第8話 真実の露呈と、本当の断罪
使節団が帰ってから三日。
バルドール王城は表向き平穏だった。庭園の噴水はいつも通り水を落とし、廊下の灯りは揺れ、食卓には温かいスープが並ぶ。
けれど、見えないところで糸が張られている。兵の配置が変わり、騎士たちの足取りがさらに静かになり、宰相の執務室には夜遅くまで灯が消えない。
私は大神殿での訓練を続けていた。
浄化は少しずつ安定してきたが、祖国の“軋み”は弱まらない。むしろ、日ごとに濃くなる。
「……来てしまう」
口にした瞬間、護符が熱を帯びた。
司祭長セルギウスが顔を上げる。
「感応が強まっていますね。向こうの結界が、かなり落ちている」
「結界が落ちたら……」
「魔物が入ります。疫病も広がる。土地が荒れれば飢饉が来る。――だから、彼らはあなたを必要とする」
必要。
その言葉に、胸が痛む。
でも、必要だからといって、私がまた踏みにじられる理由にはならない。
王城へ戻ると、宰相が私を待っていた。
老練な顔が、珍しく疲れている。
「エルセ殿下。祖国より返答が届きました」
「……条件は」
「飲む、と。少なくとも“表向きは”」
表向き。
嫌な予感が、背筋をなぞった。
「彼らは近々、祖国の王都で“再審の場”を設けるそうです。罪状の検証、聖女の正当性の検証――そして、あなたを招く、と」
「……私を?」
「あなたが来なければ『逃亡しているから証言できない』という筋書きにするつもりでしょう」
私は唇を噛んだ。
来い。出てこい。晒されろ。
そういう呼び方だ。
背後から低い声が落ちる。
「行かない」
ヴィクトールだった。
いつの間にか廊下の影に立っている。音もなく。
「行かない、で済むなら……」
私が言いかけると、彼は私の言葉を最後まで聞いてから、静かに言った。
「君が行きたいなら、行く。君が“決める”なら、僕はその決定を守る。……ただし、条件がある」
「条件?」
「僕も同席する。僕の兵と、証人と、記録官も連れていく。向こうの土俵には乗らない。こちらの土俵を持ち込む」
持ち込む。
豪快な言い方。でも、筋は通っている。
祖国の“再審”は、彼らが自分たちに有利な形で作る舞台だ。そこへ丸腰で乗るのは自殺行為。
私は深く息を吸った。
「……行きます」
宰相が目を細める。
ヴィクトールは微かに眉を動かした。
「理由は?」
「私が行かないと、彼らは民を盾にして、ずっと私を縛ろうとする。……終わらせたい」
「終わらせる、か」
「はい。私の無実と、マリアの正体と、エドワード殿下の愚行を――公の場で」
言葉にした途端、背筋が伸びた。
怖い。けれど、逃げたままでは、ずっと追われる。
ヴィクトールは少しだけ口角を上げた。
「いい。君が“終わらせたい”なら、終わらせよう」
「……壁は壊さないでください」
「壊さない。今回は“扉から入る”」
その宣言が、妙に頼もしくて、可笑しくて、私は一瞬だけ笑ってしまった。
再審の場は、祖国の王都の大聖堂だった。
私は再び、その国の石畳を踏んだ。
逃げるように去った日から、まだ数日しか経っていないのに、街は別物になっていた。
空気が重い。
道端の花は萎れ、噴水の水はどこか濁っている。人々の頬はこけ、目の下には影。
結界が薄れている――そんな気配が、肌を刺した。
大聖堂の前には群衆が集まっていた。
私を罵る者、祈る者、泣く者。
混ざり合って、騒音になっている。
その群衆が、私たちを見て割れた。
隣国の黒甲冑の兵が整然と道を作り、その中心にヴィクトールがいるからだ。
私は、怖さを押し込めて歩いた。
もう、拘束されない。
私の横には、盾がいる。――いや、盾と言うには威圧が強すぎる。
大聖堂の中は、冷たかった。
高い天井、巨大なステンドグラス。
中央に設けられた壇上には玉座代わりの椅子が並び、そこに国王と王妃、そしてエドワード第一王子が座っている。
マリアは白い衣を纏い、聖女のような顔で俯いていた。
私を見た瞬間、エドワードの目がぎらりと光った。
安堵と怒りと、焦りと――所有欲。
「エルセ! 戻ったか!」
戻った、じゃない。
来た、だ。
私が口を開く前に、ヴィクトールが一歩前へ出た。
「呼んだのは君たちだろう。こちらは“証人”と“記録官”を連れてきた。再審なら、記録は公開されるべきだ」
大聖堂がざわつく。
祖国側の神官が顔を青くする。
「な、何を勝手に……ここは我が国の――」
「だから言ってる。内輪で処理するな。君たちが“公の場”を望んだんだろう?」
ヴィクトールの声は穏やかなのに、刃がある。
逃げ道を塞ぐ言い方。
国王が咳払いし、重い声で言った。
「……よい。記録官の同席を認める。ただし、この国の法のもとで――」
