第9話 壁を壊した男と、運命を掴んだ女
大聖堂を出た瞬間、空気が違った。
同じ祖国の空なのに、さっきまで纏わりついていた重さが少しだけ薄い。
結界が完全に戻ったわけではない。街の人々の顔色もまだ良くない。けれど――私の胸の奥の“軋み”が、嘘みたいに静かだった。
私は石段の上で足を止め、振り返った。
大聖堂の扉は閉じられ、衛兵が慌ただしく走り、群衆はざわめきながらも散っていく。
ここから先は、この国が自分で立て直すしかない。
「……終わったんですね」
自分の声が、少しだけ空っぽに聞こえた。
終わった、のに。胸が軽いのに。
なぜか、涙が出そうだった。
ヴィクトールが隣に立ち、私の手の甲にそっと触れる。
いつもの熱い手なのに、今日は不思議と静かだった。
「終わった。君が終わらせた」
「私は……言っただけです」
「言えなかった君が、言えた。それが全部だ」
私が息を吐くと、護符が微かに温かく光った。
それは私が、もう無理に何かを支える必要がないと告げるみたいに。
王城への帰路は、騒がしかった。
祖国の王都の門を出るとき、兵士たちが道を開け、民が遠巻きに見守った。
罵声はなかった。
代わりに――ひそひそとした声が、風に混ざる。
「本物だった」
「追い出したのに」
「王子さまは……」
「国はどうなる……」
その声に胸が痛まないわけじゃない。
でも私は、背を向ける。背を向けることが、冷たいのではなく――自分を守ることだと、ようやく分かった。
隣国へ戻る船の上で、私は甲板に出た。
海風が髪を揺らし、波が白く砕ける。
私の横には、当然のようにヴィクトールがいる。
「……壁、壊さなかったですね」
「約束したから」
「代わりに、空気を壊してました」
「空気は壊すべき時がある」
平然と言い切る。
私は笑ってしまった。少しだけ、軽く。
「ヴィクトール」
「うん」
「ありがとう、って言っていいですか」
彼は一瞬だけ黙った。
黙った後、珍しく視線を逸らし、低い声で答えた。
「……言っていい。僕は言われたい」
「素直ですね」
「君の前では、嘘をつきたくない」
その言葉が胸に落ちて、しんとした熱になる。
私は海を見たまま、言った。
「あの日、壁と一緒に……私の絶望を壊してくれて、ありがとう」
「壊し方が乱暴だった」
「乱暴でした」
「でも、後悔してない」
「……そうでしょうね」
彼が笑った気配がした。
その笑いに、私の心臓が少しだけ早くなる。
バルドールに戻ると、王城は変わらず迎えてくれた。
王妃は私の顔を見るなり、肩の力を抜いて微笑んだ。
「おかえりなさい、エルセ殿下」
「ただいま……」
その言葉が口から出た瞬間、私は自分で驚いた。
ここが“帰る場所”になりつつあることに。
それから数週間、私は大神殿で訓練を続けた。
浄化と結界の知識。力を暴走させない呼吸。疲れたときの休み方。
そして何より――自分の意思で選ぶ練習。
祖国の便りは、宰相から断片的に伝えられた。
第一王子エドワードは廃嫡。幽閉。
マリアは拘束され、神殿の調査が進む。
改竄に関わった者たちも次々と処罰。
国王は体調を崩し、政治は混乱している。
結界の回復は遅い――それでも、少しずつ正す動きが出ている。
私は、その報告を聞いても、胸が軋まなかった。
無関心ではない。
ただ、責任が私の肩から降りた。
ある夜。
庭園の噴水の前で、私は月を見上げていた。
最初の夜と同じ場所。けれど、私の足元はもう揺れていない。
背後から足音がして、ヴィクトールが現れた。
今夜の彼は、軍装ではなく、正装だった。黒い外套に銀の飾り。
そして――彼の手には、小さな箱があった。
「……何ですか、それ」
「確認」
「確認?」
「君が驚いて逃げないか」
私は眉を寄せた。
「逃げません」
「よかった」
ヴィクトールは箱を開けた。
中には指輪がひとつ。
派手ではない。青い石が一粒、静かに光っている。胸元の護符と同じ色だ。
彼は、あの日の広間と違って、ちゃんと距離を取って立った。
そして、ゆっくり片膝をついた。
私は息を止めた。
“壁を壊した男”が、初めて正しい手順で、正しい姿勢で、私に向き合っている。
「エルセ」
彼の声は低く、揺れない。
でも、ほんの少しだけ不安が混ざっている。
戦神の不安なんて、見たことがない。
「僕は、君を見つけた時から、君を手放す気がなかった。……でも、それは僕の都合だ」
彼は一度、息を吐く。
「君の意思を守るって約束した。だから、ちゃんと言う。君に選んでもらう形で」
彼は箱を持つ手を少しだけ上げた。
私に、届く高さで。押しつけない高さで。
「僕と結婚してほしい。バルドールの王太子としてじゃなく、ヴィクトールとして。君の隣に立つ男として」
「……」
「君が嫌なら、諦める……とは言えない。諦める努力はする。君が嫌がることはしない」
最後が、らしい。
私は口元を押さえた。笑いそうになったのをこらえるために。
「……努力、って」
「僕は努力が得意だ。戦場で鍛えた」
「鍛える方向が違います」
「君のためなら、方向転換くらいできる」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さった。
私は、ゆっくりと彼の前に膝をついた。彼と同じ高さになるために。
「ヴィクトール」
「うん」
「私、怖いです」
彼の瞳が揺れる。
私は続けた。
「また誰かの都合で、人生を決められるのが怖い。期待に潰されるのも怖い。……でも」
私は指先で、箱の縁に触れた。
冷たい金属。確かな形。
「あなたは、私に選ばせてくれました。私の言葉を待ってくれた」
「待った。……長かった」
「短いです」
私は笑ってしまった。
ヴィクトールも、少しだけ笑った。ほっとした顔で。
「……だから、答えます」
私はまっすぐ彼を見た。
「はい。あなたと一緒にいたい。あなたの国で、私の意思で生きたい」
指輪が、月光を受けて静かに光る。
ヴィクトールの手が震えた。嬉しさを隠せない震え。
「……本当に?」
「本当に」
「……よかった」
彼は指輪を私の指に通した。
サイズはぴったりだった。最初から、ここに来ることが決まっていたみたいに。
その瞬間、庭園の空気が少しだけ澄んだ。
噴水の水音が、祝福のように聞こえる。
ヴィクトールは立ち上がり、私の手を取る。
そして――今度は許可を取るみたいに、少しだけ顔を近づけた。
「口づけてもいい?」
「……今さらですか」
「今さらだから聞く」
私は目を閉じて、小さく頷いた。
彼の口づけは、壁を壊す時みたいに乱暴ではなく、驚くほど丁寧だった。
目を開けると、彼が少し困った顔で見ていた。
「……壁を壊さずに済んだ」
「壊したら怒ります」
「怒られたくない」
「じゃあ、頑張ってください」
彼は真面目に頷いた。
その姿が可笑しくて、私は声を立てずに笑った。
私は思う。
あの日、北壁が崩れたのは、私の人生が崩れたからじゃない。
崩れたのは、私を縛っていたものだ。
絶望と一緒に、壁が砕けた。
そして今、私は運命を――掴んでいる。
月の下、私たちは手を繋いで噴水の前に立った。
水音は変わらない。
けれど、私の世界はもう別物だった。
壁を壊した男と、運命を掴んだ女。
その物語は、ここで終わる。
そして、ここから始まる。
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