五十嵐警部の場合 1
五十嵐警部は薄暗い場所で目を覚ました。油断していたつもりはないのだが、ジーン・フォスターとあの日一緒にいたガタイの良い外国人シトラス・オレンジをつけていたら、見失い挙句の果てにスタンガンで動きを封じられている間に何か薬物を打たれたような感覚がした。実のところその辺りの記憶はあいまいだ。先回りされたのだろうか。ふざけた名前のくせに、やはりあの外国人が事件に関わっていたのだと思った。
薄暗い中で起き上がろうとしたが、手足を拘束されているようでうまく動けなかった。結束バンドだ。だが幸いにも前で拘束されている。これならばなんとかなりそうだ。そう思って部屋の隅に他にも人影があるのに気付いて彼はハッとした。疲労した様子の女性が男性の肩にもたれていた。
「私たち…どうなっちゃうの?」
「きっと大丈夫だよ。悪い風には考えるなって」
ヒソヒソと話し声がした。
「おい…ここが…どこなのか…分かるか?」
気を失っていると思っていた相手が口を開いたので二人は驚いたように口をつぐんだ。魔力切れを防ぐためなのか二人は寄り添っていたが、やはり拘束されていた。五十嵐警部から見える位置でも足に結束バンドが巻かれていて、錆びた配管に片手を繋がれているのが分かる。殴られでもしたのか目の横に怪我をした若い男性が五十嵐警部の方を鋭い目付きで見た。
「…分からない…俺たちも…気付いたらこうなっていたから…」
五十嵐警部はその二人の顔も監視カメラで確認したのを記憶していた。七区の事件を調べていたら神木蒼士の所有するマンションとその周辺の監視カメラに映り込んでいた人物だった。一連の事件の重要参考人だ。もしかするとこれも罠かもしれない、と思った。それに二人の名前は数字。しかも一人は素数だ。怪しい。
「ここにいることに心当たりはあるのか?」
五十嵐警部の問いかけに彼は首を振った。女性の方はどことなく顔色が悪かった。
「あの…すみません。ちょっと…こっち…見ないでおいてくれませんか。こいつ具合悪いんで…」
五十嵐警部は察して目を閉じる。
「見ねぇよ…」
「…大丈夫だってば…」
女性の声がしたが、何かに怯えているのが声色からも伝わってきた。
「無理するなって」
「ヤダ…人がいるのに…無理!」
「そんなこと構ってられないだろ!」
結局黙ったのは女性の方だった。魔力切れを恐れて、どうせキスでもしているのだろうと思った。目を閉じていてもかすかな音で何となく分かる。
(…やってらんねぇぜ)
そのときドアが軋む耳障りな音に思わず五十嵐警部は目を開けた。ぬっと巨大な黒い何かが見えた。腰を曲げて入ってきたその巨躯を見上げて、五十嵐警部は柄にもなく絶句した。
(なんだこいつは!あの外国人じゃねぇ…!)
全頭マスクで覆われているので顔がよく分からないが、目元と開いた口元からしても、おおよそそれは人間の形相とも思えない大きさをしていた。どちらかといえば出目金を思わせるギョロリとした目は妙に飛び出ていて、分厚い紫の唇は自分のそれの軽く二倍はあるほど大きい。何よりドアをくぐって入ってきたが、背を伸ばすと三メートル近くあろうかというサイズだった。
(人間じゃねーだろうよ!何なんだ、こいつは!)
彼は片手に持っていた何かを無造作にぽいっと放り投げた。
「余計なコトするナ。ドクター怒ル。怒る仲間殺ス。数字ノ人間、足リナイ…」
五十嵐警部の目の前に転がされたそれは、ぱっと見は人の形をしていた。だが何かがおかしい。そう思っていると、人の形のそれは口を開いた。だがようやくそこで五十嵐警部は気付く。いや、なんでこの状態で生きている?
「お前…いい加減、分かれよ。あいつは俺たちの味方じゃない。散々利用したら、お前だって…お払い箱なんだよ!」
その生き物は腹から下を失っていた。千切れた身体から内臓が見えている。五十嵐警部の横たわるコンクリートにどんどん赤い染みが広がってゆくのをまるで悪夢のように彼は見ていた。
「ドクターは絶対。約束シタ。裏切ラナイ。生マレ変ワリノ生贄探ス…お前裏切ッタ。お前モ殺す…」
五十嵐警部らには目もくれず巨躯の相手は踵を返すとバタンと扉を閉めた。
「畜生!あの馬鹿!」
罵った相手は、けれども両手を使って器用に向きを変えると、横たわる五十嵐警部の顔の前に、突然顔を近付けてきた。皮肉なことに、その顔は人のそれと何ら変わらず、むしろ美しい部類に数えられる方と言えた。緑の瞳が輝いていた。
「ふぅん。あんた俺が怖くねぇの?頼もしいや」
「こえぇよ。十分ビビってる。なんでその状態で生きてんだよ。どこの異世界の生き物だってんだ」
五十嵐警部の言葉に相手はククッと笑った。
「俺さぁ…頭さえ無事なら…ま、何とかなんのよ。ん?何だ何だ?あんたの知り合い、変なのばっかりじゃん…」
五十嵐警部の目を覗き込んで相手はケラケラと笑い出す。
「俺があんまり、お喋りなもんで、ボンクラの野郎に半分に引き千切られてこのザマよ。しっかし人間ってのは弱いねぇ…上の皮一枚剥がれただけでもギャーギャー泣き喚いてうるさいったら。あんたはどっちだ?ちょっと血を飲ませてくんない?そうしたら、まぁちょっとは協力してやるよ」
