ジーン&リツの場合 37
幾つか注意喚起ついでに聞き込みをして警視庁の転生者対策本部に戻った五十嵐警部はポケットのティッシュをゴミ箱に放り込もうとして、不意にその端にいつの間にか文字が浮き出ていることに気付いた。受け取った際にはこんなアルファベットと数字は絶対に並んでなどいなかった。咄嗟に写真を撮ってティッシュ本体は丸めてゴミ箱に放り込んだ。パソコンを立ち上げて検索をかけると、何やら黒い画面に青白い文字が浮かび上がり、周囲にはまるで血液の如き赤い色が飛び散った気味の悪いサイトに接続された。
(天使と悪魔の饗宴…?この世を憂う転生者を救済します…だ?)
内容を見るとどうやら札付き転生者の集うSNSのようだった。契約パートナーを募集する書き込みもある。だがその更に先を見るにはログインが必要で、何となく彼はパソコン画面を閉じて自身のスマホを取り出してアカウントを取得した。
「先輩、彼女っすか?」
「おわっ!」
後ろから巡査の井上に突然声をかけられて、彼は危うくスマホを落としそうなる。井上は気紛れな猫のような男だ。それでいて憎めない。強面の自分にも平気で懐いてくる。
「違うわ!」
「またまたぁ…ところで樋口巡査部長とはどうなんです?そろそろ破局してくれません?また先輩と組みたいっすよ。菊っちゃんは細かくて疲れるっす…」
井上はココアを飲みながら言った。井上は甘党だ。
「お前と組むと車内が甘ったるい匂いになるから無理だ」
「えぇ?樋口先輩だって甘くていい匂いがするでしょ?」
井上の言葉に五十嵐警部は嫌な顔をする。
「お前、セクハラだぞ?その発言は」
呆れて五十嵐警部が言ったとき、菊池警部補が戻ってきた。
「こら井上、さっさと始末書を提出しろと言ってるだろ」
「うわぁ!」
井上が慌ててデスクに戻る。五十嵐警部はその背中を見てため息をついた。
***
「おい、昼飯食いに行くぞ」
時計を見て雑務を片付けていた樋口巡査部長に声を掛けると相手はニッと笑って頷いた。
「えぇ?俺は?」
井上が恨めしげな視線を送ってくる。
「井上くん、悪いけど五十嵐警部は今は私の相棒だからダメ」
意味深に微笑んだ樋口巡査部長は井上に手を振り、そのまま二人は外に出た。駅からほど近い定食屋に入る。お腹を空かせていたらしく、樋口巡査部長はランチ定食のご飯を大盛りにした。
「で?何ですか?」
ランチに誘われるときは何か聞きたいことがあるのだと彼女は分かっていた。それはそれでちょっぴり残念だと思う自分がいるが、そんな事はおくびにも出さない。
「これだよ…これ」
早速スマホの画面を見せられて、樋口巡査部長は思わず嫌な顔をした。
「…食事前に見るものではなさそうなんですけど…どこからこれに行き着いたんです?また一課の案件に首を突っ込む気ですか?捜査本部に任せておけばいいんですよ。転対に用があれば嫌でも呼び出されるんですから。今朝のだって…個人的には正直賛同できません」
口ではそう言いながらも彼女はスマホを素早く操作して目を走らせている。
「…神は見捨てない…?神って何なんです?ここの連中はちょっと危ない思考の持ち主なんですかね。ざっと見たところ、例の事件を神聖視する意見まであって不気味ですね。魂は解放された?私は札付き転生者じゃないので、正直なところ理解できません。それこそ例の会社の社員にでも話を聞けば、多少は分かるんじゃないですかね」
「転生者の樋口にだって分からないのに、転対以外の奴がどこまで事件を理解できるって言うんだよ…だから例の会社に顔を出したりして、少しでも理解しようとしてるんじゃないか」
「理解理解って…本当にそれ、必要ですか?はっきり言って、理解しようとするあまり余計なことに首を突っ込んで相棒を失う方が私は懲り懲りなんですけど」
樋口巡査部長はじっと五十嵐警部を見つめた。話題がまずい方に転がったと、五十嵐警部は目を逸らす。事件に深入りし過ぎて転生者に刺殺された同僚の顔が過った。事件以降彼女はクールになったと思う。冷たいと言ってもいいほどに。
「はい、お待ち!ランチ定食だよ。こっちが大盛り」
大盛りの方を五十嵐警部の方に置こうとしたので、彼は樋口巡査部長の方に手を向ける。男尊女卑と今もいうが男なら山盛り食べるかと言ったら決してそうではない。この見た目だし仕方がないとは思うが納得いかないこともあった。
「先輩は少食ですよね。いただきます!」
いつものように樋口巡査部長は小気味よい食べっぷりだ。みそ汁を飲んだ五十嵐警部は、ふぅと思わず息を吐いて、自分がやたらとおっさんくさい反応をしてしまったことに再びため息をつく。歳は取りたくないものだ。年々若者が理解不能になる。
「幸せが逃げますよ?」
そんな五十嵐警部を見て樋口巡査部長は小さく笑った。
***
その頃、セラヴィ株式会社ではちょっとした騒ぎが起こっていた。というのも社員の一人が任意同行を求められて連行されたからだった。
ランチを食べながら皆その話題で持ちきりになっていて、いつにも増して食堂内はざわめきが止まらなかった。
「入社したばかりなんでしょ?いったい何をやらかしたの?」
「さぁ。でもあの子の雰囲気…ちょっと怖いっていうか、不気味だったよね」
「それを言うなら暮林さんだって…」
