ストラス&オセの場合
ストラスはその日ルイの帰宅時間に合わせてさりげなく通学路を見守るつもりでいた。だがそのとき自分が以前、私立清葉学園でマーキングをした魂に無遠慮に触れられた気配を感じた。
(ちくしょう!ルイからも目が離せないのに!)
「黒木さん!!」
普段は姿を見せない相手を呼ぶとすぐに姿を現した。
「どうかしましたか?」
「悪いが…ルイの帰宅の見守りを頼みたい。無傷で元気に帰ってこられるように」
「分かりました。そちらは、お任せください」
どういう訳か黒木はルイを気に入っているらしく一つ返事で快諾してくれた。
(オセ…間に合ってくれ!)
ストラスは姿を消して清葉学園の方角へと飛ぶ。あの事務員の青年は果たして無事なのだろうか。
気配の感じた方に降り立つと、オセが学園外の裏手で複数人の男性にまさに拉致されようとしているところだった。突然何の気配もなく現れた屈強な外国人に顔を隠した男たちは慌てた。
「そいつは俺の獲物だ。汚い手で触るな」
オセを離した三人の男はすぐにストラスの方に向かってきたが一人はオセを離さなかった。三人の攻撃を掻い潜りオセの方に近づく。が、ストラスの目の前で男は突然オセの腹にナイフを突き立てた。口を封じられたオセから、くぐもった声が上がる。覆面の奥で目が笑ったのを見たストラスは激怒した。
(こいつ…楽しんでいやがる)
男を突き飛ばしナイフの突き刺さったままのオセを抱き抱えるとストラスは姿を消した。相手と無駄に戦っている暇はない。時間との勝負だと思った。
(オセ…死ぬなよ、耐えろ)
魔力を流しながらストラスは飛ぶ。腕の中でオセの命がどんどん弱ってゆく気配がした。
大急ぎで地下室に駆け込んだストラスに気付いたエストリエが床に滴る血に目を見張る。
「違う、俺じゃない、こいつだ。刺された。今すぐに儀式を行う」
ストラスは地下の魔法陣の上にオセの身体を横たえた。血の染みが広がる。彼は最初相手が誰だかよく分かっていないようだった。だが、力なく目を開けて悪魔本来の姿のストラスにようやく気付いた。
「腹のナイフを抜いたら大量に血が流れる…抜いた瞬間に儀式を行うから、少し耐えろよ。今すぐ悪魔に戻す」
「…え…?」
「状況が変わったんだ。今は黙ってろ」
部屋が暗くなり床の魔法陣が輝くのが分かった。この部屋に緊急用の魔法陣を織り込んだのは抜け目のない主だ。ストラスが行う際はアナログな手描きが主流だったが、リツの魂の回収失敗の繰り返しを経て、車内とこの地下室の床には汎用性の高い消えない魔法陣を描き瞬間に発動できるようにしていた。使用可能なのは、アルシエルとストラス、そして黒木にもその気になれば儀式を執り行える権限を与えてある。万が一の保険だった。
「まさか、こっちを使うことになるなんてな…」
この際ストラス好みではないなどとも言ってはいられない。好みなど二の次だ。ストラスは素早くナイフを引き抜き溢れ出る血を飲み始めた。飲みながら傷を塞ぐ。オセが呻いた。ストラスは血塗れになった口で舌を噛んでオセの身体にその血を直接流し込んだ。
「う…っ!」
不意に身体が痙攣しオセの体そのものの形が変わる。彼は美しい豹の姿になっていた。一瞬ストラスを見上げたが、すぐにその目は閉じてしまう。ストラスは彼の姿を縮めて猫ほどのサイズに変えた。
「小さい方が回復も早い…少し眠れ。ここは安全だから安心していい」
地下室から猫を抱いて出たストラスはミネラルウォーターを手に待っていたエストリエからそれを受け取りぐびぐびと飲んで、猫を彼女に渡した。ストラスはオセの姿に変身する。ネームプレートには瀬尾と書かれていた。オセなのに瀬尾なのかと妙な気分になる。引き出しから悪魔の気配を消す薬を出して飲んだ。
「こんなもんかな。ちょっくら清葉学園の辻褄合わせに行ってくるわ」
「ちょっと…大丈夫なの?」
不安そうなエストリエの肩を抱いてストラスは唇を重ねた。僅かに血の味がしてエストリエは顔をしかめた。
「あんまり…美味しくないわ…何だか獣っぽさが強くて好きじゃない…」
「文句が多いなぁ。俺なら大丈夫だ。オセをよろしく頼む」
ストラスはそう言い残すと姿を消した。
***
どのくらい眠っていたのか、オセは目を覚ました。間近に添い寝している栗色の髪の若い女性がいて、何が起こったのか訳が分からなくなった。
「うわぁ!すっ…すみません!」
慌てて飛び起きるとブランケットがずり落ちて自分が全裸なのに気付き更に彼は慌てた。何かとんでもない事をしでかしたのではないかと青ざめる。目をこすりながら女性はオセの方を見た。淡いピンク色の不思議な瞳だった。ブランケットで咄嗟に身体を隠した相手を見て彼女は小さな笑い声を立てた。
「大丈夫よ、そんなに驚かないで。私はストラスの妻のエストリエ。彼にあなたのことを頼まれたから少し魔力を分け与えていただけ。それ以上のことは何もしてないわ」
オセはそれを聞いてハッと思い出す。自分は刺されて死にそうになったのだった。腹を見下ろすと生々しい傷跡が残っていた。だが塞がっている。身体の内側はまだ傷むが、少なくとも死の恐怖とはほど遠かった。
「あなた、悪魔の身体に戻ったばかりだから私からあまり長い間離れない方がいいわよ。ちょっと待ってね。着るものを取ってきてあげる」
