第3話 豪華客船での逃避行
船が港を離れたのは、夜が一番深い時間だった。
黒い帆は月明かりを吸い込み、船体は波を切って静かに進む。甲板の上には兵が等間隔に立ち、灯りは必要最小限。豪華客船の体裁を取りながら、その実、完全に軍の管轄下――そんな空気が漂っていた。
私は案内された客室の前で足を止めた。
扉は分厚い木製で、金属の縁取り。取っ手にすら紋章が刻まれている。
「……ここが、私の部屋ですか」
「そう。僕の隣だ」
さらっと言う。私は取っ手に手をかけたまま固まった。
「隣?」
「君が呼べば、すぐ行ける位置がいい」
「それ、護衛の発想ですよね」
「護衛でもあり、婚約者でもある」
私は扉を開けた。言い返すより、中に逃げたかった。
室内は想像以上に広かった。柔らかな絨毯、天蓋付きのベッド、ソファ、書き物机。窓は大きく、暗い海面がきらきらと揺れている。
端に置かれた銀のトレイには温かいスープとパン、果物まで並んでいた。
「……用意が良すぎませんか」
「君は何も食べていない」
言われて気づく。学院では、断罪の前に口にしたのは一口の水だけだった。
「食べなさい。命令じゃない。お願いだ」
「……殿下がお願いするの、珍しいですね」
「君には、お願いが似合う気がした」
また調子が狂う言い方をする。
私はスープに口をつけた。温かさが喉を通るだけで、張りつめていたものが少しほどける。
ヴィクトールは扉の内側に立ったまま、こちらを見ていた。入ってはこない。けれど去りもしない。
「……あの、殿下」
「ヴィクトール」
「……ヴィクトール。いつまでそこに?」
「君が落ち着くまで」
言葉は優しいのに、態度は相変わらず“逃がさない”側だ。
私はスープを置き、意を決して向き直った。
「話を、整理させてください。私は突然、罪人にされました。そこへ殿下が壁を壊して現れて、運命の人だと言って、連れ出しました」
「うん」
「その“運命の人”の根拠が、殿下に見える“魂の輝き”で……」
「そう」
「それって、具体的に何なんですか。私は、そんなもの……」
言いかけて止まった。
昔から、私の周りには妙なことが起きる。病が流行れば早く収まる。干ばつの年も、私が祈ると雨が降る、と言われた。
でもそれは、偶然か、誰かの美化だと思っていた。
ヴィクトールは首を傾げた。
「君は自覚がないんだね」
「ありません」
「なら、説明しよう。君が怯えるのは嫌だ」
そう言って、彼はようやく室内へ一歩入った。扉を閉めず、距離を詰めすぎず、けれど確実に“話を逃がさない”位置に立つ。
「僕の国では、昔から“魂視”という能力が王家に稀に出る。人の魂の色、強さ、歪み……そういうものが見える」
「殿下の能力なんですね」
「そう。便利だけど、残酷だ」
彼は窓の外、海を見た。
「欲望を隠しても、魂は隠せない。忠誠を装っても、魂は濁る。……だから、僕はずっと人を信じにくかった」
「……」
「でも君の魂は、澄んでいた。あの広間でも、裏切りの渦の中でも。恐怖で震えているのに、濁らない」
私の胸の奥が、ちくりと痛んだ。
澄んでいる。そんな風に言われたことはない。むしろ私は、王女として“足りない”と言われてきた。
「澄んでいるのに、強い。燃えるような強さじゃない。……水が岩を削るような強さだ」
「それ、褒めてます?」
「最高に褒めてる」
即答。
私は困って、視線を逸らした。
「でも、それが“運命の人”につながる理由は」
「僕が探していたから」
「探していた?」
「うん。僕の国は強い。軍も、資源も、技術もある。だけど一つだけ、いつも不安定なものがある」
「何ですか」
「“守り”だ」
ヴィクトールは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「国の根にある守り。土地の浄化。結界の維持。そういうものは、力任せにはできない。僕の国にも聖職者はいるけど、決定的に足りない」
「……それで、私が必要?」
「必要だ。けれど、それだけなら“連れてくる”で済む。僕は“迎えに来た”」
迎えに来た。
その言い方が、胸の奥で小さく波を立てる。
私は言い訳みたいに口を開いた。
「……もし私が、殿下が思っているような力を持っていなかったら?」
「持っている」
「まだ確認してないですよね」
「確認なら、もうした」
ヴィクトールは一歩近づき、私の前に手のひらを差し出した。
