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27話「魔王様と代表取締役」

静寂に包まれた森を、彼女は独り歩いていた。

その顔から、偽りの象徴であった「猫の仮面」は外されている。スマホの画面に表示された『魔王様』という文字の前で一度立ち止まると、彼女は肺いっぱいに冷たい夜気を吸い込み、意を決して発信ボタンを押した。

数回のコール音の後、耳元に届いたのは、聞き慣れた気だるげな声だった。


『……もしもし?』

「魔王様。今、お時間は大丈夫ですか?」

『……俺様は今、現場監督として多忙を極めているのだが? 戦う男の邪魔をしないでくれ』


受話器の向こうからは「おらぁ! 叩けぇ!」という牛銀たちの野太い怒号が微かに響いてくる。


「……ふふ。楽しそうで何よりです。……魔王様、少しの間だけ、『エリザベス二世』は有給休暇を頂きますね」


その言葉に、魔王が鼻でフッと笑った気配がした。


『……元々、雇ったつもりはないがな。……まあいい、好きにしろ』


そこまで言って、魔王は声を和らげた。


『……だが、あまり無理はするなよ。お前に何かあったら、エリザベスがうるさいからな』

「……はい。ありがとうございます、魔王様」


通話が切れた後も、彼女はスマホを胸に抱いたまま、しばらく立ち尽くしていた。

魔王は「エリザベスのため」だと言い張る。けれど、その不器用な言葉の裏にある自分への気遣いを、今の彼女は見逃さない。


「待っていてくださいね。……お姉ちゃん。そして、魔王様」


彼女の瞳から、迷いは完全に消えていた。

孤独に、そして不器用すぎるほど優しい魔王を支えるため――。

彼女は静かに夜の闇へと溶け込み、消えていった。


――だが、彼女が立っていた場所からわずか数メートル。

音もなく、虚空の景色が「陽炎」のように歪んだ。


「……対象、移動を開始。視界から消失しました」


そこには、夜の闇に同化する漆黒のステルススーツを纏った影が潜んでいた。

影は指先で耳元の小型通信機に触れ、感情を排した声で報告を続ける。


「スーツの遮断性能は極めて良好です。至近距離でしたが、あの『第一学園の生徒会長』にすら、こちらの存在を一切悟られませんでした。……ただし、妨害電波の影響により、通話内容の傍受には失敗。対象が誰と接触していたかは不明です」


その報告を受け、通信機の向こう側で、冷徹な女の声が短く応じた。


『構わん。彼女も、魔王城の動向も今は「副産物」に過ぎないわ。……予定通り、そのまま残りの「宝具」を捜索せよ。我々の目的はあくまで、あの「伝説の勇者」の復活なのだから』

「了解――」


影が再び身を翻すと、そこには最初から誰もいなかったかのように、ただ静寂な森の景色だけが残された。



一方、その頃。とある魔界の奥深く――。

禍々しくも洗練された意匠の玉座に、一人の男が深く腰掛けていた。

鮮やかな赤いスーツを完璧に着こなし、頭部から鋭い一角を覗かせる男、ピエール。彼は知性を感じさせるメガネを指先でクイッと押し上げると、目の前で平伏する部下の報告に、不快そうに細い眉を寄せた。


「……報告です」

「またか。最近、報告が多くないか?」

「ピエール様が、現場に対して何も指示を出さないからでは?」

「………………」


あまりにも痛いところを突かれ、ピエールはメガネを押し上げたまま硬直した。沈黙が玉座の間を支配する。その重苦しい空気に耐えかねたのか、部下は慌てて付け足した。


「……冗談ですよ、冗談」

「……フン。笑えない冗談だ。……で? 報告とは何だね」


ピエールは咳払いを一つして、威厳を取り繕う。部下は居住まいを正し、手元の書面を読み上げた。


「……四天王――いえ、牛銀様が離脱した今、三天王のお一人、ティア様の部下より通信が入っております。『貴様の頭の悪い妄想なんぞ知ったことか! 理屈はいいから一刻も早く城の老朽化を何とかしろ。これ以上雨漏りで私の髪が濡れてみろ、貴様をボロ雑巾のように絞り切ってから、魔界の果てに棄ててやる』との伝言です」

「あの女……。……雨漏り、隙間風。そんなものは魔法で塞げば済む話だろう。私を何だと思っている。魔界の再編、人界への侵略、勇者育成高等学校への対策……。私は今、歴史の転換点というチェス盤を動かしているのだ。大工仕事に割く時間などない」


ピエールは苛立ちを隠さず、玉座の肘掛けを指先で激しく叩いた。だが、ティアは予測不能だ。機嫌を損ねれば本当にボロ雑巾になりかねない⋯⋯。


「……だが、ティアが暴れて戦力を失うのは痛手だな⋯⋯⋯…仕方ない。それで、業者の方は手配できそうなのか?」

「はっ。既に各方面を調べておりますが、魔界中の有名な業者は皆『多忙』を理由に断られております」

「……結局、一件も見つかっていないのか。まったく、魔界のインフラはどうなっている……」


ピエールが溜息をつき、頭を抱えようとしたその時。部下が一枚の怪しげなチラシを差し出した。


「それで、一件だけ。最近新しく出来たばかりだという業者を見つけました。実績こそ不明ですが、口コミによれば「親切」、「丁寧」、「迅速」をモットーにしているとか」

「……あからさまな広告だな。……して、その業者名は?」


部下はチラシを読み上げ、首を傾げた。


「ええと……『エリザベス工務店』だそうです」

「……フン、ふざけた名前だ。だが背に腹は代えられん。至急、そこにティアの城の見積もりを依頼しろ」


ピエールの眼鏡が、逆光で不気味に光る。

彼には知る由もなかった。その業者の代表取締役が、「無能」だと信じている男だということを。

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