「法?」
ヴィクトールが首を傾げる。
「昨日まで君たちは法を盾に、無実の娘を追い出した。今日は法を盾に、救ってほしいと願う。……都合のいい盾だね」
空気がさらに冷えた。
私は深呼吸し、前へ出た。
「エルセ・フォン・ラングレイです。本日は、私にかけられた罪の再審と、聖女マリアの正当性の検証を求めます」
国王が頷く。
「よい。まずは罪状から――」
そこで、マリアが小さく嗚咽した。
群衆がざわめき、「聖女様が可哀想だ」と声が上がる。
私はその声に飲まれないよう、壇上のマリアを見つめた。
彼女は泣いている。けれど涙の奥に、計算の光がある。
司祭長セルギウスが、バルドール側の証人として前へ出た。
「検証は同時に行うべきです。罪状の中心に“聖女への嫌がらせ”がある以上、聖女の正当性が揺らげば、罪状の根も揺らぐ」
祖国側の神官が反発する。
「聖女マリア様の正当性など疑う余地は――」
「ある。光がない」
セルギウスは淡々と言った。
その言葉に、群衆がざわめく。
「……では」
セルギウスが水晶球を掲げた。「ここに“聖性の反応”を見る器があります。双方の聖女候補が触れ、反応を記録する」
祖国側の神官が青ざめる。国王が目を逸らし、エドワードが舌打ちした。
「そんなもの、隣国の小細工だ!」
「小細工なら、君の国の神官が管理してもいい。だが、記録官が見ている」
ヴィクトールが静かに圧をかけた。
逃げられない。
最初に触れるのはマリアだった。
彼女は震える手で水晶球に触れ、祈りの言葉を唱えた。
――何も起きない。
水晶球は、ただの透明なまま。
沈黙が落ちる。
そして次第に、ざわめきが増す。
「……光が」
「ない?」
「聖女様、どうして……」
マリアの顔が引きつった。
エドワードが立ち上がり、声を荒げる。
「だ、黙れ! マリアは疲れているのだ! 先日の災厄で、国を守るために力を――」
「国を守るために、何をした?」
ヴィクトールが問いかける。
エドワードが言葉に詰まった。
セルギウスが次に私へ視線を向ける。
「エルセ殿下。お願いします」
私は水晶球に手を置いた。
ひんやりした感触。
祈りの言葉を口にするまでもなく、光が生まれた。
淡い銀白が球の中に満ち、やがて柔らかな輪になって広がる。
群衆が息を呑んだ。
ステンドグラスの光と混ざり、聖堂全体が一瞬だけ浄められたように感じる。
胸の奥の軋みが、ほんの少しだけ軽くなる。
「……これが」
「守護の光だ」
「本物だ……!」
ざわめきが、今度は恐れに変わった。
“今まで自分たちが何を追い出したのか”を、直感で理解していくざわめき。
マリアが、叫んだ。
「ち、違う! その女は偽物よ! 私が聖女よ! 私は……私は、殿下に選ばれたの!」
選ばれた。
それは聖女の言葉ではなく、愛妾の言葉だった。
司祭長セルギウスが冷たく告げる。
「聖女は“選ばれる”ものではない。祈りと資質によって示される。……あなたには、それがない」
「うるさい!」
マリアが壇上から飛び降りようとして、裾を踏んで転びかけた。
その瞬間、白い衣の袖から、黒い小瓶がころりと落ちた。
床に転がった瓶は割れ、甘い匂いとともに黒い液体が染み広がる。
嫌な気配。瘴気に似た。
セルギウスが顔色を変えた。
「……瘴毒?」
祖国側の神官が青ざめる。
「そ、それは……!」
マリアが叫ぶ。
「ちがう! 私じゃない! 誰かが――」
ヴィクトールが静かに手を上げ、黒甲冑の兵が一斉に動いた。
マリアの周囲を囲み、逃げ道を塞ぐ。
「その瓶は何だ。説明しろ」
ヴィクトールの声が冷たい。
マリアは震えながら、目を泳がせた。
「し、知らない……」
「嘘だ」
ヴィクトールは短く言い切り、私を見る。
私は護符に触れ、床の黒い染みへ手をかざした。
胸の奥に灯る熱。
光が落ち、黒い液体が細い煙になって消えていく。
空気が軽くなると同時に、群衆の中から悲鳴が上がった。
「今の……!」
「毒が消えた!」
「聖女様……じゃなくて、エルセ殿下が……!」
国王の顔が強張る。
王妃が唇を押さえる。
エドワードは青ざめ、拳を握りしめた。
セルギウスが、淡々と続けた。
「瘴毒は結界を薄め、土地を荒らす。最近の災厄の一因になり得る。――誰がそれを持ち込んだ?」
祖国側の神官が震えた声で言う。
「……マリア様が、神殿に“浄化の補助”と言って……」
「補助?」
「ええ、瓶を……何本も……」
マリアの顔から血の気が引いた。
エドワードが叫ぶ。
「黙れ! それは誤解だ! マリアは国を救うために――」
「救うために、瘴毒を?」
ヴィクトールが首を傾げる。