「手を」
「……何をするんですか」
「怖いことはしない。君に見せる」
私は迷った。
でも、ここまで来て、ずっと疑ってばかりでは前に進めない。
そっと手を重ねると、彼の手のひらは想像より温かかった。
次の瞬間、指先が微かに痺れた。
光が、私の手首から立ち上るように見えた――淡い、透明に近い白。海月のように揺れ、室内の空気を静かに変えていく。
「……え」
「これが、君の輝き」
ヴィクトールの声は低く、珍しく息を飲む気配が混ざっていた。
「君が緊張すると、光が揺れる。君が安心すると、澄む。……今、少し澄んだ」
「私が、何かしてるわけじゃ」
「してる。君は生きてるだけでしてる。……だから君は、奪われるべきじゃない」
光は数秒で消えた。
残ったのは、手のひらの温度と、私の心臓の音だけ。
私は息を吸って、吐いた。
信じがたい。けれど、見えてしまった。言い訳の余地がない。
「……私、本当に、そういう……」
「そういう存在だ」
ヴィクトールは、私の手を離さなかった。
その視線が熱すぎて、私は慌てて別の問題に逃げた。
「……でも、だからって“婚約者”は飛躍しすぎです」
「飛躍してない。僕は真剣だ」
「真剣すぎて怖いんです!」
「君が怖いなら、少しずつにする」
少しずつ。
それでも、根本的に前提が強引だ。
「じゃあ、まずは……えっと……」
私は言葉を探した。「距離を取ってください」と言えば、その場で甲板ごと距離を詰めてきそうだ。
考えた末、現実的なお願いを選ぶ。
「斧を人の前で振り回さないでください」
「わかった」
「すぐ?」
「君のお願いだから」
あっさり。
私は拍子抜けした。暴君のようでいて、私の言葉だけは妙に聞く。
「……あと、首をお土産に、みたいなことも」
「言わない」
「本当に?」
「君が嫌がる顔をしたから」
そう言って、ヴィクトールは少しだけ笑った。
さっきまでの戦神の笑みではなく、妙に人間らしい、照れたような笑み。
その瞬間、私の胸の氷が、また少しだけ溶けた。
コンコン、と扉が軽く叩かれる。
外から低い声。
「殿下。報告です」
「入れ」
扉の隙間から、黒甲冑の騎士が顔を出した。彼は私を見て、すぐ視線を伏せる。礼儀だけは完璧だ。
「追手は港で足止め。王国軍は混乱し、王都への戻りを優先しています。……学院の大広間の損壊が甚大で、貴族の負傷者も多数。王子殿下は責任追及を受けている模様」
「当然だ」
ヴィクトールは短く言った。
騎士は続ける。
「王宮から使者が出る気配があります。『罪人の王女を返せ』の名目で」
「返さない」
「はい」
騎士は一礼し、扉を閉めた。
私は胸の奥がざわついた。
使者。つまり、また“断罪”の続きをされるのかもしれない。
「……来ますよね」
「来る」
「私のせいで」
「君のせいじゃない。来るなら、来させる」
来させる。
それは挑発にも聞こえた。けれど、同時に宣言でもあった。守る、と。
私は窓の外を見た。
海は暗く、波が白く砕けている。
祖国はもう見えない。
「……私、どうしたらいいんでしょう」
声が震えた。情けない。王女なのに。
ヴィクトールは間髪入れずに答えた。
「食べて、寝て、生きて。君が生きているだけで、価値がある。僕はそれを証明する」
「……証明」
「君が“必要とされる”場所を、君に見せる」
私は外套の端を握りしめた。
怖い。怖いけれど――さっき見た淡い光が、まだ手のひらの奥に残っている気がする。
「……じゃあ、まずは」
「うん」
「本当に、扉の外に戻ってください。落ち着けません」
「わかった」
ヴィクトールは素直に一歩引き、扉の外に出た。
そして、当然のように扉のすぐ外で止まる気配がした。
「……そこにいるんですよね」
「いる」
「……ため息」
「君が眠るまで」
私は笑ってしまいそうになって、困ってしまった。
こんな状況で笑うなんておかしいのに、彼のまっすぐさが、私の心を変な方向へ動かしていく。
ベッドに腰掛け、窓の外の海を見ながら、私は小さく呟いた。
「逃避行、って言うには……騒がしすぎますね」
扉の外から、低い声が返ってきた。
「騒がしい方がいい。君がひとりで泣かない」
その言葉だけが、夜の海よりも深く胸に沈んだ。
そして遠い祖国では、私の不在に気づかぬまま、何か大切な歯車がゆっくり外れ始めている――そんな予感が、波の音に混じって聞こえた。




