ジーン&リツの場合 28
アールに連れて来られた建物は一見すると廃ビルそのものにしか見えなかった。だが外壁は経年劣化で汚れてはいるものの、想像以上に中は清潔に保たれていた。入り口に立っていたガタイのいい男性が、ちらりとライラに化けたジーンに視線を送るのが分かった。値踏みするような嫌な見方だとリツは思った。
「随分早いなアール」
「ただいま、リー。ちょっと野暮用で帰ってきた」
「で?なんだそのちっこいのは」
「拾ったんだよ。怪我してるし逃げてきたっていうから連れてきた」
「面倒事に巻き込まれるのはゴメンだぜ。元の場所に戻してこい」
浅黒い肌の男性は眉をしかめて嫌そうな顔をする。警戒心も強そうだ。
「アリアに会わせるくらいはいいだろ。それに放り出したら死んじまうよ。俺のことだって住まわせてくれたじゃないか」
アールは構わずにライラの手を引いて建物の奥に進む。
「会わせる前に説明してやれよ?これからやることを聞いたら元いた場所に帰りたくなるかもしれないだろ」
「リー、こいつまだ十歳」
アールは言った。リーと呼ばれた相手はチッと舌打ちをした。
「分かったよ、お前の好きにしろ。けど何かあったらお前の責任だからな」
「はいはい、分かってるよ」
アールは手を振ると、建物の奥へと進んだ。
***
そこから先は階段を上る。エレベーターは使えないようだった。四階分くらい上ったところでアールは重い防火扉を開けて、薄暗い廊下を進む。ところどころに非常灯がついているが、最低限の明るさを維持してなんとか歩けるようにしているような印象を受けた。
進んだ先の扉をアールはノックする。すると中から女性らしき声が聞こえた。アールが扉を開けると、妙に鼻につく甘ったるい香りが室内に充満していた。
(何かの薬物?)
(香だろうな。身体に害はない)
心の中にジーンの声が聞こえた。アールは奥に進むのを躊躇っているようだった。リツもその理由は分かった。何やら怪しい息遣いが聞こえる。十歳の少女に見せるべきではないと、さすがにアールでも判断したのだと思った。
「アールです。チビを拾ったので…滞在のお許しをいただきに来ました」
アールは声を張り上げた。奥の方から声がした。
「いっ…痛いっ!無理!無理!ああっ!」
アールはため息をついた。
「開けますよ?」
ただでさえ妙な雰囲気のある、かすかに透ける紫色の布が天井から幾重にも帷のようにぶら下がっている。そこを開けると裸の若い女が青年にマッサージを受けていた。違う想像をしていたリツは猫の姿だったことに感謝した。途端にリツは自分が恥ずかしくなった。
「で?そのお嬢さんが?」
女性はふわりと微笑む。豊かな乳房を隠そうともせずに女性は起き上がった。
「アール、服を脱がせてみて」
「はい、分かりました。ちょっとごめんな」
後半はライラに向かって言うと、アールはライラの服を脱がし始めた。
「あなた、名前は?何歳?」
「ライラ…十歳…です」
怯えたようにライラが答える。ライラの身体があらわになる。肩や腹部、腕に背中、太腿、至るところに色とりどりの痣が広がっていた。
「まぁ…可哀想に。アオ、まずはこの子をきれいにしてあげてちょうだい。それからお友だちの仔猫ちゃんも。いいわよ、滞在させてあげる。アール、でもあなたは今日の仕事に行かなかったのね。その分は別の仕事で補って貰うわよ。そうね、ライラの手当てをする間に私の気晴らしに付き合って」
「…分かりました」
アールは何かを諦めたような顔付きで静かに頷いた。
***
リツとジーンはアオと呼ばれた青年にシャワーで綺麗に洗われた。
「僕は女の子には興味はないから安心して大丈夫だよ。変なことはしない」
優しい手でジーンを洗いながらそんなことを言う。中身が誰だか知っているリツは複雑な気分になる。リツも身体を洗われた。猫なのをいいことに下半身まで覗かれた。当然ながら猫の姿だからといって羞恥心がない訳ではない。変身後は服が毛並みに変化したような変な感覚だったが、こんな風に身体を開かれることまでは想定していなかった。
「この子メスだね。君と同じ女の子だ。名前はつけた?」
(ちょっとジーン!!)
