第6話 夜の庭園、深まる絆
王城の夜は、静けさが濃い。
昼間の喧騒――歓迎の儀、司祭たちの訓練、視線の重さ――それらが嘘みたいに引いていき、石造りの廊下に残るのは、たいまつの揺らぐ音と遠い潮騒だけ。
約束通り、ヴィクトールは私を庭園へ連れ出した。
正確には「連れて出た」。私は自分で歩いているのに、彼の歩幅と存在感が、いつの間にか私の進路を決めてしまう。
「夜の方が落ち着くって、どういう意味ですか」
「昼は人が多い。声が多い。魂も騒がしい」
「魂まで数えるのやめてください」
「数えてない。……勝手に見えるだけだ」
言い方が少しだけ苦い。
私は返す言葉を探しながら、庭園の門をくぐった。
月明かりに照らされた庭園は、昼とは別の顔をしていた。白い花が点々と浮かび、噴水の水が銀の糸みたいに落ちる。石畳には露が薄く光り、風が葉を撫でる音が、ひどく優しい。
「……綺麗」
「君の国より?」
「比べたくないです」
比べたら、痛む。
祖国の崩れ始めた“軋み”が、まだ胸の奥で鳴っているから。
噴水の縁に近づくと、花壇の端に、枯れかけた小さな蔦が見えた。昼間は気づかなかった――いや、昼間は目に入らないほど目立たなかったのだろう。
私は反射で、指先を伸ばしかけて止めた。
訓練中ではない。勝手に力を使うのは危険だと、司祭長に言われたばかりだ。
「気になる?」
ヴィクトールが私の視線を追って、蔦を見る。
「……少し」
「触ってみればいい。君の力は、暴れるものじゃない。君が暴れない限り」
言い切るのが、この人らしい。
私は恐る恐る蔦の葉に触れた。ひんやりした露の感触。
胸の奥を静かに整えるように息を吸う。
祈りの言葉までは唱えない。ただ、「生きて」と、心の中で小さく願った。
すると蔦が、微かに震えた。
枯れ色だった葉の縁が、ゆっくりと緑を取り戻していく。月光の下で、それは奇跡というより、当たり前の回復みたいに自然だった。
「……」
私が息を止める。
ヴィクトールが、ふっと肩の力を抜いた。
「ほら」
「……訓練じゃなくても、出るんですね」
「君が“そうしたい”と思ったからだ。君の意思がある。だから綺麗だ」
綺麗。
自分の力をそう言われたのは、初めてだった。祖国ではいつも、役に立つか、邪魔か、どちらかの尺度で測られていたのに。
私は蔦から手を離し、噴水の縁に腰を下ろした。水音が規則正しく、心臓の鼓動を少しだけ落ち着かせてくれる。
「ヴィクトールは、どうして夜の庭園が好きなんですか」
「……好きというか、ここしか落ち着く場所がなかった」
「なかった、って」
「僕は“戦神”だからね。昼は期待がまとわりつく」
彼は噴水の水面を見つめた。月が揺れて、彼の瞳の色と重なる。
「期待されるのは、嫌じゃないでしょう?」
「嫌じゃない。必要だ。……でも、怖い」
意外な言葉に、私は首を傾げた。
「怖い?」
「僕が勝てば、皆が安心する。僕が負けたら、皆が絶望する。そういう目で見られる。……いつからか、“僕”じゃなくて“勝利”を見られている気がして」
彼は少しだけ笑った。でもそれは、苦笑だった。
「“魂視”があると余計だ。誰が僕を恐れてるか、誰が僕に媚びてるか、誰が僕を利用したいか、全部見える。見たくなくても、見える」
「……」
「だから、信じるのが下手になった」
私は何も言えずに、噴水の縁を指でなぞった。石が冷たい。
冷たさは、彼の言葉に似ていた。硬くて、逃げ場がない。
「僕が初めて戦場に出たのは、十五の時だ。祝福の言葉を掛けられて、送り出された。『王太子が出れば勝つ』って」
彼の声が低くなる。
「その夜、寝室に毒が入った。護衛の中に裏切り者がいた。……僕は、毒の魂が黒く光って見えたから気づいた。命は助かった。でも、次の日から僕を見る目はもっと変わった」
私は喉が鳴るのを感じた。
「……能力があるせいで」
「能力があるせいで、僕は“便利”になった」
ヴィクトールは淡々と言う。淡々としすぎて、痛みが隠れているのが分かる。
「誰も僕を『大丈夫か』とは聞かない。聞くのは『勝てるか』だけだ」
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締まった。
昨日までの私と、形は違うのに、似ている。役割に縛られて、本人が置き去りになる感じ。
「……大丈夫ですか」
気づいたら、口にしていた。
ヴィクトールが、驚いたように私を見る。
そして――ほんの少しだけ、目元が緩んだ。
「君は、本当にそう聞くんだね」
「聞きます。……だって、人ですから」
「僕は、人にそう言われるのが久しぶりだ」
彼の指が、私の手の甲に触れた。触れるだけなのに、熱が移る。
私は逃げなかった。怖いと思うはずなのに、今は逃げたくなかった。
「……だから、君を見つけた時、止まれなかった」
「止まれなかった、って」
「君の国の夜会。君の魂が、あまりに澄んでいて――それなのに、壊されそうだった」
彼の握る力が少しだけ強くなる。
「衛兵が君に触れた瞬間、僕の中で何かが切れた。僕は、君を傷つけるものを全部壊したくなった」
「だから壁を……」
「そう。理性が追いつかなかった」
私は小さく息を吐いた。
壁よりも、彼の心の方が崩れていたのかもしれない。
「……怖かったでしょう」
「僕が?」
「はい。自分が止まれないのって、怖いです」
私はゆっくり言葉を選んだ。
「私も、祖国でずっと怖かった。何をしても、していなくても、勝手に決められるのが」
ヴィクトールの指が、少しだけ緩んだ。
彼は私の手を離さないまま、低い声で言う。
「君には、決める権利がある」
「……本当に?」
「本当だ。君を国の道具にはしない。司祭長たちにも言ってある」
あの宰相と司祭長に?
