39話「終焉」
ティアは刹那の判断で標的を枝豆コーヒーへと切り替えた。
その掌に高密度の魔力を凝縮し、無慈悲な一撃を意識のない彼女へ向けて撃ち放つ。
「まー君、これならどうかな?」
不気味な笑い共に直後、ティア自身も落雷のごとき速度で魔王へと肉薄した。
飛来する魔弾を撃ち落とそうとした魔王だったが、眼前に迫ったティアの凄まじいプレッシャーに、わずか一瞬、狙いの軌道を狂わされる。
怪物は、その微かな動揺を見逃さなかった。
「あはっ、捕まえた!」
ティアの魔力を帯びた右拳が、魔王の胸元へと直撃する。
凄まじい衝撃波が走り、魔王の身体が後方へと吹き飛ばされた。しかし、その刹那――。
衝撃に耐えながら、魔王は「マーク13」の銃口をあえて天へと向け、引き金を引き抜いた。
「……貴様ならそうくるよな?」
放たれた魔弾は空中で静止し空間が歪み、幾何学的な紋様を描く巨大な魔法陣を展開する。
次の瞬間、枝豆コーヒーを焼き尽くすはずだったティアの魔力塊が、転送門を通り抜けるように魔法陣から逆流して出現。
「えっ……!?」
不意を突かれたティアの背後から、自らが放ったはずの絶大な破壊が、彼女自身を真っ向から飲み込んだ。
轟音と共に爆炎が荒れ狂い、ティアの小さな体がその光の中に消える。
だが、もうもうと立ち込める爆煙を切り裂いて響いたのは、苦悶の叫びではなく、魂を震わせるような狂った笑い声だった。
「最高……最高だよ、まー君! 昔より、ずっとずっと強くなってるねぇ!」
爆風の中から姿を現したティアの顔は、歓喜と狂気に激しく歪んでいた。
その全身から溢れ出す魔力は、もはや光の形すら失い、ドロリとした漆黒となって周囲を侵食していく。
彼女が纏うそのオーラは、触れるものすべてを腐食させるかのように、戦場をどす黒い絶望の色へと塗り替えていった。
ティアの狂気に歪んだ視線が、一瞬だけ枝豆コーヒーを射抜く。
魔王は即座にその意図を察知したが、わずかにティアの殺意が上回った。侵食するどす黒い腐食の魔力が、無防備な枝豆コーヒーを飲み込まんと牙を剥く。
その瞬間――。
世界から音が消え、時間が停止したかのような錯覚がすべてを包み込んだ。
静寂の直後に押し寄せたのは、天から降り注ぐ目も眩むような「黄金の雨」。
それは禍々しい漆黒の魔力を瞬時に浄化し、荒れ果てた戦場を聖なる光で満たしていく。
光の中心には、彼がいた。
倒れゆく枝豆コーヒーをその腕で静かに抱き留め、先ほどまでの不遜な笑みを消し、見たこともないほど清廉で、厳かな表情を纏った魔王の姿が。
「魔力反転術式……『絶』。出来れば、これだけは使いたくなかったんだがな」
魔王の体内で、魔力の極性が完全に書き換えられていた。
溢れ出すのは、魔王という存在とは正反対の、圧倒的かつ絶対的な「聖属性」の奔流。それは闇を許さぬ神々しいまでの輝きを放ち、戦場を白銀の世界へと変えていた。
「……ふふ。まー君、すごく綺麗な魔力⋯⋯壊したくなるね」
ティアは毒気を抜かれたように呟く。その赤い瞳には、浄化の光に焼かれる恐怖よりも、純粋な感嘆が浮かんでいた。
「……どの口が言う」
魔王が冷たく突き放すと同時に、ティアの纏う空気が一変した。彼女は右手を天へと突き出し、この世のものとは思えぬ不気味な旋律で詠唱を紡ぎ始める。
「……集え、集え夜よ。私はすべてを包む者。汝は我が名を経て顕現する理と化す……」
その掌に凝縮されたのは、拳ほどの大きさをした 「黒」の球体。
それはただの闇ではない。周囲のあらゆる光を貪り喰らい、視界を絶望で塗り潰す、永遠に明けることのない「夜」そのものであった。
「『終焉の闇』。……唯一、私が名前をつけた私の本気。これで相手をしてあげるね」
ティアの顔から、あの無邪気な笑みが完全に消失する。