「常務はあれで…平気なのか?俺なら無理だわ」
「お前、それは向こうからお断りだって言われるよ。みんな結婚できないからって何言ってんだか」
リツはしばらくしてようやく任意同行されたのが成瀬恭也だと分かったが、ちらりと食堂を覗いたジーンはあまりの騒々しさに入るのを止めてリツを連れて会社を出た。しかも話題はリツにまで飛び火している。聞かせたくなかった。誰も座らない隅の席にやってきたリツのことを不意に思い出す。その孤独とそれでも揺るがない芯の強さ。もう二度と一人にしないと心に決めた。少し歩いて雑居ビルに入る。小洒落た木の扉を開けると、どういう訳か中は見覚えのある喫茶楽園だった。だが無論ここは三十二区ではない。リツはぽかんとしていた。
「いらっしゃい…って、なんだ。旦那もいるのかい…」
ガブリエルがどこか不本意そうに言う。
「え…?どうなってるの?」
リツは目をぱちぱちさせた。
「まぁ、ちょっとした魔術だよ。空間を切って繋いで…ちょちょいのちょいと、リツの旦那がやってくれた訳で都心のオシャレな場所にも出店できたって訳。本日のオススメはマグロ丼定食だよ。あとは、カレーか唐揚げ定食」
ガブリエルの言葉にリツとジーンはマグロ丼定食を選んだ。ジーンはその間にどこかに電話をかける。えぇ、はい、よろしくお願いしますなどと話していたが、やがて通話を終わらせると、リツの頭を撫でて引き寄せごく自然に唇を重ねた。
「…まだ残っているな…」
マグロ丼定食を両手に現れたガブリエルはちょうどそれを目撃してしまい、肩をすくめて二人の前に静かにトレーを置く。口付けに没頭していた二人はその音にようやく唇を離した。
「ったく。たまに勘の悪い一般客も迷い込んで来るんだから…何も真っ昼間からそんなに見せつけなくたって」
リツは慌てて身体ごと離れようとしたがジーンの腕は離してくれなかった。それどころか下腹部に掌が触れゆっくりと撫でられ始めた。
「昼間どころか朝からオフィスでも貪るのが悪魔の流儀だ。それはそうと、これについて君はどの程度把握している?」
タブレットをガブリエルに向けて渡すと、ジーンはようやく手を離して両手を合わせた。リツも慌てて同じ動作をする。
「いただきます」
二人の声にガブリエルは意外なものを見るような視線を送ったがタブレットに目をやり眉をひそめて押し黙った。
「…この件に関しては…僕は口は挟まないよ。向こうが何を考えているのか…僕には理解不能だ」
「それを、仮に君の元同僚がけしかけていたとしてもか?」
ジーンは意地の悪い声色で告げると、付け合わせのおひたしを口に入れる。だしが効いていて上品な味付けだった。この胡散臭い見た目からは想像もつかない。仮にこの世界で失業したらなら王宮のコックとして採用したいほどの腕前だと思った。
「君が口を挟まないなら、私はこの知りうる情報を警察に売ることもできるが…本当にそれでいいのか?」
ジーンはマグロ丼にわさび醤油を回し入れる。
「天使だって皆が皆知り合いな訳じゃないさ。それは堕天使もまた然り。彼らがどこまで事件に関わっているのかは、僕にだって分からないよ」
ガブリエルは口をへの字に曲げた。
「それと、最近異世界の悪魔らしき数人にうちの社長が襲撃されてね。裏で誰かが糸を引いていて何か知っているなら、情報を提供してもらおうと思ったんだ…」
美味しそうにマグロ丼を食べる相手は気軽な世間話のように実に物騒な内容を口にする。一方、隣のリツは黙々とけれども、とても美味しそうにマグロ丼を食べていた。美味しそうに何かを食べる光景を見るのは好きだとガブリエルは思う。平和な食事風景は心を和ませる。
「あぁ…異世界の悪魔…それで合点がいったよ。妙に話の通じない悪魔に僕も襲われたんだ。魔王を探してる…?だったかな。なんだかヤバい雰囲気だったし殺る気満々だった。そうかぁ。社長が狙われたんだ。社長も君も魔王と見做すには十分な魔力量だから、気をつけた方がいいね。リツだって…君の気配がそれだけ濃厚にまとわりついてるから…危ないよ?」
ガブリエルは暢気に言って、ビンのコーラを開けて飲み始めた。リツは驚いて味噌汁から口を離す。
「え?そんなことで…狙われたりするの?」
「当たり前だよ。魔王とその妻…腹に宿る子に至るまで根絶やしにしたいって、玉座を巡る争いはその手順を踏むのが定石だろう。もしくは妻を攫って凌辱してやろうとかね。リツ、もう少し危機感を持つべきだと思うよ?」
「あまり…リツを脅すな。リツは私が守る」
「まぁ…君が守ると言ったら絶対なんだろうけど、リツだって僕にとっては大切な元部下だから、協力出来ることはするよ?天使と悪魔の饗宴…といこうじゃないか。現実の饗宴は実に平和だけどね。君はマグロ丼を食べて僕はコーラを飲んでいる。無駄な血も流れない」
「そういうことなら、一つ頼まれてくれないか?場合によっては、その仕事の間はこちらがルイの弟を預かっていてもいい」
「なるほど。で?」
二人はいつの間にか話の通じる相手になったらしい。リツはこんなにおかしな光景を見ることになった自分自身に笑いそうになった。笑わないと不安だったというのもある。異世界の悪魔は得体が知れず怖かった。守られるだけではなく自分も戦える力を磨きたい、不意にそんな思いが過った。




