第4話 隣国の歓迎と、開花する才能
翌朝――と言っていいのか、私が眠りに落ちたのは空が白む直前だった。
目を覚ますと、窓の外は青い光で満ちていた。海は昨夜の黒さを脱ぎ捨て、陽を浴びて穏やかに揺れている。
そして、部屋の前には当然のように気配があった。
「……まさか、ずっと?」
「交代した。僕が全部は見ていない。君が嫌がる顔をしたら困る」
扉を開けた瞬間、ヴィクトールが平然と答えた。
廊下には黒甲冑の騎士が二人、等間隔に立っている。完全な護衛だ。
「嫌がる顔をしたら困るって、分かってるなら最初から――」
「今は許して。昨日は君を連れ出すので精一杯だった」
謝っているようで、謝っていない。
でも昨夜より声が柔らかい。私は深くため息をつき、諦めて身支度を整えた。
ヴィクトールが用意させたという朝食は、信じられないほどちゃんとしていた。温かい粥に、白いパン、果実、香りのいいお茶。
“罪人の逃亡者”に出される食事ではない。
「……本当に、ここまでしてもらう理由がないです」
「ある。君は僕の国の大切な客人だ」
「客人」
「それ以上でも、それ以下でもない――君が望むなら、ね」
あ。
今、ちゃんと“私の望み”を前提に置いた。
その事実に、私は少しだけ驚いた。
船は昼前に入港した。
甲板に出ると、風が髪をさらい、遠くに高い城壁と白い尖塔が見えた。港町は整然としていて、石畳の道が陽光を跳ね返す。祖国の王都と似ているのに、どこか空気が違う。濁りが少ない。
そして何より――歓迎が、物騒だった。
港には兵が並び、軍旗が風に鳴っていた。
軍楽隊までいる。音が鳴る前から、胸の奥がざわつく。
「……これ、私のためですか」
「そう。君を迎えるため」
「大げさです!」
「君の価値を、国に示す必要がある」
示す必要。
政治の匂いが濃くなる。私は一瞬身構えたが、ヴィクトールは私の横を歩きながら、低い声で言った。
「怖いなら、僕の腕を掴め」
「掴みません」
「じゃあ、掴まないでいい。倒れそうなら抱く」
「それもやめてください!」
私の小さな抵抗に、周囲の騎士が一瞬だけ目を泳がせた。
え、今の聞こえた? 王太子に向かってそんな口を――みたいな。
でもヴィクトールは不機嫌になるどころか、どこか誇らしげに口角を上げた。やめてほしい。
タラップを降りると、港の先頭に立つ一団が頭を下げた。
老練そうな宰相、学者然とした神官、鎧姿の将軍――そして、豪奢な衣装を纏う王妃がいた。
王妃。
胸がきゅっと縮む。私の祖国の王妃――つまり母は、昨夜の断罪で私を助けなかった。
“王妃”という存在に、反射で怯えが走る。
「ようこそ、バルドールへ」
王妃は柔らかく微笑んだ。
驚くほど、あたたかい声だった。
「あなたが……エルセ殿下ね」
「は、はい……」
「疲れたでしょう。ここまで無事で何よりです。ヴィクトールが――ええ、まあ……いつも通りの手段で連れてきたと聞きました」
「……いつも通り?」
「壁、よく壊すのよ、この子」
笑って言わないでください。
ヴィクトールは咳払いをして、珍しく居住まいを正した。
「母上。失礼のないように運んだ」
「ええ、そうね。あなた基準では」
王妃は私に向き直り、腰を折って丁寧に礼をした。
「改めて。あなたを“罪人”としてではなく、“国賓”として迎えます。ここでは誰も、あなたを辱めません」
「……」
喉の奥が熱くなる。礼をされるのは当然の立場だったはずなのに、今はそれが信じられないほど貴重に感じた。
宰相が一歩進み、硬い声で言う。
「エルセ殿下。祖国より“返還要求”が届く可能性があります。ですが我が国は、王太子殿下の名において、殿下を保護する」
「……ありがとうございます」
「ただし」
宰相の視線が鋭くなる。「我が国は、あなたが“何者か”を知りたい」
心臓が跳ねた。
やっぱり、そうなる。利用される。価値を測られる。
その不安を察したのか、ヴィクトールが一歩前へ出た。
「測るな。彼女は物じゃない」
「王太子殿下、しかし国益は――」
「国益なら、僕が担う。彼女には、休息を与えろ」
将軍が苦笑し、神官が静かに頷いた。
「……王太子殿下の言う通りです。まずは疲労を癒やすべきでしょう」
「疲労だけでなく、心もね」
王妃が優しく言った。
私は驚いた。心、って言ってくれた。祖国では誰も言わなかった言葉。
そのまま、王城へ向かうことになった。
港から城へ続く大通りには人が並び、手を振っている。罵声も石も飛んでこない。代わりに、花が投げられる。
私は思わず立ち止まり、周囲を見回した。
「……どうして、歓迎されているんですか。私は何もしていないのに」
「歓迎されるために何かをする必要はない」
ヴィクトールは当然のように言った。