その仕草だけで、エドワードの声が詰まった。
さらに、バルドール側の記録官が一歩出て、巻物を広げた。
「証拠として、王立学院の生徒名簿と、日誌の筆跡鑑定結果を提出します。日誌の該当箇所は、エルセ殿下本人の筆跡ではありません」
大聖堂がどよめいた。
ハロルド卿が顔を歪める。
彼が一歩引こうとした瞬間、黒甲冑の兵がさりげなく進路を塞ぐ。
ヴィクトールが淡々と告げる。
「逃げるな。次は君の番だ」
ハロルド卿が声を荒げる。
「隣国が勝手に鑑定など――」
「鑑定はここでもできる。君の国の学者に依頼してもいい。だが記録官がいる以上、捏造はできない」
詰んだ。
それが空気に見えた。
国王が重い声で言う。
「……ハロルド。答えよ。日誌を改竄したのか」
「……っ」
ハロルド卿の喉が動く。
彼の背後で、エドワードが低く唸った。
「黙れ。余計なことを言うな」
その一言が、逆に決定打になった。
群衆がざわめく。“口止めだ”というざわめき。
ハロルド卿は顔を歪め、唇を震わせた。
「……私は、命じられただけです」
静寂が落ちる。
「第一王子殿下が……“エルセを排除しろ”と。マリア様を婚約者に据えるために」
大聖堂が割れるようなどよめきに包まれた。
「殿下が!?」
「王子が命じた!?」
「聖女じゃなくて愛妾だ!」
エドワードの顔が真っ赤になり、壇上から降りかけた。
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ! エルセが悪いんだ! あいつが! あいつがいなければ、僕は――!」
その言葉は、完全に“王子”ではなく“子ども”だった。
国王が立ち上がり、震える声で叫ぶ。
「エドワード! 貴様……!」
王妃が泣きそうな顔で首を振る。
「お願い……やめて……」
ヴィクトールが前へ出た。
声は低く、はっきりしている。
「これで十分だ。君たちが望んだ“公の場”で、真実は露呈した。――今度は君たちが断罪される番だ」
私は一歩進み、エドワードを見た。
彼は私を見る。
私を見る目だけは、最後まで“所有”だった。
「エルセ、戻れ……戻って、国を――僕を――」
私は静かに言った。
「殿下。私を呼ぶなら、まず謝罪からです」
「謝罪?」
「ええ。あなたは私の人生を壊そうとした。罪を捏造し、友人を操り、私を追放した」
エドワードの口が開いて閉じる。
謝罪の言葉が出ない。
プライドが邪魔をする。
私は、少しだけ笑った。
悲しくはない。冷たい笑いだった。
「あなたは、最後まで私を見ていませんでしたね」
「……っ」
その瞬間、胸の奥の軋みが、すっと静かになった。
私は理解したのだ。
祖国を支えていたものは私の“義務”ではない。奪われていただけだ。
国王は椅子に崩れ落ちるように座り、掠れた声で宣告した。
「第一王子エドワード。……婚約破棄の宣言は取り消す。いや、そもそも無効だ。お前は王族としての資格を失った」
大聖堂が息を呑む。
「マリアは“聖女”を騙り、瘴毒を持ち込み、国を害した罪で拘束。ハロルドは証拠改竄と虚偽証言の罪で拘束」
衛兵が動く。
だが――祖国の衛兵は、ヴィクトールの兵の前で、まるで弱々しい。
マリアが叫んだ。
「殿下! 助けて! 私を選んだのはあなたでしょう!? 私、あなたのために――!」
「黙れ!」
エドワードが怒鳴った。
その瞬間、マリアの顔が憎悪に歪み、叫びが本性になる。
「あなたが私をそうさせたのよ! エルセがいなければ、私は聖女になれた! 皆が私を崇めた! なのに――!」
狂ったような声が、大聖堂の天井に反響した。
人々の顔から、最後の幻想が剥がれていく。
ヴィクトールは冷たく告げる。
「君たちの国の問題だ。僕は口を出さない――と言いたいところだが」
彼は私の横に立ち、私の意思を確かめるように目を向けた。
「エルセが望むなら、僕は君たちに要求する。彼女への正式な謝罪と、彼女の名誉回復、そして今後一切の干渉の禁止を」
私は頷いた。
「望みます」
声は静かだった。
「私は、私の名を取り戻します」
国王は深くうなだれ、掠れた声で言った。
「……エルセ。すまなかった。お前を守れなかった」
王妃の涙が落ちる。
「ごめんなさい……」
謝罪を聞いても、胸は痛まなかった。
痛むのは、昨日までの私だけだ。
今の私は、立っている。
ヴィクトールが短く言った。
「これで終わりだ」
終わり。
でも、終わりは始まりでもある。
私は大聖堂の扉の向こう、濁った空を見上げた。
祖国は崩れかけている。
けれど私は、もうそこに縛られない。
私が戻るのではなく、彼らが正すべきだ。
そして私は――私の意思で、私の道を選ぶ。
(つづく)