(私に文句を言うな。実際に裸を見られてる訳じゃない)
「名前は…リツ」
「リツ?そう。可愛い名前だね」
(だそうだ。良かったな)
「今まで痛かった?酷いことされたね…ここには痛いことをする人はいないから安心していいよ」
「うん…分かった…」
ライラは小さく頷く。
「君の瞳…エメラルドみたいで見ていると吸い込まれそうだ…とても綺麗だね」
アオは歯の浮くような台詞をさらりと言ってシャワーを止めた。風呂から出てタオルでそっと身体を拭く。リツも拭かれた。タオルからはいい匂いがした。
「よく乾かさないと風邪をひくからね。ドライヤーは使えないんだ。ここでは電気も貴重だからね」
ライラは脱いだものとは別の服を着せられた。少しサイズは大きいが着れないこともないという大きさだった。どこかに似たような年ごろの子どもがいるのだろうか。その割には静かだ。念入りにライラもリツもタオルでこすられる。汚れを落としたライラは当たり前だが美しかった。アオが息を飲む。
「君…ここにずっといたら、きっとたくさんお金を稼げるようになると思うよ。アリアだって追い抜ける…」
アオはそう言ってライラの頭を撫でた。
***
「身なりを整えました」
再び元の部屋に戻ってくるとアオは紫の帷の奥に声を掛けた。奥からは再び密かやな息遣いが聞こえてくる。
「いいわよ…開けて…」
またマッサージでもしてるのだろうと思ったリツは不意を突かれたせいで驚いて、思わずにゃぁと鳴いてしまった。ベッドの上では裸のアールと先ほどの女性が口付けを交わしながら抱き合っていた。
「あぁ…こうでもしないと…魔力切れになってしまうのよ。驚いた?」
ライラは首を横に振る。
「ご主人さまも…してたのを…見たことがあります」
話している間にアールは女性の腕から逃れると素早く服を着始めた。どこか腹を立てているようにも見えた。
「ライラ、あなたもここにずっといるなら…いずれは誰かとこういうことをしないといけなくなるわ。これが好きな子はそれでお金を稼げる。アールみたいに気難しい子は、稼ぎは少ないけれど別の仕事をしているわ。私とこうするのは、生きるために仕方なく、よ。アール、ライラはあなたの居住スペース内に置くのよ。うっかり他の子のスペースを侵害したら、リリスみたいに罰を受けることになるから気をつけなさい。いい?守れるわね?」
リリス?リツはハッとする。探している少女の名だ。
「ま、あなたの居住スペースはのんびり屋のマイと冷静なアビだから、揉めることもなさそうだけど…念の為よ。何がきっかけで相手を刺激してしまうかなんて…相手の見掛けからは分からないこともあるから。私は今夜はいないから、夜は特に気をつけるのよ」
「…分かりました…」
アールは緩慢な動作で立ち上がる。が、慌てて早歩きでどこかに消えた。
「あぁ、いつものことだから気にしないで。あの子、魔力を補った後は吐いちゃうのよ。失礼よね。でも仕方ないわ。いまだに克服できないんだもの…」
苦しそうな声が聞こえ、しばらくすると静かになった。水を流す音がした。
「…いくよ、ライラ」
アールが現れる。口元が濡れていた。ライラの腕にリツは抱き上げられた。
「はい」
アールはすたすたと歩いて部屋を出る。ドアを閉めると壁に寄り掛かって、深いため息をついた。
「格好わりぃところ見せてゴメンな。いまだに…ダメなんだよ。いい加減忘れなきゃって思ってるのに」
「…ねぇ、罰って…何?怖いこと…されるの?」
ライラの言葉にアールは一瞬鋭い目付きをした。が、すぐに普段の調子に戻る。
「チビは気にしなくて大丈夫だ。でも…俺の居住スペースは見といた方がいいだろ。どこまでが大丈夫で、どこからはダメか。それを守りさえすれば問題ない」
「この子は大丈夫?あちこち…歩き回るかも…」
ライラは仔猫を持ち上げる。アールは笑った。
「そうだな、名前を書いて首輪でもつけとくか。猫は大丈夫だよ。そういうもんだろ?アレルギーがある奴は…あれは花粉か。猫はいなかったハズなんだよな…」
アールは歩き出す。再び非常階段を上る。
「ここさ、エレベーターが使えねぇから、下っ端は上の階にいるんだよ。普通は逆だよな。でも毎日十階以上あるのを階段で行き来するのはしんどいだろ。忘れ物なんてしたらもう最悪だよ」
ぐるぐる階段を上り続けてようやく剥がれかかった数字の書かれた扉をアールは開けた。
「十三階だよ。ここの元会議室だった空間を分けて俺たちそれぞれの居住スペースにしてる。今は一グループ約四人で合計四つのグループがある。俺のとこは一人足りなくて、マイとアビがグループのメンバー」
「リリスって子は…どうなったの?」
ライラが名前を出すと、アールは慌ててライラに人差し指を立てた。小声で囁く。
「しーっ、その名前を今は出すな。中に誰がいるか分かんねぇから、説明は後だ。いいな?」
ライラは神妙な顔をして頷く。
「分かった」
ライラも小声で答えると、アールは苦笑して元会議室の扉を開けた。




