ジーン&リツの場合 30
二人は厨房の端の休憩用の椅子に座ってカレーを食べ始めた。アールはあっという間に完食して水を飲む。リツも驚くほどの早食いだ。
「ねぇ…一つ聞いてもいい?」
ライラは口を開く。
「アールがリリスって名乗ってたときに…道端に血塗れで倒れてたお兄さんを…病院に連れて行ったことがある?」
「え…?なんでそんな事聞くんだ?ってか、なんでお前がその話を知ってるんだよ?」
当たりだ。だがアールは鋭い目でライラを睨んだ。
「そんな…昔のことは…どうだっていい。何の関係もないだろ。それともお前がそいつの知り合いだとでも言うのかよ」
「うん…そうだね。知り合いだよ。ずっと、その人はリリス…いや、アールのことが忘れられなくて探していたみたいで」
まったく、今更になってそんなことを明かされてもと、聞かされたジーン自身も思った。突然妻に捨てられ、挙句の果てに使い魔と愛の逃避行をした、というのが魔王消失事件に関してジーンが報告を受けた話の全貌だったからだ。当時も彼は時折まとまった休暇を取ってはフィランジェルを捜索しに異世界へ行っていた。そのときも何の収穫もなく休暇から戻ると今度はまだ若い国のトップまでがいなくなっており魔界は混乱を極めていた。そうして仕方なく彼は玉座に座った。
「今その人は会社を経営してて…部下が結婚したのを見たら自分も結婚したくなったみたいなんだ。そうしたら、突然そのときの少女を思い出したって。リリスって名前と鷲のタトゥーを手掛かりに調べ始めたんだよ」
「は…?馬鹿なの?結婚?何言ってるんだ?」
「そう思うよね…でも、本当の話なんだよ。だから…騙してゴメンね。その馬鹿のためにここまで来たんだよ。リツ!起きて。見つかったから、とりあえず撤退だ」
呼ばれた仔猫はにゃあと鳴いて少女の腕に飛び込んだ。少女はアールの手を引いて立ち上がる。
「美味しいカレーごちそうさまでした」
ライラは律儀に一礼してアールの手を握ったまま走り出した。
「え?ちょっ、ちょっと待て!これから仕事が…」
「もう必要ない」
防火扉を開けて階段を駆け下りる。一階に着くと一気に出口まで駆け抜けた。
「おいっ!どこに行く!?」
目を丸くしたリーがぽかんと見送る。が、野生の勘が働いたのかすぐに鬼の形相で追いかけてきた。
「ヤバイって…!殺される!」
息を切らしながらアールが言う。だが、次の瞬間にはどういう訳かアールは仔猫と一緒に車内の後部座席に放り出されていた。
「リツ!シートベルトをしろ!飛ばすぞ」
「にゃぁ!って、ああっ!私、素手でゴキブリ触っちゃったんだから!ゴキブリ!!右手今すぐ洗いたい!」
隣にいた仔猫が年頃の近い女性になったことにアールは度肝を抜かれた。右手を見たくもないという様子で遠ざけている。何がどうなっている?
「これで我慢しろ」
後部座席に向かってウェットティッシュのケースが飛んできたのでアールはキャッチして女性にすぐに渡そうとしたが、少し考えて中から二枚ほど取り出して渡した。
「ああっ!もうっ!アール、ありがとう。シートベルトをしてね!説明は後からするから」
「ライラはどこだ?」
アールは混乱して、車を運転するジーンを見た。
「ライラは私の変装した姿だ」
「は?変装?いやいや、そんな、どでかいオッサンがどうやって小さな美少女になるんだよ」
アールは言い返す。
「十歳児だと車は運転できないからな。さてアール、いやリリス。お前は元悪魔の転生者だな。しかも流刑に遭った訳でもないのに、何らかの事故に巻き込まれてこちらに飛ばされてきて戻れなくなった。その事故のせいで以前の記憶も失った」
「あ?何言ってるんだ?こいつ頭おかしいのか?」
「ジーン、今全部説明するのは無理だよ。ただでさえ混乱してるのに」
リツが右手をこれでもかと拭きながら告げる。
「ゴメンね。アール。私はさっきまで猫だったリツ。名前はリツのまま同じ。今十八歳」
「はあっ!?十八歳?ウソだろ。めっちゃ若いじゃん。えっ?何?お前、結婚してるのか?」
左手の薬指に光る指輪に気付いたアールはあ然とする。
「あぁ…うん。この人が夫」
リツは車を運転する外国人を指差した。
「お前…こんなこと言いたくないけど、こいつに騙されてるんじゃないのか?大丈夫か?酷いことされてないか?」
掴みかかる勢いでアールが言ってくる。リツはこんなときでも他人の心配をするアールに苦笑する。
