第1話 華やかな夜会は、断罪の場へ
王立学院の大広間は、卒業記念パーティーらしく眩いほど華やいでいた。天井いっぱいのシャンデリアは星屑を散らしたように煌めき、弦楽器の旋律に合わせてドレスの裾が波のように揺れる。
その中心に立つはずだった私は――今、壇上で晒しものになっている。
「エルセ・フォン・ラングレイ! 貴様の薄汚い悪行も、ここまでだ!」
婚約者である第一王子エドワード殿下の声が、音楽を乱暴に切り裂いた。ざわめきが一斉にこちらへ向く。空気が冷えるのが、肌でわかった。
殿下の腕に縋りついているのは、白いドレスの少女――マリア。涙を溜めた瞳で震え、まるで今にも倒れそうに見える。学院で突然「聖女」を名乗り始め、いつの間にか殿下の“庇護”を得た存在。
「聖女マリアを階段から突き落とし、教科書を切り裂き、果ては毒を盛ろうとした……! この稀代の悪女め!」
言葉が耳を素通りする。理解するのが怖くて、脳が拒む。
けれど現実は容赦がない。私の背後で、かつて私を「姫」と呼んで笑っていた友人たちが、揃って俯き、あるいは嫌悪の目を向けていた。
「……心当たりがございません。殿下、それは誤解です」
「黙れ! 証拠ならここにある。学友たちの証言、マリアの傷、そして――」
殿下が掲げたのは、見覚えのある手帳だった。私の部屋から消えた日誌。ページは勝手に書き換えられ、私がマリアを呪うような文が踊っている。
胸の奥が、冷たい針で刺される。あぁ、そうか。最初から筋書きは出来上がっていたのだ。
「婚約を破棄する。そして――国外追放だ。王家の名を汚した罪は重い。二度とこの国の土を踏むな」
その宣告に、広間の端から歓声と安堵の溜息が混ざった。誰かが「当然よ」と小声で言う。誰かが「聖女様を守れ」と叫ぶ。
私は息を吸ったつもりなのに、肺が空っぽのままのようだった。
「……おい、衛兵! この女を捕らえよ!」
銀の鎧が四方から迫る。手首に冷たい鉄が触れた瞬間、世界が遠のいた。
無実の罪。家族の沈黙。友人の裏切り。――祖国を追われる。
ここで終わるのだ、と諦めかけた、その時。
――ズドドドドォォォォン!!
北側の壁が、雷が落ちたかのような轟音とともに爆ぜた。
床が跳ね、シャンデリアが揺れ、ガラス片が雨のように降る。悲鳴が幾重にも重なって、音楽は完全に消えた。
「なっ、何事だ!?」
「敵襲か!? 壁が……壁が崩れたぞ!」
真っ白な砂煙が広間を呑み込み、香水と花の匂いが一瞬で石と土埃に塗りつぶされる。咳き込みながら目を凝らすと、崩落した壁の向こうに、闇の裂け目のような外の夜が見えた。
そして――そこから現れた。
重厚な漆黒の甲冑を纏った一団。軍靴の規則正しい音。肩章に刻まれた隣国バルドールの紋章。誰もが息を呑む。
先頭に立つ男は、燃えるような金の髪と、氷より鋭い青い瞳をしていた。肩に担いだ巨大な戦斧は、冗談のように大きい。……つまり、これで壁を壊したのだろう。
「……ヴィ、ヴィクトール・フォン・バルドール……」
誰かが掠れた声で名を漏らす。隣国の王太子。戦場で“戦神”と恐れられる、超武闘派の英雄。
英雄という言葉は、本来もう少し礼儀を知っているものだと思っていた。
彼は広間の混乱をまるで見ていないかのように、一直線に私へ向かって歩いてくる。兵士たちが腰を抜かし、貴族たちが道を割る。私を拘束していた衛兵の手まで震え、鎧がカタカタ鳴った。
私の前で、彼は止まった。
そして無造作に戦斧を床へ突き立てる。石が割れ、斧が刺さった場所から細かな亀裂が走った。
「……いた」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥の何かが跳ねる。私の知らない、熱い音。
彼は突然、片膝をついた。埃に汚れた私の右手を取り、まるで宝物を扱うように慎重に指先を撫でる。そして――熱い吐息がかかるほど近くで、深く口づけを落とした。
「ようやく見つけた。僕の魂が求めていた、運命の人だ」
「……はぇ?」
変な声が出た。自分でも驚くほど間抜けな音だった。だって、今、私は断罪の真っ最中で、拘束されていて、壁は崩れていて――運命って、今言うことですか?