「君は来た。それだけで、僕は嬉しい。国も――君の光に気づけば、きっと」
「また光の話」
「大事な話だ」
城に着くと、私は客間――というには贅沢すぎる一室に通された。
そこには神官が数人、静かに控えていた。先ほどの学者然とした神官が、私に頭を下げる。
「私は大神殿の司祭長、セルギウスです。殿下の“状態”を確認させていただきたい」
「状態……?」
「脅す意図はありません。あなたが何者かを、あなた自身が知るために」
私は一瞬、ヴィクトールを見た。
彼は頷く。
「嫌なら断っていい」
「……断れますか」
「断れる。断ったら、僕がこの部屋の壁を――」
「壊さなくていいです!」
セルギウス司祭長が咳払いし、淡々と手順を説明した。
小さな水晶球に触れ、祈りの文言を唱えるだけだという。
私は水晶球に手を置いた。
ひんやりした感触。
次の瞬間、球の中に淡い光が生まれた。最初は小さな灯火のように揺れ、やがて広がる。白に近い銀色。
司祭たちが息を呑んだ。
「……これは」
「まさか」
「伝承の……」
セルギウス司祭長の目が見開かれる。震える声で言った。
「エルセ殿下。あなたは――“守護聖女”の資質を持っています」
「守護……聖女?」
「浄化と結界、そして土地の安寧を司る存在。……我が国が長年探し求めていた」
背筋が冷える。
探し求めていた。必要。国益。
言葉が胸の中で嫌な形を作り始めた。
その時、私の手のひらがじんわり熱くなった。
水晶球の光が、一瞬強く脈打つ。
まるで「違う」と言うように。
セルギウス司祭長が息を整え、深く頭を下げた。
「……失礼しました。必要なのは事実ですが、同意なく扱うつもりはありません。あなたが望むなら、力の扱い方を教えるだけです」
「望むなら……」
「はい。望まなければ、ただの客人として守ります」
私は言葉を失った。
そんな選択肢、祖国では一度も与えられなかった。
ヴィクトールが私の横に立ち、低い声で言う。
「君がどうしたいかだけ考えればいい。僕が他の全部を押し返す」
「押し返すって……」
「政治も、圧力も、期待も。君が潰れそうなもの全部」
私は息を吐いた。
涙が出そうだった。悔しさじゃなく、安堵で。
「……力があるなら、私は、怖いです」
「当然だ」
「でも……何もしないまま、また誰かに決められるのは、もっと怖い」
口にした瞬間、自分の声が少しだけ強くなっていることに気づいた。
私は王女だった。決められる側ではなく、本来は決める側。
その当たり前を、取り戻したい。
「教えてください。私の力のこと」
セルギウス司祭長が穏やかに頷く。
「承りました。まずは浄化の基礎から。――ただし、急がせません」
「……ありがとうございます」
訓練は、その日の午後から軽く始まった。
小さな枯れた花に手をかざし、祈りの言葉を口にする。最初は何も起きない。
けれど、胸の奥を静かに整えるように息をし、恐怖を少しだけ手放した瞬間――。
花弁が、ふわりと開いた。
萎れていたはずの色が戻り、香りが蘇る。室内に春の匂いが広がった。
「……」
自分の指先を見つめる。信じられない。けれど、確かに私がやった。
司祭たちが歓声を上げそうになり、慌てて口を押さえる。
ヴィクトールは、ただ静かに見ていた。勝ち誇るのではなく、安心した顔で。
「ほらね」
「……本当に、あるんだ」
「君は、ずっと持っていた。たぶん、君の国が“気づかせないように”していただけだ」
その言葉に、胸の奥が冷える。
封印。抑圧。利用。
祖国の記憶が、嫌な角度で繋がっていく。
その夜。
城の客間で一人になった私は、窓辺に立ち、遠い海の向こうを見た。
私は捨てられたのではない。
――奪われかけたのだ。
そして、ここでは私は“必要とされる”だけじゃない。
少なくとも、“辱められない”と約束された。
扉がノックされる。
「エルセ。起きてる?」
ヴィクトールの声。やっぱり近い。
「起きてます」
「入っていい?」
「……壁を壊さないなら」
「壊さない」
扉が開き、彼は手に小さな箱を持っていた。
中には、青い石のペンダント。淡く光を宿している。
「守りの護符だ。君の力が暴れそうになったら、これが落ち着かせる」
「……優しいんですね」
「君が困るのが嫌なだけだ」
彼は言い切って、少しだけ視線を逸らした。
照れているのかもしれない、と気づいてしまって、私は困った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。……明日も、少しずつでいい。君のペースで」
その言葉が、今日一番嬉しかった。
窓の外では、隣国の城が穏やかに灯っている。
ここで私は、力を知り、自分を取り戻し始める。
一方その頃――祖国では。
私が抜けた“何か”が、静かに、確実に崩れ始めている。




