ジーン&ストラスの場合
ようやくストラスが妥協できる程度までにエストリエの傷は回復した。再びリビングに戻ると、いつの間にかイチカの姿は消えていた。社長の膝の上には猫になった宮森が乗って丸くなって眠っている。一方ジーンの膝の上のリツは気怠そうな様子だったが、目を開けていた。
「イチカは二階で眠ってる…というか眠ってもらった。しばらくは起きない。いったい何があったのか詳しく話してほしい」
ジーンがエストリエを見て告げる。少し怒っているようにも見えた。エストリエは小さく頷いた。
ルイが友だちを連れて帰宅した頃、エストリエは何気なく窓の外を見ていたが不意に妙な気配を感じた。気になってカーテンのすき間から外を窺う。住宅街をうろうろしている気配は悪魔にも似ていた。ふと同じようにレースのカーテン越しに窓の外に厳しい視線を向けているジーンの姿に気付く。
「我が君…あれは…?」
「あぁ…銀の枝の手の者だな。少し泳がせておけ。この家の中にいる限りは安全だ。少々私は屋上の守りを強化してくる」
ジーンはそのまま三階に向かう階段を上り姿を消した。エストリエが更に様子を窺っているとイチカが現れたので、エストリエは慌てて窓際から離れて言った。
「社長と一緒にいて」
ところがイチカは首を横に振った。
「ソウシは…秘書と一緒に急に外に出て行っちゃって…」
「えっ!?そうなの?じゃあ私もちょっと出掛けるから留守番していてくれる?イチカは外には絶対に出ないでね」
慌ててエストリエは社長と秘書を追いかけようとした。だが二キロ以内の悪魔の気配を探ると、複数の悪魔に似た気配を検知してギョッとした。
「私が駆け付けたとき…すでに社長と秘書は囲まれていて、複数人と戦っていました」
「住宅街だから、他の住人にバレないように咄嗟に空間を閉じたんだけど…四人が予想以上に手強かったんだよね…」
社長は苦笑する。社長を庇った宮森が負傷した。宮森は黒豹の姿になって戦っていた。そのときになって初めてエストリエは宮森は黒豹の姿の方がオリジナルなのだと分かった。人間の姿にもなれるが、あくまで変身して人らしい形を保っていたのだと、彼が戦っている姿を見て思い知った。解放された彼は生き生きとしていた。
「咄嗟に宮森を元の姿に戻したんだけど、相手が変な気配だったんだ。悪魔のようだけど、僕の知っている悪魔とは何かが違った。僕のことをサタンと呼んで…まるで誰かと勘違いしてるみたいだった…」
「社長の方を助けようとしていたら、横から突然、最初に見た銀の枝の男が姿を現して…社長と戦っていた中の一人が彼をリーと呼ぶのが聞こえたんです。私は突然斬りつけられました」
エストリエが伸ばした爪で反撃すると相手は驚いたように飛び退った。その頬に傷がついて血が流れた。
「何だ…?悪魔…じゃないな?何者だ」
リーと呼ばれた男は頬を拭って指先についた血をベロリと舐め取った。傷をつけられたせいなのか、彼は更に好戦的な目になった。どこからともなく刃物を取り出し両手に握ると瞬時にエストリエの方に向かってきた。
「アールを渡せ。お前からはアールの匂いがする」
揉み合っているうちにエストリエは腹を刺されたが相手の頭を掴んで可能な限りの記憶を奪い取り、魔力を込めて渾身の力で蹴飛ばした。吹き飛んだ相手はふらふらと立ち上がる。一瞬エストリエを睨んだが、頭を押さえると急に戦意を失った様子でエストリエに背を向けた。エストリエは彼の記憶を改ざんすることに成功したのが分かった。アールはここにはいない、エストリエは瞬時に偽の記憶を流した。社長と戦っていた四人は宮森がほぼ始末したが、最後の一人は取り逃がしてしまった。リーと呼ばれた男と共に彼はあっという間に姿を消した。エストリエは奪い取った記憶を主に渡したが、彼はそれを読み取ると眉をひそめた。
「なるほど…サタンか…。それはまた別の魔界の魔王の名だと聞いたことがある。リー自身も我々とは異なる世界の悪魔の可能性が高いな。問題は銀の枝だからイチカを追ってきたのか、異世界の魔王絡みでこちらを攻撃してきたのかが、この彼の記憶のみでは判然としない点だな…」
「電話応対していたときに…どこの異世界だったか…そういえば…サタンの妻はリリスだって…いう話を聞いたことがあったような…」
リツがジーンの腕の中でつぶやく。ジーンの右手はいつの間にかリツの服の中に入り込み、素肌に触れて愛撫していたが、そのことを指摘することすら諦めたように、リツはその身を相手に任せていた。リツの言葉を聞いてジーンは意外そうな顔をした。
「仕事中に…そんな話をしてくる相手がいるのか?」
ジーンは呆れたような表情でリツを見る。
「…一定数…謎の知識を…ひけらかしてくる人っているよ…悪魔学に詳しい人とか…特定の宗教の話をしてくる人も…その世界には神様がいる…というか、神は存在するって信じている信仰の厚い人たちがいるみたい。心の拠り所がないって、どんな感じですか?って逆に訊かれちゃって返答に困ったもの」
リツは身動ぎしてジーンの方を物言いたげに見つめたが、ジーンはそれでも触れるのを止めなかった。
「仮に異世界の魔界までが関わってくるとなると、ちょっと厄介ですね。そうでなくとも戻ったら一揉めしそうな雲行きなのに」
ストラスは腕を組む。社長も宮森の背中を撫でながら、ため息をついた。
「…あえて関わりを持つことでこちらの足を掬う気なのか、たまたま異世界の悪魔もこの世界で生き残るために手を組んだだけなのか…いずれにしても用心するに越したことはないな。ストラス…何か他にも言いたいことがあるんだろう?」
ジーンがストラスとエストリエの顔を交互に見る。ストラスは思わず咳払いをした。実は先ほどから主の手の動きが気になって仕方がなかった。涼しい顔をしていったいどこを触っているのか。間違いなくそこは胸だ。
「あぁ…はい。これを機に…エストリエを悪魔にしようと…思うんですが」
ジーンはストラスの顔を見て深く頷いた。
「いいだろう。むしろ、ようやく今かと言いたいところだが、儀式を行うなら早めに済ませた方がいい。身体を慣らすにも時間がかかるからな。地下室を使うか?」
ジーンの言葉にストラスは神妙な顔で頷く。
「それでは早速行ってきます。あ、もちろん同行は不要ですよ。今回は本来の悪魔らしく儀式を執り行うつもりなので、どうぞ気にせずごゆっくり」
ストラスはニヤッと笑うと、傍らのエストリエの肩を抱いて地下室の階段に繋がる廊下へと消えて行った。




