ジーン&成瀬の場合 1
ジーンとリツは昼休みを終えて会社へと戻る。化粧室に寄ると他部署の社員が化粧を直していたが、リツが入ると一瞬の間の後、慌てたように皆が口を開いた。
「あ!お疲れさまです」
「お疲れさまです…」
リツも挨拶を返してトイレに入った。
(黙られると気まずい…)
トイレから出るとまだ三人は化粧をしている。リツは手を洗い、歯を磨き始めた。うがいをし終えると中の一人が遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、新人の成瀬くんって親しかった?」
やはり成瀬の話題かと思ったがリツは首を横に振る。
「親しいと言えるほどの交流はないですけど…なにか?」
「話しているのを見かけて…あの人、なんとなく怖くないですか…?」
別の社員が口を開く。
「うーん、それを言うなら私も大差ないから」
リツは思わず苦笑する。
「あのっ、暮林さんって…何の転生者…なの?気配がよく分からなくて。あっ、私は経理部の花咲楓。札付きの…元聖女。暮林さんとは一応同期。っても入院してて入社が遅れたから同期の知り合いゼロで」
「私は総務部の持田梨香です。すみません、転生者じゃないんですけど、社長の理念に惹かれて入社しました」
「あのっ、私は経理部に今年入社した多田ひまりです。実は社長に憧れて入社しました。札付きの元、魔女です」
次々に話しかけられてリツは驚いてしまった。
「私は…元堕天使で、今は堕天使の管轄が天界から魔界に譲渡されたから、悪魔になってるみたい」
何か訊かれたらそう答えろと言われた通りに返事をすると、何故か皆が目を輝かせた。
「やっぱり!その孤高を貫く雰囲気!そんな気がしてた」
花咲楓が微笑む。
「前から一度話してみたかったの。でも常務に睨まれるから、なかなか話しかけるきっかけがなくて」
(私だけじゃなくて、ジーンの牽制のせいもあったってこと…?)
リツは困惑しながらも三人の名前を記憶した。昼休みも終わる時間だったので、それぞれが部署に戻る。リツも急いで常務室に戻ると、ソファーに座ったジーンに手招きされた。少し警戒しながら近付くと、手を引かれて案の定抱き寄せられた。ジーンは悪魔の気配を消す薬を飲んでいた。リツの手にも渡されたので、受け取って差し出されたミネラルウォーターで流し込んだ。
「いつもより…遅かったな。腹の調子でも悪いのかと思ったが、そうではなさそうだな?」
「他の部署の人にちょっと話し掛けられただけだよ」
「誰だ?」
ジーンの不審そうな声色に、嘘をつく理由もないのでリツは三人の名前を挙げた。会話の内容も訊かれたので全て話した。ジーンは黙って聞いていたがその間もリツの身体にゆっくりと指を這わせていた。
「で?何の転生者だと言ったって…?」
「花咲楓さんが…元聖女…持田梨香さんは転生者じゃなくて、多田ひまりさんが…元魔女…」
「よく忘れなかったな。私がリツの身体を愛でているというのに。もうこの程度の刺激には慣れたということか?では次のフェーズへ進むとするか…」
ジーンはリツの顎を持ち上げると唇を重ねる。ジーンの魔力が流れ込んできた。
「三人の中で一人嘘をついた者がいる。何故そんな嘘をついたのか…」
「え…?嘘…?」
何が嘘なのかリツには分からなかったが、ジーンの口付けに思考が停止した。
「気に掛けるほどでもないが…私はリツ以外の女性には一切興味はないからな…お前と仲良くなって社長に近づこうという魂胆が見え見えの方がまだ清々しい…」
ということは。三人のうちで社長のことを言わなかった者。
「花咲…楓?」
口付けの合間にリツがつぶやくと、ジーンは低い声で笑った。
「何が…嘘…?」
リツは考える。ジーンの触れる指先からも魔力が流れて心地良い。どういう訳か、その感覚で清葉学園の保健室のベッドを思い出した。穏やかな午後だった。頭が働かなくなる。ダメだ考えるのを手放すな。リツは目を開けた。
「入院してたって…」
朝礼で紹介されたのはいつだったか。確かに入社の遅れた同期はいた。けれども。いつだったか思い出せない。少なくとも数ヶ月は経っている。
「ジーンが…来たのはつい最近だから…話し掛けようと思えば…その前にいくらでも…機会はあった…」
「そういうことだな。まぁ花咲楓は、後輩に頼まれて断れなかったのかもしれないが、それだけでもなさそうだ」
「本当は…話し掛けたくないくらい私のことが不気味だった?得体が知れないから…」
フフッとリツは笑う。落ち込むかと思ったらそうではなかったことが意外だと言わんばかりのジーンの顔を見つめて言った。
「大丈夫。そんなのずっと前から慣れてるから。それに、今はジーンがいてくれる。誰よりも近くに…」
リツは腕を伸ばしてジーンの肩に回すと自ら唇を重ねた。まだ悪魔のチョコレートの効果が残っているのかもしれない。温もりが恋しかった。リツとジーンは互いに抱きしめた腕を離さずしばらくそのまま身動ぎもしなかった。
***
その後は真面目に働いて転生者の依頼内容に応じて担当を誰にすべきかを決める会議に出席した。配属されて間もないのに部下の性格を把握済みなのは、やはり彼が悪魔だからなのだろうかと思いながらリツはパソコンに議事録を打ち込む。やがて三時のおやつ休憩の時間になった。最近気まぐれに社長が推進している小休憩時間だ。その方が仕事の効率が上がるというのが彼の持論だったが、今日はおおかたイチカと戯れているのだろうと思った。
