ジーン&リツの場合 32
屋上の庭園は少し背の高い葉の密集した木々が目隠しとなって周りからは見えないような作りになっていた。緑と少し赤みがかった葉の二種類が植えられている。他にも地面には様々な背の低い種類のグリーンが植えられていて、ここが屋上だということを忘れてしまいそうだったが、イチカはそれが何の植物なのかも全く分からなかった。ただ綺麗だなと思う。
「目隠しの高い木はトキワマンサクでございますよ。春にもなれば濃いピンクと白の花が満開になります」
イチカの視線に気付いたのか黒木がさりげなく教えてくれた。
「俺…一つの花って書いてイチカって名前なのに、花なんてチューリップと桜くらいしか知らねぇんだよな」
イチカは苦笑しながら温かいスープを飲む。こんな風にお洒落な場所で朝食を食べることなど無縁だと思っていた。昨日の朝も魔力は満たされても心が空っぽになったような気分で、あちこち痛くて重い身体を引きずりながら部屋を出ていた。朝日に照らされる前に姿を消して午前中は自分のスペースでひたすら死んだように眠る、そんな繰り返しが続くと思っていた。空を見上げる。よく晴れていて青かった。こんなに朝の空気が清々しいものだとは知らなかった。
不意に隣から手が伸びてきて頬を拭われる。イチカは泣いていることにも気付いていなかった。
「あれ…?」
「イチカ、大丈夫?」
長い黒髪の青年が言ってイチカの涙を拭いた。蒼士はそのままイチカの隣に椅子を寄せて肩を抱いた。
「あれっ?なんで泣いてるんだ?自分でも…分からないなんて…変だよな…」
「いいのいいの、そういう日だってあるから。泣きたいだけ泣けばいいよ」
蒼士は言いながらイチカの頭を撫でる。そのとき屋上に繋がる扉が開いて、猫を抱いたリツとやや不満気な顔付きのジーンが姿を現した。
「社長…妻が見つかって浮かれているのは結構ですが、使い魔が車庫でいじけてましたよ」
リツの腕の中の猫はニャーと明らかに不服そうな鳴き声を上げた。
「わっ!ごめんごめん!そうだ、昨日から姿を見てないと思ったら、宮森!!」
リツの腕の中でニャアニャアと声を上げた宮森はそこから離れない。宮森はリツの腕の中で三歳児くらいの大きさの猫耳の男子になった。
「もういいですっ!僕は暮林さんの使い魔にでもしてもらいますから!」
「えっ?ちょっと…宮森さん?」
言いながらも拗ねた猫耳の男子があまりに可愛らしいので思わずリツは頬が緩んでしまった。
「えー!?ちょっと誰だか知らないけど、僕がリツの使い魔になるんだからね!」
パンを食べるのを止めたルイが突然猫の姿に変わってリツ目掛けて走ってくる。途中で少し大きくなって立ち上がり、小学生程度のサイズの猫耳の少年姿になった。その姿でリツに抱きつく。
「おおっ!?ルイ、とうとうやったな。しかもハイレベルなやつ。この世界には存在しないだろ猫耳少年」
ストラスは面白そうに笑っている。ルイはリツの腕から三歳児を奪い取った。
「なんだ君がルイか!随分と可愛いじゃないか。なんだよ反則だろう。元々が金髪碧眼なんて」
三歳児姿の宮森がルイの顔を見て文句を言う。ルイは構わずに首を傾げてリツを見上げた。
「どう?猫耳」
「どうもなにも…その姿も可愛いよ」
「おいおい…二人とも何なんだ。リツはそんなに猫耳が好きなのか?モフりたいのか?」
ジーンはライラの姿に変わって突然猫耳を生やした。ついでに尻尾も生やして、お尻をリツの方に突き出して尻尾を揺らした。
「わぁぁ、ちょっとジーンまで何やってるの?可愛いけど…そういうことじゃない!」
リツは猫耳の三人にじゃれつかれて悲鳴を上げた。あまりの光景にイチカは涙まで引っ込んでしまった。
「ねぇ…ライラ…じゃなかった、あのジーンって人って本当に今は国王陛下なのか?」
イチカがやや呆れたようにリツに群がる三人を見る。そうして言った。
「なんか魔界って俺の想像よりも平和なとこなのか?猫耳のライラの姿で玉座に座ってみてほしいや」
うっかり想像してしまったエストリエは小さく吹き出した。
「それじゃ陛下の威厳も何もあったもんじゃないでしょう…」
「主!スープが冷めますよ」
まるで猫そのもののようにシャーシャー言いながら威嚇し合っている三人を見てストラスは笑いながら声をかけた。
