ジーン&花咲の場合
「花咲先輩、今日は体調も良さそうですね。何かいいことでもありましたか?」
昼食後の化粧室で後輩の多田に言われて花咲は微笑むだけにした。言ったところで信じてもらうことも難しい。
「そうかな…それよりも、あの後大丈夫だった?」
「大丈夫ですよ、先輩の方が急に具合悪くなったんでびっくりしましたけど…」
「花咲先輩って飲めそうなのにお酒に弱かったんですね。そういえば今日、秋村先輩ってどうしたんですか?朝は確か出社していたと思ったんですけど…早退したんですか?」
総務部の持田が首を傾げる。その言葉に若干の引っかかりを覚えたが、秋村については曖昧な笑みを浮かべて言及を避けた。いつの間にかホワイトボードは早退になっていたが、デスクの上が片付けた形跡すらなくそのままだったのも気になった。
「リカ…あのさ、秋村先輩は止めておいた方がいいと思う…」
多田が遠慮がちに口を開く。
「え?どうして?なになに、ひまり、もしかして秋村先輩のこと気になってるの?」
持田が笑うと多田は急に怖い顔をして首を横に振った。
「違う!むしろ逆。あの人、怖い…なんか裏がありそうで。あ、ごめんなさい、花咲先輩って秋村先輩と同期でしたよね?仲が良かったなら、すみません、あくまで私の主観です」
多田は困ったような表情で花咲を見上げた。
「別に仲がいい訳じゃないよ。あの人、みんなに対してああいう風に…距離を詰めてくるでしょ。だから仲が良いって傍から見たらそうも見えるかもしれないけど…こっちからしたら、そんなことはない…」
「えー先輩の具合が悪いときに一番心配してたの秋村先輩でしたよ?」
持田が納得しないので、花咲は困ってしまった。それはそうだ。彼は多田を餌食にしようと狙っていたのだから。だがその酒を花咲が飲んでしまった。具合の悪くなった花咲を家の方向が同じだから送り届けると言っていたと翌日多田から聞かされたが、花咲にはその辺の記憶はもうなかった。目覚めたのはホテルで秋村はいなかった。シーツに飛び散った血痕と痛みが不意に蘇る。まずい、と思った。気分が悪くなりそうだ。そのとき背後で声がした。
「あ、花咲さん、ちょうど良かった、やっぱりここにいた!ちょっと話したいことがあって…多田さん、持田さんごめんね!」
暮林リツに花咲は半ば強引に連れ出されたが、お陰で助かったと思った。
「話の方向がちょっとアレだったから…用事があったのは本当。タイムカードを押したらそのまま一緒に社長室に来て」
背中を押されるようにして花咲は社長室に連れ込まれる。ドアを閉めると宮森が驚いた顔で花咲の方を見た。
「えっ?本当に連れてきちゃったんですか?」
宮森は困ったような顔になった。
「ま、誤解を招かせないためには本人に説明しておいた方がいいと思うよ」
社長がイチカを撫でながらのんびりと言った。
「あのですね…えぇと。つまり、楓の魔力が思いのほか強かったので、実は僕の方が少し影響を受けて酔ってしまいまして、このままだと仕事にならないので、暮林さんに定期的に中和をお願いすることになりました」
「中和…ですか?」
「はい、身体的に接触する必要があって…その…しばらく手を繋いだり抱きしめ合ったりしないといけないんです…キスすれば手っ取り早いんですけど、それは倫理的にどうなんだという話になって…それに、見ての通り常務に殺されそうですし」
「当然だ。本来なら触れさせるのも嫌なんだ」
腕組みをして壁に寄りかかっていた常務が花咲を見てため息をついた。
「キスなんぞした日には浮気だなんだと人間はすぐに騒ぐだろう。どこからが浮気の定義かは人それぞれだが、とりあえず単なる中和作業にいちいち騒がれたくないから、先に言っておく。それに、秋村をちょっとつついたら、自身の罪を認めずに逃亡したから、ここで宮森が酔って使い物にならないままでは何かあった時に困るからな。さっさと終わらせろ」
「え?見てる前で…中和…するんですか?」
宮森が慌てた様子で言った。
「当然だ。見えないところでされる方が不愉快だ」
常務は平然と言い放つ。
「では…よろしくお願いします…」
気まずそうに宮森が頭を下げて、暮林リツを背後から抱きしめながら両手を握った。当たり前だが花咲よりも小柄なリツは宮森の身体にすっぽりと包まれるようなサイズ感だ。確かに何の情報もなく、この場面に遭遇したら絶望的な気分にさせられるところだったと花咲は思った。むしろ自分よりもお似合いだ。
(君は…その後ろ向きな思考回路をどうにかできないのか?)
いつの間にか隣に来ていた常務が心の中に直接話しかけてくる。花咲は慌てて顔を上げて長身の相手を見上げた。
(どうにかできるなら苦労はしませんよ。今は精一杯女装することで何とか自分を保っているんですから)
(君は聖女だった頃には女であることを恨んでいたのに、今世で男に生まれたら男である自分もありのままでは受け入れる事ができなかった訳か…厄介な性格だな…興味深くはあるが)
(単純な理由ですよ。いざ男に生まれてやっと女を抱く側になれたと思ったらそれができなかった、それだけのことです…)
心の中なので取り繕うことも出来ずにありのままを花咲は語ってしまった。
(悪魔は…あまり性別には拘らないからな。魂そのものを見ている…むしろ相手の性別に合わせて望む姿に変わって欲望を満たす…君も好きなだけ宮森に望めばいい。それに悪魔になれば姿形も思いのままだ。獣になって思う存分に宮森を貪ってみたいとは思わないのか?)
花咲はわずかに動揺を見せた。
(悪魔だけあって…誘惑してるんですか?)
(ま、有り体に言うならイエスだな。元聖女の悪魔というものがどう変貌を遂げるのかにも興味はある。それに君が悪魔になれば、いちいちリツが中和に付き合う必要もなくなるからな)
(本音はそっちですか?でも…この光景を見ていると私の劣等感がいちいち刺激されるので、悪魔になる件については前向きに検討したいと思います)
花咲の返答にジーンは口元だけで笑った。どこかうっとりとした表情でリツを抱擁する宮森を淡々と眺めているつもりだったが、やはり内心では面白くはなかった。




