五十嵐警部と樋口巡査部長の場合
「さて、この中でおかしな点はどこだと思う?」
常務室に戻ったリツはジーンの膝の上に乗せられて思わせぶりな掌で触れられながらそう質問された。いったいどこからこんな画像を拾ってきたのか皆目見当もつかないが、間違いなく七区の殺害現場だと思った。凄惨な画像なのに、むしろ凄惨過ぎるせいか、よくできた偽物のように見える。まるで現実味がなかった。不意に下腹部に掌が触れる。
「ジーンっ…集中できない…」
片手でジーンの手を避けようとしたが失敗する。
「早く見つけないと、ボタンを一つずつ外してゆくぞ?」
言った端からすでにお腹の辺りのブラウスのボタンを外された。すき間から指が入り込む。
「待って…ま、魔法陣が…デタラメ…」
「…正解。悪魔は間違ってもこんな滅茶苦茶な魔法陣は描かない。沽券に関わる。他には?」
次のボタンに指先がかかる。
「あ…えっ…?やたらと…きれいに…開かれてる…?」
「そうだな、切り口にためらいがない。まるでメスを持ち慣れた医者のような…だからあの警部に目をつけられたのかもしれないな。経歴がマズかった…」
画像と同じ身体の場所にジーンの指先が走る。リツは思わず自分が切り開かれるところを想像して鳥肌を立てた。魔法陣に横たえられて皮膚をめくられる。筋繊維を断ち切られて内臓をさらけ出す自分の姿を想像した。
「リツは中身も…きっと美しい…」
耳元で囁かれて思わず目を閉じる。この悪魔なら造作もなく行えるだろうとも思った。
「まぁ、私がやるならもっと芸術的に美しく切り開くが。赤い花が咲くように…他には?」
「分からないよっ…ただ…蜘蛛の巣に絡め取られた…蝶みたいにも…見える…」
「なるほど。その視点はなかったな。細部を見過ぎて全体像の把握を怠ってはいけないな…事件の全貌もまた然り…」
こんな画像を見ながらジーンは赤いハートの形をしたチョコレートを口に入れる。リツの口にも一つつまんで近付けた。
「これは悪魔のチョコレートじゃない。そう警戒するな」
凄惨な画像を閉じてジーンはリツの口にチョコレートを含ませた。思ったよりもビターだと思ったら中から甘いキャラメル風味のヌガーが出てきた。
「なに、面倒なことになったら魔界に戻ってしまえばいい」
ジーンの唇が重なると僅かなスパイスの味が広がった。キャラメルとも合う。思わず目を閉じて味わっているとジーンが告げた。
「これもまた恋人同士で食べるチョコレートだ。二人のチョコレートが混ざっても美味しければ相性がいいと言われている…リツのは甘いな…」
「…副作用は?」
「そんなものはない…いたって普通のチョコレートだ」
ジーンは微笑むと再び口付けを始めた。痺れるような心地よさに意識が飛びそうになる。
「し…仕事…」
「大丈夫だ…私は有能だからな…」
傲慢な台詞をつぶやいた悪魔はリツを見つめて優しく髪を撫でると、再びブラウスのボタンに長い指をかけた。
***
一方、地下の駐車場に戻った五十嵐警部は運転席に乗り込んだ。助手席を倒してブランケットにくるまって目を閉じていた相手に視線を送る。
「戻ったぞ…おい、大丈夫か?いつにも増して顔色が悪いな…」
丸まった相手こと巡査部長の樋口冴夏は五十嵐警部のいわゆる相棒だった。彼女もまた転生者だ。札付きではないが時折現れる無希望転生者である。何らかの事件に巻き込まれたかで、元の世界に戻れなくなり記憶を失くした者だ。そうして無希望転生者は希望転生者とも札付き転生者とも大概相性が良くない。ここのように札付き転生者が多く働く職場に顔を出そうものなら嫌な顔をされるに決まっていることを彼女自身もよく分かっていたので、実質毎回車中待機を余儀なくされていた。
「ホラよ」
五十嵐警部はポケットからティッシュに包まれたチョコレートを一粒取り出す。
「疲れたら食えと毎回渡される。お前ならこれを食ったってよく眠れるだろ?…ったく、この車に誰が乗っているのか分かってるみたいで気味が悪いったらありゃしねぇ」
だったらそんな場所に行かなきゃいいのに、と彼女は内心思ったが有り難くチョコレートは口に放り込む。途端に中から魔力が溢れ出す。初めてこのチョコレートを五十嵐警部が食べた時は興奮したのか一晩中眠れなくなったと聞いた。彼には魔力が強過ぎたらしい。本来は受け取ってはいけないのも重々承知だが、暗黙の了解で食べて証拠隠滅を図っている。包み紙がないのも意味深だ。警部の情報によれば社長はいつもこれを何の記名もないガラス瓶から取り出して食べているらしい。
「で、お目当ての彼はどうでしたか?」
チョコレートをもぐもぐしながら黒目がちのリスのような顔付きで樋口巡査部長がこちらを見上げてくる。まるで子どもじみた見た目だが、これでも三十手前のはずだった。ちょっとした化け物だ。そんなこんなで組んでも相手からは敬遠され結局、五十嵐警部に押し付けられて今に至る。
「あぁ…やたらとペラペラ日本語を操る超イケメンだったな。俳優でもやった方が儲かりそうだ」
「ふぅん。彼も転生者…なんですか?」
「…そこなんだよなぁ。記録上そうなってはいない。が、社長も含めてあの連中は妙な気配を漂わせてるんだよな。社長に至っては札付き転生者がエリートまで出世したと世間じゃ騒がれてるが、どうもそんな雰囲気とは違うんだよな。興味本位で神木蒼士の経歴を調べたが行き詰まった。藪をつついてなんとやら、だ。下手なマル暴よりおっかねぇ」
「怖いもの知らずのその顔でよく言いますよ。あぁ…それにしても美味しいですね。このチョコレートは。お陰で目が覚めました」
のそのそとブランケットから出てきて伸びをした樋口巡査部長は、魔力に満たされたのか急に顔色が良くなっていた。
「警部はこれ単なるおやつってくらいに思ってるでしょうけど、一粒いくらだか知ってます?ネットで類似品がないか色々と調べてみたんですけど…それが、該当しないんですよね。いったいどこから仕入れているのやら。一本五万の魔力回復薬よりも効くんですよ…こうなってくると値段なんか知らない方がいいですね」
彼女はそう言うとコケティッシュな笑みを浮かべてペロリと唇を舐めた。訳もなく五十嵐警部はドキリとする。
「その辺の男と寝るよりもパフォーマンスも上がるし、無希望転生者でも雇ってくれるなら、いっそのこと転職したいくらいですよ」
再び五十嵐警部を試すような台詞を平気で口にして樋口巡査部長はシートを元に戻した。
「どうしたんですか?次行きますよ!ほら」
タブレットを取り出して何やら入力し始めた彼女を横目に五十嵐警部はひっそりとため息をついた。どこまでが本当の噂かは知らないが、樋口巡査部長がすぐに相棒とうまくいかなくなるのは、魔力を補うついでに身体の相性を試すからだと聞いたことがある。幸か不幸か五十嵐警部にまだその機会は訪れてはいない。だが。
(そんなものはこの先だってある訳はねぇんだよ。根も葉もない噂だ噂!)
五十嵐警部は駐車場から車を出しながら心の中で独りごちた。そんな五十嵐警部を樋口巡査部長が横目でちらりと見てひっそりと微笑んだことに彼は気付いてもいなかった。




