第7話 再会と宣戦布告
使者の到着は、翌日の昼だった。
「今夜中かもしれない」という騎士の報告から一夜。私はほとんど眠れずに朝を迎えたが、城は逆に落ち着いていた。廊下を歩く兵は増えたのに、足音は静かで、視線はまっすぐで、無駄がない。
嵐が来ると知っている者たちの、整った呼吸。
私は客間の鏡の前で、深く息を吸った。
選ぶ。決める。
もう、黙って連れていかれない。
用意されたドレスは淡い銀色だった。派手ではないのに、光を受けると芯がある色。司祭長が渡してくれた青い護符は、胸元で微かに温かい。
髪をまとめる侍女の手が少し震えていた。私が震えていないせいで、余計に緊張しているのかもしれない。
「エルセ」
扉の外からヴィクトールの声。
「準備できた?」
「……はい」
扉を開けると、彼は黒の正装だった。軍装ほど威圧的ではないのに、ただ立っているだけで場が締まる。
私を見て、ほんの少しだけ目が和らいだ。
「似合う」
「今、褒められても落ち着きません」
「褒めると君が現実に戻る。だから言う」
意味が分からないようで、分かる。
私は口を開きかけ、やめた。言い返す余裕は、今は必要ない。
謁見の間は、想像以上に広かった。
高い天井、長い絨毯、左右に並ぶ貴族と軍人と司祭。王妃は玉座の横に座り、宰相は一段下で控える。
そして中央――私の少し前に、ヴィクトールが立つ。私を完全に後ろに隠すわけではない。けれど、風よけになる位置。
扉が開く。
祖国の紋章を掲げた一団が入ってきた。
先頭は、王家の使節団長。壮年の伯爵で、礼儀の笑みを貼り付けている。
その後ろに、神殿の法衣を纏う神官。
そして――最後に、見覚えのある金髪。
エドワード第一王子の側近、ハロルド卿。
学院で私を「殿下」と呼び、裏で私を陥れる証言を取りまとめていた男。
視線が合った瞬間、彼は私を見て笑った。
勝ち誇る笑みではない。焦りを隠す笑み。
団長伯爵が一礼し、朗々と告げる。
「バルドール王国王太子殿下、ならびに王妃陛下にご挨拶申し上げます。我らはラングレイ王国の使節団。――本日は正式に、エルセ王女殿下の返還を要求いたします」
空気が凍った。
伯爵は続ける。
「エルセ殿下は、我が国の法のもとで罪を裁かれるべき身。国外追放を命じたのは我が国ですが、それはあくまで我が国の裁定。隣国がこれを妨げるのは内政干渉にあたります」
「内政?」
ヴィクトールが低く笑った。笑い声が、石床を撫でるように響く。
「壁を壊した件なら謝る。修繕費は払う。君たちの大広間は相当派手に崩れたからね」
団長伯爵が顔を引きつらせる。
「しかし、“返還要求”は受けられない」
「なぜだ」
「彼女は罪人だぞ」
「罪人かどうかは、君たちが決めることだろう!」
使節団の声が上がる。
ヴィクトールは視線すら揺らさない。
「君たちの言う“罪”の証拠を出せ」
「証拠なら――」
ハロルド卿が一歩出た。「証言なら多数ございます。殿下は聖女マリアを――」
「その話はもういい」
ヴィクトールが遮った。
冷たい声だった。刃物のように。
「僕は君たちの芝居に興味がない。今、ここで重要なのはただ一つ。――エルセの意思だ」
視線が、一斉に私に集まる。
胃の奥が重くなる。でも逃げない。
ヴィクトールが半歩だけ退き、私に道を作った。
私が前へ出るスペース。私の言葉のための空間。
私は深く息を吸い、絨毯の上を一歩進んだ。
「……エルセ・フォン・ラングレイです」
自分の声が、思ったより通った。
心臓は早い。手は冷たい。けれど、声は震えない。
「ラングレイ王国の使者の皆さま。返還要求と仰いましたが、私は“返される物”ではありません」
伯爵が眉をひそめる。
「殿下、あなたは我が国の王女です。国の命に従う義務が――」
「義務を語るなら、私にも権利があります」
私は言葉を切った。
祖国では一度も使わなかった、強い言い方。
「私は、罪を告げられました。しかし、私はその罪を認めません。証拠とされた日誌は改竄されていました。証言は誘導され、恐怖と利益で作られたものです」
「何を根拠に――」
「根拠なら、あります」
私は胸元の護符に触れた。
温かい。私の呼吸に合わせて、少しだけ脈打つ。
「私は隣国バルドール王国の大神殿で検分を受けました。そこで、私は“守護聖女”の資質を持つと判断されました」
ざわめきが広がる。
使節団の神官が顔を強張らせた。ハロルド卿の笑みが、ほんの一瞬だけ崩れる。
「馬鹿な……! 我が国には聖女マリアが――」
「その方の“光”は、昨日の議場で出なかったと聞きました」
言ってから気づく。
私は今、“祖国の内情”を知っている。ヴィクトールや宰相が把握していたのだろう。情報が、既にここへ来ている。
団長伯爵の顔が歪んだ。
「……貴様、我が国を侮辱するか!」
「侮辱ではありません。確認です」
私は目を逸らさなかった。
そして、心の奥で決めた言葉を口にする。