不意に何やらドアの外がざわついていることに気付く。そっと顔を出すと成瀬恭也が会社に戻ってきたらしく社長室に向かう疲れたような後ろ姿が見えた。
扉を閉めるとジーンは冷蔵庫を開けてチョコレートプリンを出したところだった。
「リツもチョコレートプリンがいいか?それともシンプルなカスタードプリンもあるが」
真面目な顔で訊かれて、上司と交わす会話でも悪魔と交わす会話でも何だかおかしいと思いながら、リツもチョコレートプリンを選んだ。残ったカスタードプリンを手にジーンは言った。
「社長室の成瀬くんに渡してやれ。おそらく昼飯も食べ損ねただろう」
プリンと使い捨てのスプーンまで渡される。
「え?私が渡すんですか?」
「それはそうだろう。私が渡すより秘書の君の方が相手だって嬉しいに決まっている」
「あの…前には気をつけろって…言ってませんでした?」
「あぁ…そんなことも言ったな。あの時は警察同様に私も少々彼を疑っていたところがあってね。だが彼ではなかった。疑いも晴れたから、こちらに引き入れる。その方が扱いやすい」
「えぇ!?」
そのとき内線が鳴って、素早くジーンが出た。
「あぁ、持っていますが…強いですよ?半量…?いやその、更に半量で様子見した方がいいでしょうね。何故こちらに頼むんですか、そちらは…あぁ…分かりましたよ」
ジーンは隠し収納からアンプルを取り出した。そんなものまで?とリツは二度見する。それに成瀬は正直なところ少々苦手だ。
「まぁ、このくらいか。席では食べにくいだろうから、まずは餌で釣れ。常務室に寄れと。そろそろかな?ドアを開けろ」
結局しぶしぶながらリツが扉を開けると奥から成瀬が歩いてくるところだった。リツに気付いて目を見張る。
「あの、お腹減ってない?常務室に寄って少し休憩しない?」
プリンを見せると成瀬は歩くのがほんの少しだけ早くなった。側に来ると分かる。空腹な上に魔力も足りていない。倒れていないのが不思議なほどだ。
「…暮林先輩…」
先輩などと呼ばれてリツは驚いた。彼は唐突にリツの肩に額を当てる。そのままずるずると倒れそうになったのを横に現れたジーンが支えた。
「妻に気安く触れないでほしいな。精神的に疲労して魔力まで足りないんだろう」
腕を掴まれた成瀬は一瞬嫌そうな顔をしたが、ハッとしたようにジーンの顔を仰ぎ見た。
「常務は…もしかして…」
リツは扉を閉める。ジーンはあっという間に成瀬をソファーに横たえていた。手際よく袖をめくる。いつの間に用意したのか、トレーの上から注射器を手に取った。
「私は医師免許も持っているから安心しろ。魔力回復薬だ。リツの緊急用だから四分の一の量でまず様子を見る…君なら多分、多すぎるということもないだろう」
成瀬はもう抵抗する力すらない様子で大人しく腕を出していた。ジーンに注射されると彼は顔をしかめた。魔力の濃度自体は濃い。なので魔力量の低い者の身体に注入するとその間は痛みが伴う。彼は一瞬リツの方を見た。何となく考えていることは分かった。
(なんでこんなに濃いんだって思ってるんだろうなぁ…堕天使の頃はエネルギー効率が悪かったからなぁ)
「…濃いです…何なんです…これ…」
成瀬は途切れ途切れにつぶやいた。
「リツは一日に最低でも三本は必要だった。経口摂取は除いてだ。結婚してようやく満たしやすくなった」
ジーンは針を抜きながら事もなげに伝える。成瀬は顔をしかめたまま、しばらく苦しそうに息をしていた。ジーンがネクタイを緩めて心臓の上に手を当てるのが分かった。
「血液の流れに乗って全身に行き渡るまで少し苦しいだろうが、我慢しろ。お前がかつて贄に捧げた者たちはもっと苦しんだはずだ。それなのに本当はそんなことはやりたくなかったと心底思っているのが興味深いな。悪魔崇拝と言いながら、誰よりも悪魔に近付きたかったのは、君自身だろう?君は教えられた通りに忠実に殺したが、結局悪魔にはなれなかった。その行いは君に囁いた者が権力を得る為に邪魔な者を排除したいだけだった。君は体よく利用されたんだ。残念だったな。君のいた世界には悪魔は存在しなかったらしい」
ジーンの言葉に成瀬は青ざめた顔で目を開ける。何故そんな詳細をと思っている様子の顔付きだった。
「…私は魂に付随する記憶を読んでいるだけだ。何故なら私は今現在は魔界を統べる悪魔の頂点に君臨しているからな。リツはその花嫁だ。君が長い間求め続けて出会えずにいた悪魔そのもの。どうだ?案外大したものでもないだろう?」
顔色がようやく戻り始めた成瀬は、大きなため息をついた。そうして不思議そうに言った。
「悪魔って…何故こんな僕にまで…親切なんです?思っていたのと…だいぶ違いますよ…心臓を抉り出して食べたりするんじゃないんですか?」
成瀬の言葉にジーンは嫌そうな顔をした。
「そんな獣じみた行いをする奴は、少なくとも私の知り合いには存在しない。我々は美食家なんだ。どこの異世界の悪魔の情報だ?それこそフィクションじゃないのか?」




