34話「災厄」
「お姉さん、遊ぼうよ」
ティアの唇から漏れたのは、無邪気な誘い。しかし、その幼い一言に呼応するように、周囲の魔力は目に見えるほど濃密に具現化し始めた。大気が重く澱み、空間そのものが彼女の機嫌一つで軋みを上げている。
枝豆コーヒーは、その光景に戦慄を禁じ得なかった。立ち込める魔力の奔流に当てられ、膝の震えが止まらない。本能が、生存の限界をとうに超えていると叫んでいた。
「ていっ」
ティアが、まるでおもちゃを払いのけるかのように軽く、小さく手を振った。
直後、音も、衝撃すらも置き去りにして「それ」は起きた。
枝豆コーヒーの視界、その左半分を占めていた巨大な城壁が――消えた。
崩落ではない。粉砕ですらない。
轟音ひとつ立てず、まるで最初からそこには何も存在していなかったかのように、城の半分が、虚空へと削り取られていた。
(……ティア。吸血鬼の真祖。……冗談でしょ、これ。規格外にもほどがあるじゃない)
枝豆コーヒーは、喉まで出かかった悲鳴を必死に飲み込んだ。目の前で起きた事象があまりに現実離れしすぎていて、脳の処理が追いつかない。
そんな絶望的な沈黙の中、破壊の主である少女は、小首をかしげて無邪気に笑った。
「あれれ? お姉さん、どうしたの?」
赤く輝くその瞳には、悪意も、罪悪感も、破壊の悦びすら宿っていない。
ただ「遊んでいる」だけ。
その純粋すぎる空虚さが、周囲に広がる「無」よりも深く、枝豆コーヒーの心を凍りつかせた。
「こないなら、私のばんだね、それぇ」
ティアの指先から放たれたのは、純粋にして巨大な魔力の質量。それは「攻撃」という概念を超えた、ただの消失の濁流だった。圧倒的な実力差を見せつけられた枝豆コーヒーは、あまりの恐怖に喉が凍りつき、指先一つ動かすことができない。
彼女はただ、死を覚悟して静かに目を閉じた。
しかし、数秒が過ぎても、予期された衝撃は訪れない。耳をつんざくような魔力の轟音だけが、目前でせき止められている。
恐る恐る目を開くと、そこには信じられない背中があった。
「……大丈夫かい? 素敵な仮面のお姉さん」
ボロボロの作業着を血に染めた牛銀が、枝豆コーヒーを庇うように立ち塞がっていた。手にした「黒い斧」を盾代わりに突き出し、闇夜の斧が唸りを上げ、奔流の魔力を削り取り、ティアの奔流を真っ向から防ぎ止めている。
「なっ……何してんのよ! あんた、死ぬわよ!」
「……ふん。あんたに負けたから、今の俺がある。……感謝している」
震える声で叫ぶ彼女に、牛銀は不敵な笑みを返した。その姿を見たティアは、楽しげに瞳を細める。
「おじさん、なかなか面白そうだね。お姉さんよりも」
牛銀は「闇夜の斧」を静かに、かつ深く横に構えた。
「……親方様……お許しを……本気を出させていただきます」
突如、牛銀から噴き出した魔力が蒼白く輝き、具現化し始めた。魔王に叩き込まれた精密な技術が、荒々しい魔力の流れを瞬時に「最適化」し、闇夜の斧を媒介として爆発的に膨れ上がっていく。
蒼い光柱が夜空を貫き、牛銀の姿を完全に飲み込んだ。
やがて光が収まったとき、そこに立っていたのは先ほどの巨漢ではなかった。
透き通るような蒼い髪、額から伸びる二本の角。幼い容姿ながらも、その佇まいは古の魔族を彷彿とさせる、人型の少年が佇んでいた。
「では、往くぞ。お嬢さん」
少年の姿になった牛銀が、静かに斧を振り上げる。その声は、深山を渡る風のように澄んでいた。
「おおーっ! おじさん、かっこいいね!」
ティアは無邪気な歓喜の叫びを上げると、一転してその口元を妖しく歪めた。
「うーん。こんな感じかな?」
