかなかった。

 アミールの言いたいことは分かった。あえて確認をしようとも思わない。

 確かに言葉にするのは難しいが、彼女を怖いと思ったアミールの心境が分かったような気がした。

「俺が怖いと思うものは少ない。だから、あいつを側に置いている」

 もしも世の中から怖いものが無くなったら、何も望まなくなるだろうと言った。強い力に対抗する為には、自らも力を望まなければならない。権力に屈さないためには、その上を行く権力を手に入れなければならない。だから何も望まなくなった時、生きている意味を失うのかもしれないと言った。

「そっか……」

 強く生きる姿勢はすごく格好良く見えた。

 わずか二歳しか違わないのに、見ている世界が違うのだと思い知る。

「アミールは……すごいな」

 軽い自己嫌悪に陥りながら、膝におでこをくっつけて顔を隠す。暗くて見えないと分かっていても、悔しさの滲む顔を見られたくはなかった。

 だが意外なことに、軽い調子で返される。

「おまえの方がすごいだろ?」

「どうしてだよ」

 どう考えてもアミールの方が立派だ。王子としての立場に甘えてもいない。役割を理解し、務めを果たそうとしている。

「分かってないな。おまえは俺に警戒させない。それだけですごいんだよ」

 軽く笑い声を上げ、頭をわしわしと撫でまわされる。

「よく分からないよ」

 それでも無遠慮に撫でまわす手が優しいと思ってしまったのは気のせいではなかったはず。

 ウィルフレッドは膝に顔を埋めたまま目を閉じた――。


 次に目を開けた時、小窓から見えた空は微かに明るさを帯びていた。

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