社長&アールの場合
一方で二人きりになったリビングでアールは社長にさりげなく肩を抱かれて座っていた。
(仕事でもこんなに緊張しねぇ…ちくしょう!)
アールは心の中で悪態をつく。だが明らかに隣の相手の腕から感じる魔力を懐かしいと思っているおかしな自分もいた。知らない、こんな自分は知らない。変な気分だ。
十一歳で施設を飛び出してから相手に見くびられないように乱暴な言葉を覚えて使うようになった。けれども客の前では大人しくしている。余計なことも言わない。声一つ上げずに可愛げがないとも言われた。実際は気持ちが悪くて最低限の演技をするので精一杯だった。終わったら吐くと知っていて、そのことすら愉しむ頭のおかしい客も相手にした。客が眠っている間ホテルでひたすら身体を洗い流した。それでも不快感は拭えなかった。
「この世界での…今の君の名前は?」
突然社長に訊かれてアールは答えに困った。
「仕事してるときは…今は…アール。その前はリリスだったけど。でも…それより前に…施設にいたときは…イチカって呼ばれてた…」
「僕の名前は神木蒼士。ソウシでも、ルシフェルでも君は好きなように呼んでいいよ。君はなんて呼ばれたい?」
「分からない…自分が誰なのかすら…」
「キス…してみる?でも僕が相手じゃ嫌かな?」
まだ若い社長は困ったように笑う。少し長めの黒い前髪の下の瞳は黒なのに時折紫にも見える不思議な色をしていた。
「ごめん…いや、あんたが嫌ってんじゃなくて…俺は今までどうしても金がなくなると…この身体で客取って、寝て吐いての繰り返しでさ。自分で言うのもなんだけど、サイテーな奴なんだよ。だから…」
「それはこの世界で生きるために仕方なくやってたことでしょ。君が望んだ訳じゃない。キスを試してもオッケーってことでいいのかな?リリス?アール?」
片手で顎を持ち上げられてアールはキスすら初めての少女のように自分が震えていることに、その時になってようやく気付いた。そんなのは自分らしくない。そう思っている間に整った顔が降りてきて唇が重なった。
(リリス!大好き!)
その瞬間、可愛らしい顔の少年がキラキラした眩しい笑顔で自分を見上げてそう言った記憶が蘇った。少女のように長い黒髪にアメジストのような瞳の少年が自分に抱きついていた。私だけの宝物、そう思った。
「…大丈夫?」
不安そうな瞳が目の前にある。そうだこの目だと思った。思わず反射的に頭を撫でてしまってアールは我に返る。
「ごっ、ごめんっ!なんか、少し思い出したかも…」
「吐き気はない?」
アールは頷いた。
「はぁ…良かった…まずは第一関門突破かな」
社長は微笑む。
「あのさ…もう一回…」
アールのつぶやきに彼は驚いたような顔をした。アールは僅かに赤くなった顔で社長を見上げる。
「…お願い」
「…うん、分かったけど…やっぱりそういうところは記憶がなくてもリリスだね。抗えないや」
社長は再び口付けを始める。今度は止めなかった。ひたすら二人は互いを確かめるかのように夢中で口付けを交わす。離れ離れになっていた歳月を一気に埋めるかのように二人はきつく抱きしめ合ってただただ唇を重ね続けた。
***
「ねぇ、あの子って社長の奥さんなの?」
二階ではベッドの上でルイがストラスに寄り掛かって中学校のタブレットをスライドしていた。近くのテーブルでエストリエは必要提出書類に記入をしている。今日ルイを引き取った暮林一家として、ストラスとエストリエはルイと共に都立中学校に顔を出してきたのだった。
「あーどうだろうな。記憶が読めないから俺はなんとも。でも社長なら分かるんじゃないか」
ストラスはルイのタブレットをちら見して頭を撫でた。
「真面目だねぇ。授業の進み具合を確認してるのか」
「一応ね。伊集院家は成績が悪くても反省会に上乗せされるから…勉強はちゃんとやってたよ」
