リツ&エストリエの場合
しばらくして喉の渇きに目覚めたリツは隣にいたはずのジーンがいないことに気付き、静かにリビングへと降りてみた。
リビングはオレンジの間接照明で照らされ、そこにストラスとジーンの気配があった。ドアの前で入るかどうかをためらっていると、後ろから別の気配がした。振り返るとエストリエが微笑んでいて、平然とドアを開けた。
「私にも一口ちょうだい」
歩み寄ったエストリエはストラスからグラスを受け取る。二人は酒を飲んでいたようだった。一口飲んでエストリエは大胆にストラスの膝の上に座った。
「リツもおいで」
ジーンに呼ばれたので隣に座ろうとしたら、手を引かれてそのまま膝の上に乗せられる。悪魔は触れ合うのが好きなのだろうが、人前でも堂々とこうするのはいまだに慣れなかった。
「それで?ルイとはうまくいったんでしょ?」
エストリエはストラスの顔を覗き込んで言った。肩に触れそうで触れない指先はストラスの首筋を辿り始める。
「あぁ…今回は…きっちり…最後まで責任を果たした」
ストラスの声色の方がやや戸惑いを帯びていた。エストリエはそれを聞くと、むしろ満足気に言い返した。
「それでいいのよ。中途半端は良くないもの。でも第一夫人の座は私のものよ?ルイは二番目。あなたほどの地位にいたら二人でも少ないくらいだけど…あぁ、リツは大丈夫よ。我が君は例外。五百五十年間も特定の恋人も作らず、あなた一人だけを探していたなんて到底信じられないから、ストラスとの恋仲を疑っていた悪魔もいたくらいだもの…しかも面倒だからって否定しなかったわよね?そのお陰で私の立ち位置はずっと微妙だったのよ?国王陛下の恋人に横恋慕している身の程知らずな吸血鬼だって」
エストリエはそのままストラスの首筋に顔を埋める。わずかにストラスが眉をひそめたので牙を立てたのだと分かった。エストリエは血を飲み始めた。それが単なる食事ではなく愛情表現の一つなのだと、共に日々を過ごしてきてリツはようやく気付いた。見ているうちにリツはふと当初の目的を思い出す。
「喉が渇いて…水を飲みに来たんだった…」
リツが立ち上がろうとすると、ジーンはチェイサーの水を魔力でコップに注いでリツの目の前に差し出した。コップが宙に浮かんでいる。結局膝の上から避ける口実を失い、そのままそこで水を飲む羽目になった。落ち着かなかったが、ジーンはそのままリツの腰に手を回して素肌に触れ、その反応を見て楽しむような顔をした。
「やめて…人前で…恥ずかしい…」
リツが言うとジーンは耳元で囁いた。
「ここにいるのは人じゃない…人とは違う理の中で生きている悪魔たちだ…」
「慣れろってこと…?」
「まぁ…ある程度はな。郷に入ってはなんとやら、だ」
そう言ってジーンはリツの唇を口付けで塞ぐ。そのままソファーに押し倒されてリツは慌てた。こぼすかと思ったらコップはすでに取り上げられていた。ストラスの首から顔を上げたエストリエが、こちらを見ながら唇を舐めて微笑む。
「無理…!」
リツは渾身の力でジーンを振り払った。
「おぉ!素晴らしいな。魂と肉体を所有しても、この反発力。リツは御しがたい。これほどまでに染まらないのも稀だな…」
「…そうですね。その点は…認めない訳にはいきません」
黙って成り行きを見ていたストラスが口を開く。
「で?ルイとの契約を完了した感想は?どの程度の影響を与えた?」
ジーンの問い掛けにストラスはしばし考えた。
「リツさんとは、もちろん違いますよ。少なくともここまで反発はしません。むしろ以前よりも従順です。こちらの影響を与えすぎないといいのですが…男性と女性とでは精神のありようからして違うのかもしれませんが…」
「…何よ?それって遠回しに私たちがじゃじゃ馬だって言いたいの?」
エストリエは唇を尖らせた。
「いや、それを言うならエストリエよりも、リツの方がじゃじゃ馬どころか暴れ馬だな。乗りこなすのも至難の業だ」
「え?私の…どこが?」
理解不能だという顔付きのリツを見てジーンは笑い出す。
「何を想像した?男女間の営みのことではないぞ?精神力の方の話だ」
実に紛らわしい手付きでジーンはリツの胸の辺りに触れていた。リツは赤くなる。
「さて、お前の心はどこにあるのか。ここか?それともこっちか?」
胸から頭に掌が移動する。頭を撫でられているのに鼓動が煩くなる。
「ところでリツ、エストリエがリツの血にも興味があるそうだが、そろそろ与えてみる気はあるか?」
「え…?」
そういえば、時折冗談交じりにそんなことを言っていたのを思い出す。
「そろそろリツの栄養も足りてきたようだから、リツが許可できるなら、エストリエにも与えてみる価値はあるかと思ったんだ…」
ジーンの言葉にリツは思わずエストリエの方を見た。薄いピンクの瞳が期待に輝いていた。
「それで…何かが変わったりするの?」
「リツの居場所がすぐ分かるようになるわ。そうね…後は飲んでみないと分からないけれど…」
「別に…いいよ…?」
言いながらもリツは思わず確認するかのようにストラスの方を見る。目の合ったストラスは苦笑して言った。
「血の一口二口で、別に俺は何も困ったりもしませんから、大丈夫ですよ」
すでに音もなくエストリエはリツの隣にやってきていた。とてもいい匂いがする。柔らかな腕がリツを抱く。ジーンの膝からエストリエの腕の中にリツは引き寄せられた。
「緊張してるの?可愛いわね」
エストリエはリツの身体をゆっくりと撫でながら、やがてその首に口付けを始めた。なんとなく首の辺りの感覚がぼんやりしてくる。
「…俺のときは…そんなに丁寧にしないだろ…」
ストラスがぼやくのが聞こえ、ジーンが低く笑って言った。
「第一印象は大事だからな。それに観客もいる。ある程度の演出はあった方がいい」
やがてリツは優しく首を噛まれるのが分かったが、痛みはあまり感じなかった。むしろ心地良い。リツは目を閉じて、その感覚に身を委ね震えた。程なくして唇は離れたが、リツは夢見心地でぼんやりとしてしまった。
「リツ…大丈夫?」
エストリエが囁く。
「あ…あぁ…うん」
「すごく…美味しかったわ。当たり前だけど…ルイとも違うわね。尖ってなくてまろやか…」
キラキラと目を輝かせるエストリエはいつもよりも蠱惑的に見えた。
「良かったな。飲める血がまた増えて」
ストラスがグラスを傾ける。
「ストラスの血が度数の高いお酒なら、リツの血はワインって感じね。フルーティーで美味しいわ」
「あぁ…確かに。リツの血はフルーティーだ」
妙なところでエストリエとジーンの意見が合致し、リツは困惑したままストラスの顔を見た。
「俺は血の味はよく分からないですよ。血は血でしかない」
ストラスの言葉に何故かリツはホッとする。悪魔は皆、血が旨いと感じるのかと思ったからだった。自分もそのうちそうなるのかと少し怯えたが、どうやら違うようだ。どこまでが個人差でどこまでが悪魔の共通点なのだろうとリツは考える。ジーンの言った御しがたいとはどういうことなのか。契約を完了したルイはどんな風に変わったのか、気になることは山ほどあったが、聞いたところでうまく躱される気もしていた。