「私は、帰国しません」
その一言が落ちた瞬間、謁見の間が静まり返った。
静けさの中で、伯爵の顔色が変わる。怒りより先に、恐怖が浮かぶ。彼らは知っているのだ。私がいない祖国が、崩れ始めていることを。
「殿下……。国が、危ういのです」
伯爵の声が、急に低くなった。懇願の色が混ざる。
「結界が薄れ、作物が枯れ、疫病の兆しも……。あなたが戻らねば、多くの民が――」
胸が痛い。
でも――だからこそ。
「それを、私に背負わせるのですか」
私は静かに問うた。
「私は昨日まで、何も知らされずに支え続けていたのでしょうか。私の意思も、私の人生も無視して」
伯爵が言葉を詰まらせる。
「それは……」
「それなら、まずは謝罪が必要です」
私は一歩、さらに進んだ。
怖い。けれど、足は止まらない。
「戻ってきてほしければ、まずは土下座からですね」
自分の口からそんな言葉が出たことに、内心で驚く。
でもそれは、意地悪ではない。最低限の筋だ。
謁見の間がざわつく。
使節団の神官が青ざめ、ハロルド卿が口を開く。
「殿下、強がりはおやめください。あなたは騙されている。バルドールはあなたを利用し――」
「利用、ですか」
ヴィクトールが前へ出た。
声は低く、静かで、怒りが底に沈んでいる。
「君がそれを言うのは滑稽だ。君たちは彼女を利用し、切り捨て、必要になったら取り戻そうとしている」
「……っ」
「君たちが言うべき言葉は、“返せ”じゃない。“助けてくれ”だ」
ヴィクトールの言葉に、伯爵の肩が揺れた。
プライドと現実がぶつかっている。
その時、ハロルド卿が小さく笑った。
「……土下座だと? 罪人が何様のつもりだ。罪人には命令する権利などない」
「ハロルド卿」
私は名を呼んだ。
彼の笑みが止まる。
「あなたは昨日、私を罪人だと断じましたね。証言を集め、皆を導いた」
「当然です。聖女マリアを守るために――」
「守る?」
私は息を吸い、護符にもう一度触れた。
胸の奥が静かに熱を持つ。
「なら、あなたが守ったのは“聖女”ですか。それとも――“第一王子の欲望”ですか」
空気が張り詰めた。
ハロルド卿の目が細くなる。
「……何が言いたい」
「私が言いたいのは一つです。私は、あなたたちの都合で壊されません」
私は使節団に向き直り、はっきり告げた。
「私はここに残ります。そして、祖国に対して一つ条件を出します。――私の無実を証明し、マリアという方の“聖女”の正当性を公に検証してください」
「そんなことをすれば、国が――」
「国が壊れるなら、壊れるべきです」
言い切った瞬間、自分の中の何かがすっと整った。
怖さはある。でも、もう戻れない。戻らない。
伯爵は唇を噛み、次に、予想外の行動を取った。
膝をついた。
完全な土下座ではない。けれど、貴族が他国の謁見の間で膝をつくのは、ほとんど屈服に近い。
「……殿下。どうか。国を――民を――」
声が震えていた。
私はその姿を見て、胸が痛んだ。
でも同時に、昨日の私が床に引き倒されそうになった光景がよみがえる。
「民を守りたいなら、まず私を守るべきでした」
私は静かに言った。
「私は、あなたたちの国を憎んでいません。民も、全ての人も。……でも、私はもう、道具には戻りません」
ヴィクトールが、私の横に立った。
肩が触れる距離。彼は何も言わない。私の言葉を邪魔しない。
それが、彼なりの“盾”なのだと思った。
団長伯爵は顔を上げ、目を閉じた。
「……条件を持ち帰ります。ただし、第一王子殿下が――」
「第一王子が何ですか?」
私が問うと、伯爵は苦い顔で言った。
「殿下は……今、追い詰められております。国を支えていたものが失われたと知り、焦り、……正気を保つのが難しい」
正気。
胸の奥の軋みが、少し強く鳴った。
ヴィクトールが冷たく言い放つ。
「正気を保てない者が王になる国なら、なおさら君は戻るべきじゃない」
伯爵が黙る。
私は最後に、使節団へ向けて言った。
「帰って伝えてください。私はここで生きます。私の意思を踏みにじるなら――私は、あなたたちの国を“助ける”ことも拒みます」
言い終えた瞬間、喉がからからになっているのに気づいた。
でも、言えた。私は言った。
使節団は重い足取りで退室した。
扉が閉まるまで、誰も声を出さなかった。
静寂の中で、王妃が小さく息を吐き、私に微笑んだ。
「よく言えましたね」
「……足が、震えてます」
「震えていいのよ。震えても立った。それが大事」
ヴィクトールが私の手を取った。
握り方が、昨日よりずっと穏やかだ。
「君は強い」
「……強くなろうとしてます」
「十分だ。……君が望むなら、次は僕が言う番だ」
次。
まだ終わっていない。むしろ始まった。
祖国は、条件を飲むのか。
飲めなければ、もっと壊れる。
そして、壊れた先で彼らがどんな手を使うのか――。
私は扉の方を見た。
遠い国の影が、確かにこちらへ伸びてきている。