「…何なんだよお前。吸血鬼か何かなのか?」
「んー半分正解で半分外れってとこかな。で、どっちだ?」
「逃がしてくれるのか?ここにいる人間全員」
「あー?それは難しいかもな…」
「だったら交渉決裂だな」
「…この番はスペアらしいからなぁ…今度こそ余計なコトしたら頭を潰されかねないし…ま、なるようにしかなんねーか。おっさんはバリバリ候補者だけど、ここでまだ死にたくないなら、ちょっとだけでいいから食事させてくれよ」
「…仕方ないな…全員助けろよ」
「努力はするよ。じゃ、いっただっきまーす」
相手は嬉しそうに言って五十嵐警部の首に勢いよく噛みついてきた。脳天を突き抜けるような痛みが走り、そのうちに次第にふわふわとした感覚に襲われた。五十嵐警部の血を飲んだ相手の下半身がズルズルと再生するのを、彼はB級ホラー映画でも観るような気分で眺めていた。ここまで非現実的だと叫ぶ気も起きない。むしろ冷める。彼はすでに冷静になっていた。
「おっと!警部殿の前だと公然わいせつ罪で逮捕されそうだな。今あんまり余計な力は使いたくないんだ。これで勘弁してくれ」
彼が手を動かすと黒いハーフパンツが現れて下半身を覆った。上も黒いタンクトップで覆われる。彼は背後の二人を振り返りニッと笑った。
「どうも。って、あんたら共通の知り合い、いるじゃん。なのにお互いは面識なし?あーそういうこと?」
一人で喋って一人で納得しているが、とりあえずスプラッタな状態からは脱したことに五十嵐警部は胸をなで下ろした。長時間眺めていたい光景ではない。
「…さっきのデカブツ…あいつは何者なんだ?」
五十嵐警部の言葉に相手は笑った。
「なになに?俺のことより向こうに興味があるわけ?警部殿は趣味が悪いねぇ…あ、俺のことはケビンって呼んでよ」
「…高貴な身分には見えねぇけどな…」
五十嵐警部の言葉に相手は心底意外そうな顔をした。
「なんだよ…その顔は」
「いや、変なおっさ…警部殿だなと思っただけ」
「その呼び方は止めろ。今は囚われの単なる一般人だ」
「はいはい、で?さっきの質問だっけ?あれはねぇ…異世界の悪魔らしいね。でも脳みそスッカスカな奴が多くて困っててさ。教育係として雇われたんだけど、もうお手上げ状態!五十嵐さんのお知り合いのように洗練された悪魔たちとは大違い」
「俺に悪魔の知り合いなんていねーよ」
五十嵐警部の言葉に、何故か妙な顔をしたのは、パイプに手を繋がれた若い男性だった。
「あぁ…悪魔…通りで…」
彼はぽつりとつぶやく。ケビンは二人を振り返り、スタスタと歩み寄る。女性が怯えたように身を竦ませると彼は困ったように男性の方を見た。
「彼女、毎月こんな感じなの?今度病院に行ってちゃんと診てもらった方がいいよ。子宮筋腫。分かる?そのせいもあって調子悪いんだよ。あんたも魔力足りないのに無理してるんじゃないよ。頭怪我してけっこう出血したんだからさ」
そう言って彼は男性の方に突然キスをした。彼は逃れようとしたが拘束されているせいで無理だった。しばらく口付けが続く。
「これで、ま、少しは走れるでしょ。彼女に魔力分けすぎて、いざってときに自分は動けないなんて、一番みっともないからね」
一方の五十嵐警部は靴ひもを結束バンドの間に通して縛っているところだった。そうして足を何度か動かして結束バンドを摩擦熱で断ち切る。まさか実際にやる羽目になるとは思っていなかったが、これで手がようやく自由になった。五十嵐警部は胸ポケットに入っていたティッシュを出す。中には社長からもらったチョコレートが入っていた。それを口に含む。血を失った今、そのチョコレートは身体の魔力を増加させ気怠さを打ち消すのに効果的だった。社長は毎回チョコレートを二粒持たせてくれていた。一つを樋口巡査部長に食べさせ、もう一つはどうしても体調が優れない時の予備に保管していた。
(あぁ…こんなんじゃ、またあいつに怒られるな…)
相棒の顔をふと思い出してしまい五十嵐警部は苦笑する。
「ケビン、お前頭の中が覗けるんなら、こいつとは知り合いじゃないってことなのか?」
五十嵐警部がシトラス・オレンジの姿を強く思い浮かべるとケビンはケラケラと笑い出した。
「…だから、そいつがスタイリッシュな悪魔の方だよ。俺も最初からそっちを見つけてればこんな目には遭わなかったのになぁ…気配を見誤った。シトラス・オレンジだぁ?フフッ。名のある悪魔になんてフザケた名前を名乗らせてるんだよ」
ケビンは一人悦に入ったようにしばらくニヤニヤしていた。変な奴だが、とりあえず味方に出来そうならここを抜け出すことが可能かもしれない。五十嵐警部は冷静に頭を働かせ始めた。チョコレートのせいか、思考回路がスッキリしている。彼が悪魔だということは、ジーン・フォスターも悪魔なのだろうか。社長に感じた妙な感じも彼が悪魔なのだとすれば納得がゆく。この販売されていないチョコレートも。そのときだった。ドアの軋む嫌な音が再び響いた。