***
その後、社長と宮森は無事に和解し、宮森はいつもの冷たい顔付きの秘書に戻った。落差が激しい。だが猫耳三歳児姿の宮森は絶対に会社のファンに見せてはいけないとリツは思った。
「銀の枝に送金を頼むよ」
社長は早速手続きを始める。予め手切れ金は調べがついているようだった。
「他にもプラスして恩を売るくらいにしておいた方がいい。アールは影の女主人に気に入られているようだったからな」
ジーンが告げると、イチカは僅かに眉をひそめた。
「…あれは魔力切れを防ぐのに仕方なくやってただけだからな」
「君にとってはそうだったかもしれないが、彼女にとっては果たして本当にそれだけの行為だったのかな…?」
「…気持ち悪いこと言うなよ」
イチカは眉間にしわを寄せて思わず口を押さえた。
「どっちにしても、もうイチカは僕とパートナー契約を結んでしまったからね。銀の枝よりも施設の方が慌てふためいてるかもしれないね。僕が余計なことを喋ってしまわないかって」
社長は半分悪魔の姿のままニヤリと笑う。その姿で笑うと妙に迫力があって、確かに魔王だったのかもしれない、とリツは変なところで感心する。
「そうそう、週明けからルイは登校を開始するから、ストラスには一応周囲には気をつけてもらうつもりよ。マスコミもさすがにそろそろ諦めた頃だとは思うけど…土日はともかく…イチカの方は大丈夫かしら?万が一に備えて私が一緒にいた方がいい?」
エストリエの言葉にイチカはルイの顔を見て不思議そうな顔をした。
「なに?ルイって有名人かなんかな訳?」
「いや…僕がってより、養子縁組してた親が世間を騒がせて、僕は警察に保護された方」
「ん…?あ?なんかバイトしてた時その話聞いたぞ?あれだろ?伊集院家の闇だかなんだかって最近めちゃくちゃ騒がれてた事件…え?ルイってその関係者だったのか?」
途端にイチカは困ったような表情になった。虐待の文字を思い出したからだった。他にも養子の子どもたちについても嘘か本当か分からない嫌な内容が拡散されていた。
「何か…わりぃ…今、世間の無神経な奴らと同じこと言ったよな俺」
「大丈夫だよ。僕が年上の男性が好きなのも本当の話だし、親切な誰かが事細かに記者に売った話も半分くらいは本当。僕は感覚が狂ってる。それは認めるよ。僕はきっとイチカの真逆なんだよね。誰かに抱いて貰わないと安心できなくて気分が悪くなる。タチが悪いからストラスを困らせてる」
そう言うルイの肩にストラスが手を置いた。ポンポンと軽く叩く。カウンセラーが栗林夫妻にも接触してきた。だがルイ本人が会いたくないと拒絶した。
「それでも、今は前ほどじゃないだろ。キスとハグでなんとかなってる。それとも無理してんのか?ならちゃんと言えよ?我慢するな」
ストラスの言葉にルイは困ったように笑う。
「無理してないよ。でもやっぱり何となくエストリエに悪いなって思う…」
エストリエはルイを見ると事も無げに言った。
「私はあなたの血を貰ってるんだから、それは正当なルイの取り分よ。別にストラスだって嫌がってないんだからいいじゃない。むしろ役得よ。で?イチカはこれからどうするの?ちゃんとその辺の説明はしたのかしら?」
エストリエの覇気に押されて社長は思わず苦笑した。仕事熱心な上司の部下はその妻まで仕事が早そうだ。ぼんやりしているとどやされる。
「一応昨日のうちに契約の話もしたよ。とりあえず僕も魔力が復活したから、今夜あたりなら儀式もできそうだし。イチカに余計な手出しをされないうちに僕が魂を回収して契約を結ぶ。その後イチカはしばらくは会社にでも連れて行くよ。もちろん姿は変えるけど。宮森だって時々猫になるんだ。魔力が足りてるから宮森はしばらくずっと人の姿でも大丈夫そうだし、もう一匹くらい猫がいたって別に問題はないでしょ?」
社長の言葉にイチカはハッとしたように声を上げた。
「その会社にゴキブリいないよな?」
リツは思わず昨日猫の本能に支配されかかった自分を思い出す。
「会社では見たこと一度もないから大丈夫だと思うよ…」
昨日リツに何があったのか知らない面々はその会話に不思議そうな顔をした。ジーンは笑いを噛み殺すような表情を浮かべる。リツは思わず右手の掌を見つめて深いため息をついた。