「大丈夫大丈夫…騙されてる訳じゃないし、ジーンも至ってまともなんだけど、あ、そうだ」
リツは名刺を取り出してアールに差し出した。
「私はこういう者です。運転してるのは同じ会社の常務で夫…」
「株式会社セラヴィ?異世界転生…対策本部…常務秘書?は?秘書が妻なのか?いやいや、めっちゃ怪しいって」
「その怪しい会社の社長が君のことを探していた張本人だ。誘拐でも何でもいいから連れて来いと言う辺りは、確かに怪しいとしか言いようがないな」
ジーンが言い放つ。社長はそんなことを言ったのかとリツは脱力した。
「はぁぁ…銀の枝は…抜けるときの制裁が厳しいんだよ…勝手に抜けたら二度と戻れない…どうしてくれるんだよ」
「では、誘拐された場合は?」
「うーん、前例がないから分からねぇよ。普通そんな酔狂な奴はいねーだろ。まぁ大金積めばチャラになるんじゃねーかな…でも、そもそも、そんな金持ってねーし」
言っている途中から急にアールの顔色が悪くなり始めた。手が震え出す。リツは慌ててシートベルトを外してアールを抱きしめた。症状がルイと似ていると思った。知らない場所に行くのが不安なのかもしれない。
「魔力切れを起こしてる。ゆっくり息をして。大丈夫。私はまだ有り余ってるから」
リツの腕から流れ込んできた魔力にアールは驚いた。無理矢理抱かれても満たされなかったのに、たったこれだけのことで今にも死にそうな具合の悪さが少しずつ確実に消えてゆく。
「リツって…何者?」
リツに抱きしめられたままアールは不思議そうにつぶやいた。とても身体が楽だ。息もしやすい。少なくとも今日の夜誰かに無理矢理抱かれる必要がないと分かっただけで、心がとても穏やかになった。
「私?元堕天使の流刑者で、今は悪魔。理解出来ないと思うけど、夫も悪魔だから、色々な姿に変身出来たりもするし、結婚してから魔力も多くなったよ。だからパートナー契約を結ぶとか結婚するのも悪くないと思う。あの社長を…気に入れば…の話だけど」
「社長…なんだ。あの人…土砂降りの雨の中血だらけで死にそうだったのに、病院には連れてくなってごねて大変だったんだよ。しかもその理由がさ、注射が怖いって。明らかにガキの俺に恥ずかしげもなく言うから、変な奴だなーって忘れられなかった」
それに。なんとか支えて溜まった雨水で窒息しないように起き上がらせると、その瞬間身体の気怠さが減ったのを感じた。
「社長って…もしかして…悪魔?」
「よく分かったね。そうだよ。男性の秘書もいて、彼は使い魔」
「なんだか…分からないけど…俺…昔の記憶がないんだよ…たまに、パッてフラッシュバック?みたいに映像だけ…断片が…流れてくるんだけど…思い出せない…」
「多分、魔力が常に満たされるようになってくれば、記憶も甦るんじゃないかな?少なくとも私はそうだった…ジーンのことも最初は誰か分からなかったから」
「ん?何?元々知り合いなのか?」
「そうだ。リツが天使だった頃からの旧知の間柄だ。何しろリツが堕天してから、長年の間異世界を探してようやくつい最近になって見つけたばかりだからな。この仕事が終わったら今度こそ休暇を取って新婚旅行に行く」
ジーンが告げる。程なくして車は自宅に到着した。
「あれ?着くの早くない?」
リツが言うとジーンは笑った。
「魔力でショートカットしたからな。それにいきなり社長に会わせる前に、まずは少し休ませるべきだろう」
アールを降ろして、室内に入るとバタバタとルイが駆け寄ってきた。
「リツおかえりーって、誰?お客さん??」
「うん、ちょっと色々あって疲れていると思うから休ませてあげたくて」
「いったいなんなんだよこの豪邸は。ここって何区だ?」
「一区だよ。お腹減ってない?黒木さんが用意してるよ?」
ルイが屈託なく笑う。
「あぁ私はお腹ペコペコ!あっ…拭いたけどゴキブリ触った手で触っちゃってほんとにゴメン!」
リツに両手を合わせて拝まれてアールは笑った。
「そんなの気にしてねーし。それよりも体調良くなったらまた腹減ってきたよ」
「じゃあ手を洗って一緒に食べよう!ジーンは?」
リツが振り返るとジーンが屈んで顔を近付けてきた。唇が重なる。やがて離れると耳元で囁かれた。
「リツ…今すぐ抱きたいくらいだが…我慢する…後で…」
手を洗っていたアールが不思議そうに振り返る。リツは赤くなったまま首を横に振った。
「まったく…ジーンったらすぐこれだから…」




