第2話 運命の人は、今そこに
魔導車の扉が閉まった瞬間、外の騒乱が嘘みたいに遠のいた。
窓は分厚い水晶で、外の景色が滲む。床には複雑な魔法陣が浮かび、足元から微かな振動が伝わってくる――走り出したのだ。
豪奢な内装に似つかわしくないのは、向かいの席にどっかり座る黒甲冑の男の存在感だった。
ヴィクトール・フォン・バルドール殿下。
壁を壊して入ってきて、私の人生を丸ごと持ち去った張本人。
「……あの、殿下」
「ヴィクトールでいい。君が呼ぶなら、敬称もいらない」
さらっと恐ろしい提案をする。私は深呼吸して、まず現実の確認を試みた。
「今、私たち……王立学院から出たんですよね」
「出た。君を汚れた空気から隔離した」
「隔離……。私は、罪人として追放される予定で……」
「追放? 君が追放されるなら、僕が“迎え入れる”。それで終わりだ」
終わりにしていい規模じゃない。国同士の話だ。
「殿下、国際問題になります」
「ならないようにすればいい」
「どうやって?」
「力で」
即答。迷いゼロ。
この人は会話の“角度”が全部、戦場だ。
私は頭を抱えたくなった。けれど、抱える余裕すらない。魔導車は滑るように加速し、窓の外で城下の灯りが流れていく。
その時、背後の空気が少し揺れた。
――追ってきている。
気配だけでわかるほど、護衛の動きが鋭くなった。御者席から短い指示が飛ぶ。
「後方、王国軍の騎馬隊。距離三百」
「放っておけ。近づいたら止める」
止める、の意味が不穏すぎる。
「……止めるって、どうやって」
「壁を壊した要領で」
「やめてください!」
私の叫びに、ヴィクトールは目を細めた。まるで、面白いものを見つけた子どもみたいな顔。
「君はやっぱり優しい」
「優しい以前に、これ以上壊されたら困るんです!」
「君が困るなら壊さない。君以外が困る分には、少し考える」
少しだけ考える、が免罪符みたいに言われた。
魔導車が急に曲がる。身体が揺れたが、座席が魔力で支えるのか、不思議と転びそうにならない。外では遠くの馬の嘶きと怒号が混ざり、夜気が震えていた。
私は窓に手をついた。あの国の城壁、学院の尖塔、王都の灯り――全部が遠ざかっていく。
追放されるはずだった。
辱めを受けて、何も持たずに、ひとりで放り出されるはずだった。
それが今は、武装した隣国の王太子の魔導車の中。人生の振れ幅が大きすぎて、感情が置いていかれる。
「エルセ」
名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
ヴィクトールは鎧の手袋を外していた。指は意外に長く、傷のない、武人にしては綺麗な手だった。
「君は、僕が怖い?」
「……正直に言うと、はい」
「正直でいい。僕は君の正直が好きだ」
好き、が軽い。いや、重い。どっちだ。
彼は何かを思い出したように、膝の上に広げていた外套を持ち上げた。
「寒いだろう。埃も吸った」
「大丈夫です、私は――」
「大丈夫じゃない。君は今、心も体も無理をしている」
言い切られて、反論が止まる。
外套がふわりと肩にかけられた。重みと、どこか木と鉄の匂いがした。戦場の匂い、なのに不思議と落ち着く匂い。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。僕のだ」
その言い方が、また危ない。
「殿下。ひとつ、聞いていいですか」
「なんでも」
「どうして私が“運命の人”なんですか。初対面ですよね」
言った瞬間、彼の瞳が静かに燃えた。さっきまでの冗談みたいな熱ではなく、もっと深く、真剣な熱だ。
「初対面じゃない」
「またそれですか」
「君は気づいていないだけだ。……君の魂は、光っている」
嫌な予感がした。私はゆっくり言い直す。
「魂が?」
「僕には見える。人の魂の輝きが。王族にも、騎士にも、商人にも、輝きはある。でも――」
彼は私の胸元、外套の上に指先をかざした。触れてはいないのに、そこだけ温度が上がった気がした。