ティアの指先には、この世の理を凝縮したかのような五つの巨大な魔力球が浮かび上がっていた。火、水、風、雷、土——。それぞれの属性が狂暴なまでの密度で渦巻き、空間を焼き、震わせている。
彼女が軽く指を弾くと、五つの厄災が弾丸となって牛銀へと襲いかかった。一発一発が城を消し飛ばすほどの質量。しかし、蒼き少年へと姿を変えた牛銀は、微動だにせず闇夜の斧を静かに構える。
「接合部の——」
牛銀が短く呟くと同時に、斧を真横に一閃した。
凄まじい轟音が響くかと思われたが、現実に起きたのは、あまりに静かな「消失」だった。迫りくる五つの属性球は、牛銀の斧が触れた瞬間に、まるで最初から存在しなかったかのように霧散し、夜の静寂へと吸い込まれていった。
「不純物が多すぎるな。……やり直しだ」
牛銀の瞳は、戦士のそれではない。複雑な構造物の欠陥を見抜き、最小限の力で解体する「職人」の眼差しだった。
その超常的な光景を、背後で呆然と眺めていた枝豆コーヒー。しかし、彼女の表情に安堵の色はなかった。次第にその瞳から光が消え、まるで何者かに意識を支配されているかのように、唇を不気味に震わせ始める。
「……この私が…牛に……牛に庇われた……?」
ぶつぶつと、呪いのような呟きが漏れる。それは次第に、抑えきれない憤怒の熱を帯びていった。
「牛、牛、牛……! 私が、あんな牛に守られたっていうの? 足手まとい扱いされたってこと!? なんで……なんで、なんで、あんな牛なんかにッ!!」
彼女のプライドは、ティアの魔力に晒された恐怖よりも深く、鋭く切り裂かれていた。怒りと屈辱が臨界点を超え、彼女の周囲の大気が赤黒い殺気で歪み始める。
「許さない……絶対に許さないんだからぁぁッ!!」
かつての冷静な面影はどこにもない。
守られた感謝など微塵もなく、ただ牛銀への逆恨みだけを燃料に、彼女の中でどす黒い魔力が暴走を開始しようとしていた――――
―――その頃。
魔界の奥深くにある領地。
そこには、禍々しくも洗練された美しさを放つ玉座に、深く腰掛ける一人の男の姿があった。
鮮やかな赤いスーツを微塵の乱れもなく着こなし、その頭頂からは天を貫くような鋭い一角が伸びている。知性を湛えたメガネを指先でクイッと押し上げた彼は、慌てふためいて駆け込んできた部下を前に、不快そうに細い眉を寄せた。
しかし、報告を待つ彼に向けられたのは、耳を疑うような朗々とした声だった。
「皆さんこんばんは。仕事で嫌なことがあった日、あるいは怖いことを思い出してしまった夜。眠れないなーっていうこと、結構ありますよね」
「…………えっ! 急にどうしたのかね君は!?」
ピエールの動揺をよそに、部下は一切の私情を排したプロのラジオパーソナリティのようなトーンで、懐から一通の封筒を取り出す。
「……という訳で今夜は、アクセイさんから届いたお便りをご紹介します」
「…………何を、君は、何を言っているんだ……?」
あまりの場違いな演出に、魔界屈指の知性派であるピエールの思考回路が、一瞬でオーバーヒートを起こした。
しかし、部下はそんな困惑を霧散させるほどに淡々と、そして優雅な手つきでお便りを読み上げ始めた。
「――『上司に頼まれて大切に保管していた宝具が、あろうことか盗まれてしまいました。私はどうすればいいと思いますか?』……とのことです」
「…………えっ! あいつ、宝具を盗まれたのか!?」
ピエールは玉座から身を乗り出し、絶叫に近い声を上げた。
知性派としての仮面が剥がれ落ち、メガネが鼻先までずり落ちる。先ほどまでのシュールなラジオごっこへの困惑はどこかへ消え去り、脳内にはアクセイの致命的なミスという衝撃の事実だけが、警報のように鳴り響いていた。




