第5話 崩壊する祖国の均衡
朝の礼拝堂は、光が澄んでいた。
高い天窓から落ちる陽が石床を薄金色に染め、香の匂いが静かに漂う。大神殿の司祭たちは声を潜め、私の周囲だけ少し空気がやわらかい――そんな気がした。
「では、今日は“浄化”の範囲を少し広げます」
司祭長セルギウスが、白い布で覆われた盆を差し出す。布の下から、嫌な気配が滲んでいた。
「これは?」
「瘴気の残滓です。港の外れで回収しました。今までなら自然に薄れていたものですが……最近、少し濃い」
最近。
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮む。祖国で聞き慣れた、嫌な予兆の響き。
私は盆の上に手をかざし、息を整えた。祈りの言葉を口にすると、指先の奥に淡い熱が灯る。怖さはまだある。けれど昨日より、少しだけ扱える。
白い光がふわりと広がり、布の下の淀みを包んだ。
次の瞬間、瘴気は細い煙のようにほどけ、空気が軽くなる。
司祭たちが、息を呑む音がした。
「……やはり」
「守護の浄化だ」
「伝承通り……」
私は額の汗を拭いながら、小さく息を吐いた。
「今ので、正解ですか」
「ええ。素晴らしい。ですが、無理は禁物です」
「無理、してないつもりなんですが……」
言い終える前に、視界が一瞬だけ揺れた。床が遠のくような、妙な感覚。
「エルセ!」
伸びてきた腕に支えられ、私は転びそうになって踏みとどまった。
振り向くと、ヴィクトールが真っ青な顔で立っていた。……いや、この人が青ざめるのはかなり珍しい。
「……大丈夫です。ちょっと、くらっと」
「ちょっとじゃない。座れ」
命令口調なのに、手が震えている。
私は素直に椅子に座った。すると彼は膝をつき、私の手を取って指先を確かめる。まるで壊れ物を扱うみたいに。
「熱が上がってる。無理をした」
「してませんって。……ただ、今、変な感じがして」
「変な感じ?」
私は胸のあたりを押さえた。
痛いわけじゃない。けれど、遠くで何かが軋む音がするような――そんな気持ち悪さ。
「誰かが、助けを求めてるみたいな……」
セルギウスが静かに頷く。
「遠方感応かもしれません。守護聖女の資質には、土地の歪みを“感じる”面もあります」
「土地の……」
私の脳裏に、祖国の王都の石畳、王宮の尖塔、学院の大広間――壊れた北壁が一瞬だけ浮かんだ。
あの場で、私が追い出された瞬間。
胸の奥が、急に冷える。
ヴィクトールの指が、私の手を強く握った。
「エルセ。君の国のことだね」
「……分かりますか」
「君の顔を見れば分かる。……嫌なら、今は考えなくていい」
嫌じゃない。
怖いだけだ。
「私、帰らないといけないんでしょうか」
口にした途端、ヴィクトールの瞳が鋭くなった。けれど怒りではなく、焦りに近い。
「帰らない。君が望まない限り、絶対に」
「でも、もし私が……私がいないせいで、あの国が」
「“君のせい”じゃない。君に寄りかかって立っていた国の方が異常だ」
言い切る声が、妙に優しかった。
私はそれ以上何も言えず、外套の端を握りしめた。
そしてその頃――祖国。
王宮の議場では、怒号が飛び交っていた。
「結界が薄い! 北の森から魔物が入り始めたぞ!」
「南の穀倉地帯の作物が一晩で枯れた! こんなことは前代未聞だ!」
「疫病の兆しも出ている、神殿は何をしている!」
玉座の前に立つエドワード第一王子は、顔色を失っていた。昨日までの勝ち誇った表情は、どこにもない。
隣で涙を拭うマリア――自称聖女は、肩を震わせている。だがその震えは、哀れみではなく苛立ちに見えた。
「……落ち着け! 我が国には聖女マリアがいる!」
エドワードが叫ぶと、諸侯たちの視線が一斉にマリアへ刺さった。
「聖女様、どうにかできぬのか!」
「いつも通り、祈っていただければ!」
「結界を、豊穣を!」
マリアは唇を噛み、ぎこちなく両手を組んだ。