エストリエはどこかに消え、程なくしてバスローブを持って現れた。
「とりあえず羽織っておいて。ないよりはマシでしょ」
オセがバスローブを着ていると、ただいまーと声が聞こえて、黒木と共にルイが帰ってきた。手洗いとうがいの音が聞こえてリビングに入ってきたルイは、バスローブ姿のオセに目を丸くした。
「あれっ?えっと…清葉学園の事務の方…ですよね?どうしてここに?」
「私も何が何だか分からないんだけど、襲われたみたいよ?儀式をしないと死ぬレベルだったから、ストラスが攫ってきて悪魔に変えて、彼はまた出掛けたわ」
「うわぁ…最近物騒な事件多いよね。転生者殺害事件。さっきも速報でまた五区で事件だって…ん?五区って言えば…清葉学園も五区だよね。これって偶然?」
ルイがスマホを見ながら眉をひそめる。
「ルイ、新しい学校はどうだったの?」
冷蔵庫を覗きながらエストリエが言うと、ルイも中を覗きながら笑った。
「うん、新しい友だちもできたし、スタートは好調だよ。とりあえず伊集院家の三男だって思っている奴もいない感じ…」
「オセくんも、一緒にチョコレートプリン食べる?何かお腹に入れてエネルギー補給もした方がいいわよ?」
エストリエに言われてオセは頷いた。三人でオセを真ん中にしてソファーに仲良く並んで座りチョコレートプリンを食べ始める。つい先ほど死にかけたのに、暢気に何をしているのだろう、と彼は思ったが死ななくて良かったと心底思った。それに一口入れると今まで食べたどのチョコレートプリンよりも濃厚で美味しく感じられた。
「皆さま、珈琲はいかがですか?」
黒木が姿を現す。突然現れた初老の執事にオセは驚く。執事を実際に見るのは初めてだった。
「ありがとう!いただくわ。みんなも飲むでしょ?」
エストリエが嬉しそうに微笑む。
「おや…お客さまは…歴史に名のある悪魔でございましたか。ご挨拶もせずに失礼を致しました。私は当家の執事で使い魔をやっております黒木と申します。以後お見知りおきを」
黒木はオセに一礼して珈琲の準備を始めた。
「オセくんって有名な悪魔なの?ごめんなさいね。私異世界の吸血鬼から最近悪魔に変えてもらったばかりだからよく知らなくて。今は魔界の時空管理官をやってるのよ。ルイも私より少し前に悪魔になったわ。この家は言ってみれば悪魔の巣窟ね…」
とてもそんな風には見えない穏やかなリビングだが、やがて誰かが帰宅する気配がした。
「ただいま」
何やら少し薄汚れたストラスは笑ってオセに言う。
「悪い、体調不良ってことで早退してきたから、明日以降もしばらく休んでおいてくれ。ひょっとすると、状況次第によってはこのまま仕事も辞めることになるかもしれない。ちょっとシャワー浴びてくるわ」
二、三歩踏み出したストラスは、言い忘れていたと言わんばかりにこちらを振り返った。
「あー地下室には来るなよ。儀式部屋の隣にもう一つ小部屋があるんだが、そこに一匹捕まえてきて閉じ込めてあるから。異世界の悪魔ってのは雑だねぇ。差し込みすらしてないから、攫ったところで元からいないもんは苦情の入れようもない。オセを刺した分、たーっぷりと拷問してやるつもりだからな。あ、シャワーはその後でいいか。どうせ汚れるもんな。ちなみに俺、今こう見えてめっちゃ怒ってるから、手加減できるかビミョーだわ」
ニヤリと笑ったストラスは引き出しをゴソゴソと漁っていたが、やがて工具一式を取り出した。箱の中を確認して顔を上げる。
「なぁオセ、歯と爪と、無くすならどっちが嫌だ?」
「は…??」
「歯ね、りょーかい」
「えっ!?あのっ…!」
いや、そういう意味で言った訳ではないとオセは慌てたが、すでにストラスの姿は消えていた。プリンをすくう手を止めて固まっているオセとルイに向かってエストリエがため息混じりに言った。
「もう、せっかく美味しいプリンを食べてたのに。気にしなくて大丈夫よ。悪魔なんてどうせ何回歯を抜かれてもまたすぐに生えてくるんだから」
そういう問題でもない、とオセは慌てる。が、ルイはプリンを口に入れると、何かを考えながら、ふーんと言った。
「え?じゃあ過去に治療した虫歯も抜いちゃえば、新しい綺麗な歯になるってこと?」
「まぁ、そうね」
「えーいいこと聞いた!じゃあ今度ストラスに抜いてもらおっと!」
オセは悪魔の巣窟とは思えない穏やかなリビングだと思った自分の考えが甘かったことを認識した。それにルイも何やら考え方がおかしな方向に傾いている。そうして元悪魔の自分にも少しずつ甦り始めた記憶がある。今でこそ拷問などという言葉に怯えて非人道的だと思ったりもしているが、そのうち自分もそんな風には感じなくなるような予感すらしていた。何故ずっと忘れていたのだろう。自分が長い間ぼんやりした状態にあったことを、オセはようやく実感した。そんな状態の中、襲われたことに対して次第に腹が立ってきてもいた。そうしてストラスがオセを刺した分、たっぷりと拷問してやると言ってくれたことに密かな喜びを感じた自分にはゾッとした。ゾッとしながらもそれが己の本来の性質なのだと心のどこかでは理解し始めてもいた。
(確かに…僕は…悪魔だ…)
オセはチョコレートプリンを口に入れてゆっくりと舌で潰しながら、長めに味わった。甘くて苦いそれは心なしか背徳的な味がした。




