身代わりの代価
※ニーナ視点です。
戦争が始まる前の話になります。
山での生活は厳しい。特に冬は食べ物がない。雪に閉ざされ、外に出られない日が何日も続くと、その上気力の消耗も激しくなってくる。兄弟たちと身を寄せ合い、寒さと飢えをしのぐ冬は山岳民族にとって一番、命の危さを思い知らされる季節だ。
あれは厳しい冬を越すための準備に、麓の街まで下りた初秋の日のことだった。
運河を挟んだ向かいにある国、ヴェルセシュカとの開戦が近いのではと、内陸にあるこの街にまで噂が聞こえるようになっていた。わずか八年ばかりしか生きていないニーナに、戦争がどのようなものであるかなど想像つかないものだったし、ただ、生きていくために必要なのは目の前の季節をどうやって乗り切りかということだけだった。
だから、数年後にまさかその渦中に自ら身を投じることになるとは、その時は思いもしていなかった。
王女付きの侍女を募集しているという話を聞いた時、身分を問わないという条件をおいしい話だとしか考えなかった。もっとよく考えていれば、そこに隠された意味に気づいたかもしれないが、ニーナにとって出された条件に自分が当てはまることと、給金の多さに目を奪われ、他のことにまで頭が働かなかった。
山の冬はもう目の前だ。
ゆっくりと考える時間などないことは分かっていた。
だから、すぐにニーナは一緒に買出しに来ていた父親に侍女になる決意を告げていた。そうすれば、自分一人の食扶持も減り、少しでも兄弟たちの飢えを減らすことが出来る。その上、仕送りが出来れば来年の冬も、その次の冬も、準備に必要なお金を用意できる。
父親は一瞬驚いていたが、その日は取りあえず家族に相談するとだけ言い、結局、翌日にはニーナは王宮へと向けて旅立つことになった。
王宮に着いたものの実際にはそれからいくつかの審査を受け、侍女候補として採用されたのはすでに秋も終わり、王都から望む山の頂きがすでに白いもので覆われていた。
同じく侍女候補として採用された少女たちと行儀や礼儀を学んでいたが、同年代というには育った環境が違うためか、彼女たちはまだまだ精神的に弱く、夜には泣いて親元に帰りたいという者までいた。だが生憎、ニーナにとって王宮での暮らしは、命に関わる冬山よりも断然快適で、親が恋しくないと言えば嘘になるが、自分が頑張れば幼い弟たちが飢えに苦しまなくてもいいと思うと、まだまだ頑張れた。
でもそれは、初めて王女であるリューネリア様に謁見を許された、その日までのことだった。
艶やかな黒い髪に透き通るほど白い肌。紫色の瞳は透き通り、まだ六歳だという王女はどこまでもあどけない。
だが、彼女は自分たちを見て、側に置く必要はないと言い張っていた。
「いやっ、侍女なんていらないわ!わたしは乳母やがいればいいの!」
傍らの女性に縋りつき、その紫色の瞳から大粒の涙を落としている。
乳母と言われた女性は、優しくリューネリア様の背中を撫でながら優しく言い聞かせていた。
「そんなことを言ってはなりませんよ。もうそろそろネリア様も一人前の淑女として、王女として、侍女を持たなければなりません。彼女たちもその為に王宮へと上がって来たのです。それなのに彼女たちに仕事を与えないおつもりですか?」
それはつまりクビということだろうか。
だが、いらないと言われてしまえば仕方のないことだ。もしかして山に帰らなければならないのだろうかと思っていると、リューネリア様は涙の浮かんだ瞳でこちらをじっと見て、再びじわりと涙を浮かべた。
「どうしてみんな、髪が黒いの?どうしてみんな、子供ばかりなの?いやよ、そんなの。私は、いや!」
今更、髪の色や年齢のことを言われても、それは王宮が出した条件で集められた少女ばかりなのだ。仕方ないのではないだろうか。
だが、どうしてそこまで王女が嫌がっているのか、ふとニーナは考えた。
弟たちの癇癪も、何か必ず原因があった。普通なら思いもつかないような小さなことであったりしたが、では、この王女の癇癪の原因とは一体、何だろう。王女が嫌がっていることと言えば、王宮の出した条件そのもの。
――条件?