「健気だねぇ…」
「でしょ」
ニヤッとルイが笑ったところでエストリエが猫のように伸びをした。
「あーやっと書き終わったわ。疲れちゃった。ルイ、ちょっといいかしら」
立ち上がったエストリエはルイの隣に座った。ルイはタブレットを離す。すぐに理解した様子だった。
「いいよー」
ルイの首にエストリエは唇を近付ける。そっと口付けを繰り返すうちにルイは首の感覚がぼんやりとして麻痺したような状態になった。ルイは目を閉じる。心地良い。その間にエストリエはルイの首を噛んで血を飲んでいた。ルイの血は何故か美味しかった。ストラスが悪魔にしたせいなのかは分からなかったが、他の悪魔の血とは全く違う味がした。エストリエは牙で刺した部分を舐めて止血する。ストラスがその傷口に魔力を注いで跡を消し去った。血を与えた後はストラスがしばらくルイに付き合う。暗黙の了解だった。エストリエは二人に向かって微笑むと静かに部屋を出る。血を飲まれて眠そうなルイをストラスは抱きしめた。少し過剰に愛撫しながら口付けをすると、ルイはすぐに蠱惑的な表情になった。悪魔になってから誘うのが上手くなったと変なところでストラスは感心する。
「ストラス…もっと」
ルイに口付けをねだられてストラスは苦笑した。
「…ったく。可愛い奴だな、ルイは」
悩むことを放棄した悪魔はルイの唇に自らの唇を重ねて魔力を流し込み始めた。
***
風呂場でのぼせそうになったリツはジーンに支えられながらようやく脱衣所から出た。どのくらい経ったのか時間の感覚も麻痺していた。
「そろそろ終わった頃か…」
ジーンが呟いてリビングを覗く。ソファーに座った社長がこちらを振り返った。
「ゲストルームの用意はできていますよ」
ジーンの声に社長は僅かに照れ臭そうな表情を浮かべた。社長の腕の中でアールは年相応のあどけない寝顔で、すやすやと眠っていた。
「君はなんでもお見通しで嫌になるな…私の導き手が、まさか十六歳の少女になってしまうなんて…」
そう言いながらも社長はどこか嬉しそうだった。
「今日は抱きしめて眠ってせいぜい妻の魂を堪能して下さいよ。だって今更離れたくはないでしょう?」
そういうジーンもリツを支えた腕を決して離さない。ジーンは社長とアールに風呂上がりのような清潔さを魔力で提供した。社長のみバスローブ姿に変えたのはあらぬ疑いを持たせないためだろう。スッキリした顔になった社長はアールを抱き上げる。ジーンは一階のゲストルームの扉を開けると、そこに常備してあるものをざっと説明した。
「…あやうく、間違った方のリリスを連れてくるところでしたよ。もう一人のリリスはスキンヘッドでした。あの資料の添付写真…間違ってましたからね」
ジーンは苦情を申し立てた。アールをそっとベッドに横たえて社長は口を開いた。
「それは悪かったね。調査員の中にもおっちょこちょいなのがいるから…それにしたって君、仕事が早過ぎない?そんなに暮林さんを充電器代わりにされるのが嫌だったの?」
ジーンは社長の言葉に沈黙した。リツはハッとしてジーンを仰ぎ見る。それで急いだのかと思った。
「社長こそどうなんですか?アールが自分の妻だと分かった後で私がベタベタ触ってもいいんですか?」
「うーん…あぁ、確かにちょっと…モヤッとはするかもね。でも多分君ほどじゃないよ」
「そうですか。まぁ今日はゆっくり休んで下さい。それと明日は手切れ金の用意が必要になると思うので…社長なら問題ないとは思いますが、念頭に置いておいて下さい」
ジーンは部屋を出ると軽々とリツを抱き上げた。
「あ、歩けるってば!」
リツは抗議したが素知らぬフリをしてジーンは歩き出す。そんなリツに向かって社長はウィンクする。
「二人とも良い夢を」
振り返らずにジーンはつぶやいて新妻と共に二階へと消えて行った。