神殿で覚えた“それらしい言葉”を唱え、床に膝をつく。眩い光が――起きるはずだった。
しかし、起きない。
沈黙だけが広がった。
そして誰かが、耐えきれないように呟く。
「……光が、ない」
「本当に聖女なのか?」
「なぜ昨日まで平穏だったものが、今日になって――」
エドワードが歯噛みした。
「エルセだ」
その名が落ちた瞬間、議場の空気が変わった。
誰もが思い当たったのだ。昨日、追放し、奪われた存在。ずっと当たり前に“そこにいた”何か。
「……まさか、結界を支えていたのは」
「豊穣の祈りも、疫病除けも……」
「だから、彼女が消えた途端に――」
マリアの顔が歪む。
エドワードはそれを見ないふりをして、机を叩いた。
「奪い返す。隣国が不法に連れ去ったのだ。国賓だの婚約者だのと戯言を――我が国の王女を返せと正式に要求する!」
「要求して返るのか?」
「軍を出すのか?」
「バルドールは“戦神”の国だぞ!」
不安が議場を満たす。
そこへ、マリアがか細い声を重ねた。
「……きっと、エルセ様は……私を妬んで、国を呪っているんです……。だから、私がもっと強く祈らないと……」
その言葉が、場を少しだけ落ち着かせた。
“悪女が国を呪った”という筋書きは、理解しやすい。責任を外に置ける。
だが次の瞬間、将軍が冷たく言い放った。
「呪いだろうが何だろうが、結果は同じだ。結界が落ちれば国が滅びる。……王子殿下、使者を出せ。土下座でも何でもして、連れ戻せ」
「土下座だと?」
「国が残るなら安いものだ」
エドワードの顔が引きつった。
屈辱と恐怖が混ざり、目の奥が揺れる。
マリアはその表情を見て、すっと声を落とした。
「殿下……優しく言って迎えれば、エルセ様は戻るかもしれません。彼女は、ずっと殿下を慕っていましたもの」
「……そうだ。そうだな」
エドワードは自分に言い聞かせるように頷いた。
自分が間違っていないと、信じたい顔だった。
「使者を出す。……いや、ただの使者じゃ足りない。脅しが必要だ。あの女が戻らなければ、ラングレイ家を――」
「殿下」
宰相が鋭く遮る。「それは逆効果です。今の我らに内輪揉めをする余裕はない」
エドワードは拳を握りしめ、言葉を飲み込んだ。
その沈黙の中で、誰もが理解する。
国は今、崩れ始めている。原因は――昨日、追い出した王女の不在。
同じ時刻、バルドール王城。
私は窓辺に立っていた。
遠い海の向こうが、なぜか痛い。胸の奥の軋みが、弱く、けれど消えない。
「エルセ」
ヴィクトールが背後から呼び、そっと肩に外套を掛け直した。
まるで私が寒がっていると決めつけるみたいに。……実際、少し寒かった。
「君は、感じてる」
「……はい。嫌な感じがします」
「なら、余計に休まなきゃいけない。君が潰れたら、僕が許さない」
許さない、の対象は誰なのか分からないのに、妙に安心するから困る。
「祖国が、私を取り戻しに来ますよね」
「来る。必ず」
「……どうするつもりですか」
「簡単だ。君の意思を、君の言葉で示す。あとは僕が盾になる」
盾。
そんな簡単な言葉で片づけられるほど、国は軽くない。
でも彼は、本気でそうするのだろう。
私は外套の端を握り、唇を噛んだ。
「……私、強くなれますか」
「なれる。君はもう、今日一つできた」
「何がですか」
「怖いって言った。助けを求めてるって言った。君の中の声を、無視しなかった」
それは強さなのだろうか。
でも、確かに昨日までの私は、黙って耐えることしかできなかった。
ヴィクトールが少しだけ表情を和らげる。
「今夜、庭園に出よう。風に当たって、少し話そう」
「庭園……」
「夜の方が落ち着く。君も、僕も」
その言い方が、どこか寂しそうで。
私は小さく頷いた。
遠い祖国の歯車が外れていく音は、まだ止まらない。
そして、その音はきっと、こちらへ近づいてくる。