「……その程度で、足りると思っているのか?」
魔王は不遜に言い放つが、その言葉とは裏腹に、こめかみを伝う冷や汗は止まらなかった。彼は腕の中の枝豆コーヒーを静かに地面へ下ろすと、眼前の脅威に対し、かつてないほど鋭い殺気を放って身構えた。
ティアがその球体を右手で無造作に握り潰した直後、戦場の温度は物理法則を無視して氷点下へと急降下する。
大気が凍りつき、音さえも死絶した極寒の静寂の中、ティアは落雷のごとき速度で魔王へと肉薄した。
放たれたティアの拳を、魔王は片手で受け止める。
接触した瞬間は、不気味なほどの静寂。しかし数秒の「溜め」の後、圧縮されたエネルギーが爆発的に解放され、周囲の瓦礫や大気が凄まじい衝撃波となって吹き飛んでいった。
「エリスっ……!」
爆風に煽られ、紙屑のように宙へ舞い上がる枝豆コーヒー。魔王の意識がわずかに彼女へと逸れた、その一瞬。ティアは勝ち誇ったように目を細め、掌から至近距離で「終焉の闇」を解き放った。
魔王は咄嗟に身を翻し、空中の枝豆コーヒーをその胸に抱き寄せる。
直後、逃げ場のない闇の濁流が、彼女を庇う魔王の背中に真っ向から直撃した。
凄まじい衝撃波が走り、周囲の空間がひび割れるような異音が響く。
魔王はその一撃を背中で受け止め、枝豆コーヒーを抱きしめた。
黄金の魔力で抗うが、「終焉の闇」はそれすら飲み込んでいく。
漆黒の奔流に焼かれ、魔王の背後から絶望を告げるような黒い煙が立ち昇った。
それを見つめるティアは、意外なものを見たと言わんばかりに小首をかしげる。
「……へぇ。今のをまともに受けて、まだ耐えちゃうんだね」
ティアの冷酷な賞賛が響いたその時、魔王の口元が微かに、不敵に歪んだ。
「……闇は光を、光は闇を呑み込む。それ即ち、混沌の調べ――」
直後、ティアの足元に幾何学的な紋様を刻んだ巨大な魔法陣が展開し、彼女の動きを完全に封じ込めた。
「なっ……!?」
驚愕に目を見開くティアの頭上で、左右から放たれた「光」と「闇」の双対をなす魔弾が激突する。相反する極大のエネルギーが一点で交わり、理を無視して空間を捻じ曲げ、すべてを無に帰すほどの絶大な爆発を引き起こした。
爆風が収まり、もうもうと立ち込める煙の向こうから、ティアの姿が露わになる。
かつての豪華なドレスは無残に引き裂かれ、剥き出しになった白皙の肌には痛々しく血が伝っていた。彼女は口元を流れる血を細い腕で無造作に拭うと、興奮を隠しきれない様子で声を漏らす。
「……すごいね。まー君。もう……ムリかな」
魔王を包んでいた黄金の輝きは、もはや影も形もない。反転魔術式は既に限界を迎えて解け、露わになった彼の背中には、どす黒く焦げ付いた凄惨な傷跡が刻まれていた。
「……ティアよ……。俺様の魔力はもう無い……。俺様を仕留めるなら、今かもな……」
魔王の呼吸は激しく乱れ、立っているのが不思議なほどに消耗しきっていた。
「……それは残念、だね。でも、もう疲れちゃったから帰ることにするよ」
彼女自身も相当な魔力を費やしたのだろう。今の彼女から、先ほどまでの刺すような殺意は消え失せていた。
(無事でよかった……本当に……)
腕の中の温もりを感じ、魔王は心の底から安堵していた。その正体を、そして自分の本心を隠し通せたことへの安らぎが、激痛を上回る。
「……ふん。まあ、貴様は昔からそういう自分勝手な奴だったな」
魔王が皮肉を投げかけると、ティアは楽しげに目を細めた。
「じゃあね! 次は、まー君が借り物の魔力なんかじゃなくて、本当の全力を取り戻した時にまた遊ぼうね」
彼女は最後に、いつもの無邪気で残酷な笑顔を残した。ティアの姿は、陽炎のように揺らめく空間の裂け目へと吸い込まれ、夜の静寂の中に消えていった。