背後で砂煙が薄れ、ようやく現実が戻ってくる。エドワード殿下がマリアを抱きかかえ、顔を真っ赤にして叫んだ。
「な、何者だ貴様! ここは我が王国の――断罪の儀の最中だぞ! 不法侵入、国家物損、いや戦争行為に――!」
「断罪?」
ヴィクトール殿下はようやく首だけを動かし、殿下を一瞥した。その視線は、虫を見つけた時のように淡い。
「なら、手続きは簡単だな。君たちが彼女を罪人と呼ぶなら、僕は彼女を国賓として迎える。対立するなら――」
彼が指を軽く鳴らす。合図だった。
黒甲冑の兵士が一斉に前へ出た。槍の穂先が揃うだけで、広間の空気が凍りつく。さっきまで私を囲んでいた衛兵たちは、まるで玩具の兵隊みたいに小さく見えた。
「壁の修繕費に加えて、僕の婚約者を侮辱した慰謝料として……この国を更地にするくらいは、交渉の余地があるだろう?」
「こ、婚約者……!?」
殿下の叫びが虚しく響く。マリアが顔を上げ、涙の奥に一瞬だけ、歪んだ光が宿ったのを私は見逃さなかった。
ヴィクトール殿下は私の手を離さないまま、甘く囁く。
「エルセ。こんな湿っぽい廃墟は捨てて、僕の国へ行こう。君が望むなら、今すぐあそこの金髪の男の首を跳ねて、お土産にしてもいい」
「望みません! あと、その表現は物騒です!」
思わず即答した自分に、また驚く。今の私に、反論する余裕なんてあるはずがないのに。けれど彼の真っ直ぐすぎる熱量が、恐怖より先にこちらの調子を狂わせる。
「なるほど。君は優しい。……ますます好きだ」
「好きって、初対面ですよね!?」
「魂は初対面じゃない」
意味がわからない。けれど、彼の瞳だけは嘘をついていなかった。冗談みたいに強くて、冗談みたいに真剣だ。
ヴィクトール殿下は立ち上がり、私の手首に嵌められた拘束具へ視線を落とす。
次の瞬間、彼が指先で鎖を摘まんだ。軽く捻るだけ。――ガキン、と嫌な音がして、鎖が紙のように千切れた。
「……っ」
「痛かったね。もう大丈夫だ」
言葉が柔らかい。なのに、行動は全部壁を壊す勢いだ。
「待て! その女は我が国の罪人だ! 連れ去るなど――」
「罪人?」
ヴィクトール殿下が、今度は笑った。冷たいのではなく、明るい。誰かが正気を失いかける類の笑み。
「なら、その“罪”とやらの証拠を僕にも見せてくれ。……いや、見せなくていい。君の国の空気は腐っている。腐臭がする。彼女だけが、澄んでいる」
そう言って、彼は私の腰に腕を回した。
いわゆる姫抱きというやつだ。私は思考が追いつかず、反射で彼の胸当てに手をつく。硬い、冷たい――はずなのに、その奥に生きた熱がある。
「ちょ、ちょっと……! 歩けます!」
「歩かせる理由がない。君の足は、ここに触れさせたくない」
「潔癖すぎませんか!?」
怒鳴り声、泣き声、命乞い。背後で広間が崩れていく音がする。誰かが「聖女様!」と叫び、誰かが「王太子殿下を止めろ!」と喚く。
だけどヴィクトール殿下は振り返らない。彼の兵も、私たちの通り道を淡々と切り開く。
瓦礫の穴を越える瞬間、私はちらりと祖国の王子を見た。
エドワード殿下は青ざめ、マリアは唇を噛んでいる。その足元で、床に突き立ったままの戦斧が、まるで墓標のように黒々と立っていた。
そして、奇妙なことに。
崩れた壁の向こうから吹き込む夜風に混じって、遠く遠く、地鳴りのような不穏が聞こえた気がした。
――まるで、この国の“何か”が、私の不在を予感して軋む音。
「……エルセ、怖い?」
「……怖いです。色々と」
「大丈夫。僕が全部壊して、全部守る」
守るために壊す、という発想が既に危険だと思う。けれど、その危険が今の私には救いの形をしていた。
外へ出ると、崩れた壁の前には黒い軍勢が整列していた。夜空の下、たいまつの火が揺れ、馬の鼻息が白く立つ。まるで最初から、この瞬間のために用意された舞台みたいだ。
「連れて帰るぞ」
ヴィクトール殿下が短く命じる。兵が一斉に動き出し、私を乗せるための豪奢な馬車――いや、見たことのない紋様が走る魔導車が前へ滑り込んだ。
「……本当に、行くんですか。私、追放される身で……」
「追放される? 違う。迎えに来たんだ」
「……迎えに」
「そう。君はもう、捨てられる側じゃない。選ぶ側だ」
その言葉が、胸の氷を少しだけ溶かした。
私は振り返らなかった。振り返れば、またあの冷たい視線に飲まれてしまう。今はただ、壁と一緒に壊れたはずの“常識”の先へ、足を――いや、抱えられたまま進むしかない。
魔導車の扉が開く。ヴィクトール殿下が私をそっと座席に下ろし、手の甲にもう一度、丁寧に口づけた。
「これからは、君が泣く理由を全部、僕が消す」
「……それ、消し方が物理じゃないことを祈ります」
私の呟きに、彼は心底嬉しそうに笑った。
こうして私の人生のどん底は、王立学院の北壁と一緒に粉々に砕け散った。
そして――その瓦礫の向こうで、祖国はまだ気づいていない。
自分たちが追い出したのが、何だったのかを。