ふと、全身が粟立った。
自らの考えに、戦慄する。
そんな恐ろしい考えに辿り着いた自分に、恐怖さえ覚える。
まさか、そんな……。
不躾だとは思ったが、僅かに顔を上げて王女を見ると、泣く王女と視線が合った。
その瞳が恐れている。こちらを見て、かすかに首を横に振る。
そして、彼女の口から発せられた言葉に、自分の考えが正しかったことを知る。
「身代わりなんていらない!わたしのためにしんじゃうなんて、いや!」
それからすぐに、何人かの侍女候補たちは王宮から去っていった。それでも残った数名は、結局生活していくには自らが働くしかない者たちばかりで、ニーナも当然残ることを選んだ。
リューネリア様の癇癪はあの時一度しかなく、それはもう手がかからないばかりか、弟たちのように腕白すぎて怪我の心配をする必要もなく、聞きわけもよく、その上、可哀想なぐらい聡い子供だった。
もっと子供らしく遊べばいいのにとさえ思えるほどで、だが、彼女は王女としての勉強も嫌がらずこなし、そのすべてを吸収していっているらしく、教師たちもまるで自分の自慢話のように話しているのを何度か聞いた。
そんなある日、リューネリア様にニーナ自身のことを聞かれ、別に隠す必要もなかったので正直に答えた。山での生活は苦しく、偶然侍女募集の要項が自分に合っていたので給金目当てに応募したこと。そのお金で両親や兄弟が飢えなくてすむならば、別に離れて生活しようと構わないこと。
……身代わりのことも自分なりに結論づけた。つまり、冬山での厳しさは本当に命に関わることで、冬を無事に越す確率と、リューネリア様の身代わりになって命が危険にさらされることを比べたら、結局は変わらないのではないかということを。
不思議そうな顔をして聞いていたリューネリア様だったが、何か納得したように一つだけ頷いた。
「山で冬を越すにはきちんと準備をするのね?……そうね。必ず身代わりとなって死ぬとは限らないのよね。私がきちんと周りを見て注意していれば、あなたたちが死ぬ可能性は低くなるはずね……」
言われ、ニーナは幼い王女の想いに思いもよらず心が震えた。
今まで、幼い王女の身代わりを集めた王族や貴族の考えに、少なくとも嫌悪を覚えなかったわけではない。だが、給金や家族を思えばこそ、その王族や貴族のいる王宮に否応なく残ることを選んだのだ。
だが、リューネリア様は違う。この腐敗した王宮にいながら、歪んだ周囲の大人の思惑に惑わされない思考を持っている。たかが侍女一人といえども、いくらでも代わりがいるというような大人たちとは違う。それはとても貴重なもので、もしかしたら将来まで失われずにいられないものかもしれない。
だが、たった一人のこの国の後継ぎ。
人ひとりの命の重さを知る王女。
失くしてはならない人なのかもしれない。
たとえ自分の命を失うようなことがあっても、守らなければならないのかもしれない。
ニーナは幼い王女の出した答えにゆっくりと頭を下げた。どうしてもそうせずにはいられなかった。
身を丸めるようにして、一つだけ発言を許してもらう。
そして王女の想いに応えるよう、慎重に言葉を選ぶ。
命の重さを知る彼女の為に。
「リューネリア様が私たちを身代わりとすることを良しとしないように、私自身もリューネリア様の犠牲となることを良しとしません。ですから、私は私自身を守れるように強くなります。そして、リューネリア様もお守りします。どのようなことからも」
この気持ちが、限りなく兄弟に向けられるそれに近いことをニーナ自身分かっていた。だが、自然と頭が下がってしまうこれはなんだろう。
分からないまま、うずくまる。
それが忠誠心だと言うことに、まだニーナ自身、気づいていなかった。