私は思わず笑いそうになった。あの人たちに「道具にするな」と言って通じるのか、と。
でも、彼なら押し通すのだろう。武力ではなく――たぶん、彼の頑固さで。
噴水の水音が、間を埋める。
月が少しだけ雲に隠れ、庭園の影が深くなった。
「……ヴィクトール」
「うん」
「もし、祖国が土下座でも何でもして、私を連れ戻そうとしてきたら」
「連れ戻させない」
「でも、私は……私のせいで国が崩れていくなら」
「君のせいじゃない」
即答。
揺らがない声。
「君がいなくて崩れるなら、その国は最初から歪んでる。君が一人で支えるのは、間違ってる」
「でも、そこにいる人たちは……」
「いい人もいるだろう。苦しむ人もいるだろう。だからこそ、君が潰れたら何も残らない」
ヴィクトールが私の手を持ち上げ、今度は手のひら側に触れた。
指先が、私の掌の小さな傷跡をなぞる。学院で必死に我慢していたせいで爪が食い込み、薄く残った傷だ。
「君は、もう十分耐えた。次は、守られる番だ」
「……守られるって、慣れないです」
「慣れればいい。僕が慣れさせる」
物騒な言い方をやめてほしい。
私は眉を寄せた。
「それ、また強引です」
「強引でも、君が嫌がったら止める」
「……本当に?」
「本当に」
そう言う顔が真剣すぎて、私は目を逸らした。
目を逸らした先で、さっきの蔦が月光を受けて、しっとりと緑を増しているのが見えた。
沈黙のまま、少しだけ風が吹く。
その風が、彼の金の髪を揺らし、私の頬に触れた。
ヴィクトールが、急に息を吸ったのが分かった。
次の言葉は、さっきまでの理屈ではなく、もっと生々しい熱を含んでいた。
「……エルセ」
「はい」
「もう、どこへも行かせない」
胸が跳ねた。
反射で「それは監禁です」と言いそうになって、飲み込んだ。
言い返したら、冗談で済む。今は、冗談にしたくない。
「……それは、私の意思を奪う言い方です」
代わりに、私は正面から言った。
ヴィクトールは一瞬だけ黙った。
それから、眉間に皺を寄せて――珍しく、困った顔をした。
「……そうだね。言い方が悪い」
「悪いです」
「君を縛りたいわけじゃない。君が望む場所へは、一緒に行く。君が離れたいなら、離れさせる。……でも、誰かに奪われるのは、嫌だ」
奪われる。
その言葉が、彼の過去の毒と裏切りを思い出させた。
彼は奪われ続けてきたのだろう。信頼も、安らぎも、“自分”でいる時間も。
私はゆっくり、彼の手を握り返した。
そうしたくなったから、そうした。
「……奪われたくない、なら」
「うん」
「私も、同じです。もう一度、あの場所で、何も言えずに連れていかれるのは嫌です」
「……」
ヴィクトールの瞳が、少し揺れた。
そして、今度は彼が私の手の甲に、軽く口づけを落とした。熱いけれど、昨夜ほど強引じゃない。
「じゃあ約束しよう。君は自分の意思で立つ。僕は、君の意思を守る」
「……難しい約束ですね」
「難しい方がいい。軽い約束は、すぐ破れる」
その時、庭園の向こうから足音が走ってきた。
黒甲冑の騎士が一礼し、低い声で報告する。
「王太子殿下。至急です。祖国より使者が国境を越えました。到着は明日――いえ、今夜中の可能性があります」
騎士はちらりと私を見て、すぐ視線を伏せた。
「名目は“王女返還の正式要求”。ただし、随行に神官と……第一王子側近が含まれています」
胸の奥が冷えた。
来た。ついに。
ヴィクトールの手が、私の手をしっかり包む。
「恐れるな」
「……恐れます」
「恐れていい。君は一人じゃない」
月が雲から顔を出し、噴水の水面が明るく揺れた。
その光の中で、私は小さく頷いた。
もう、黙って連れ戻されるだけの私ではいられない。
そして――彼も、私を一人で戦わせる気はない。
夜の庭園は静かだった。
けれど、嵐の前の静けさだと、誰より私が分かっていた。