「君の輝きは、違う。澄んでいて、強い。傷つけられても折れない光だ。ずっと探していた。僕の国に必要な“守り”の光」
「……守り?」
「君がいるだけで、土地が呼吸し、空が落ち着く。君がいるべき場所は、君を冷笑する連中のそばじゃない」
言葉の一つひとつが、信じがたいほど大きい。
私は笑っていいのか、震えるべきなのか、わからなかった。
「それって、政治的な……」
「政治もある」
「ありますよね!」
「でも、僕が君を欲しい理由は、それだけじゃない」
ヴィクトールは少しだけ眉を下げた。怖いはずの顔が、途端に不器用に見える。
「君が泣きそうだった。あの広間で。僕はそれが許せなかった」
「……」
「だから壁を壊した。正しい手順で入ったら、君は連れていかれてしまうと思った」
正しい手順が遅いから壁を壊す。
理屈としては最悪なのに、私の胸の氷は、また少しだけ溶けた。
その時、前方から乾いた音がした。
外で何かが炸裂したような、魔法の衝撃波。魔導車は揺れず、ただ少し速度を落とした。
「何が……」
「追手の先頭が、道を塞ぐように結界を張ったらしい。僕の部下が割った」
割った、で済ませていいのか。
窓の外を見た瞬間、私は息を呑んだ。
月明かりの道に、淡く光る膜が砕け散り、騎馬隊が混乱して止まっている。誰も死んではいない――たぶん。けれど、彼らは完全に足を奪われていた。
「……殺してない?」
「君が望まないから、殺さない」
「望みません!」
「わかっている」
わかっていて物騒な選択肢を常に提示するのは、やめてほしい。
魔導車は再び速度を上げ、王都の外へ向かった。
森の匂いが濃くなり、夜の冷気が窓越しに伝わる。
私はふと、喉の奥に引っかかっていた疑問を思い出した。
「……殿下は、どうしてそこまで私を――」
「孤独だったから」
返答が、予想外に静かだった。
ヴィクトールは窓の外ではなく、私を見ていない場所を見ていた。
「強いことは、守ることと引き換えに、距離を生む。僕の周りにはいつも“期待”がある。恐れも、媚も、計算も。……君の目には、それがない」
「私の目に、ない?」
「ない。君は、僕を“怖い”と言った。あれは嬉しかった」
怖いと言って喜ばれるのは初めてだ。
魔導車が速度を落とす。遠くに海の気配がした。塩の匂いが混ざり、波の音が微かに聞こえる。
港だ。そこには、黒い帆を掲げた豪華な大型船――いや、船というより、戦艦に近い威圧感のある客船が待機していた。
「船……?」
「海路の方が確実だ。国境の検問は面倒だからね」
面倒だから海へ。発想が豪快すぎる。
甲板へ続くタラップの前で、ヴィクトールは魔導車を降りると、当然のように私の手を取った。外套の裾が風に煽られ、私は一瞬よろける。
「歩けます。今度こそ」
「よし。……でも転びそうになったら抱く」
「宣言しないでください!」
兵士たちが周囲を固め、港の人々が一斉に頭を下げる。誰も彼に逆らう気配がない。
彼はそれが当たり前のように私を導き、甲板へ上がった。
背後で、遠く王都の方角が淡く光って見える。
あそこにいる人たちは、今何をしているだろう。エドワード殿下は、マリアは。私の家族は――。
胸が締め付けられ、息が浅くなる。
その時、ヴィクトールが私の前に立ち、風よけになるように肩を寄せた。
「振り返りたくなった?」
「……少し」
「振り返ってもいい。でも、戻らなくていい」
言葉の強さに、私の足元が少しだけ現実に戻る。
「エルセ」
「はい」
「今から君は、僕の国の“客人”だ。いや、もっと正確に言えば――」
彼は私の手を取り、指先に軽く口づけた。あの広間よりずっと静かな、夜の港で。
「僕がようやく見つけた、僕の運命の人だ」
またそれだ。
でも、さっきよりは、少しだけ笑えそうだった。
「……その言い方、誤解を呼びます」
「誤解じゃない」
「最悪です」
「最上だ」
船の汽笛が低く鳴り、帆が風を孕む。
私の人生は、追放の夜から、隣国行きの航路へ――否応なく舵を切った。
そして、まだ誰も気づいていない。
私がいなくなった祖国が、これから何を失い始めるのかを。




