リツの場合 4
その後のジーンの行動は実に早かった。私に生き急いでいるとかなんとか言っていたのに、昨日とはまた別の高級車で再びボロアパートに戻って荷物を回収する。不要なものはあっという間に燃やした。灰も残らない。大して量もない荷物を小さく縮小し清掃も済ませる。魔術は便利だ。一階の大家に挨拶をする。昨日のうちにすでに引き払う連絡は入れていたようだった。
「今までリツがお世話になりました」
そう言って某高級デパートの菓子折りを差し出す。大家は頬を赤らめた。
「まぁ!リッちゃんったら、本当に良かったわね。あなたいつの間にこんな素敵な人を見つけたの?」
昨日だとも言えずに曖昧な笑みを浮かべて笑っておく。札付きの堕天使でも気にせずに部屋を貸してくれた大家には感謝しかない。
「お幸せにね」
大家に見送られて車に乗り込む。
「ストラス、このまま区役所へ。婚姻届を出す」
「は?」
思わず間抜けな声を上げてしまった私と主の顔を見比べてストラスは気の毒そうな顔をした。
「あの…こんなことは言いたくないんですが、先にリツさんをドレスアップさせてあげた方がいいと思いますよ?その格好で行ったらその…この世界だと権力で貧困にあえぐ若い転生者を買い取ったあくどい資産家にしか見えませんからね…」
「ストラス…お前、その言い方…」
だがそのタイミングで速報が入り、転生者を拉致監禁した罪で著名人が検挙されたとのテロップが画面上に流れた。次に転生者の自殺のニュースが続く。やるのは簡単だったけれど自殺は正直お勧めしない。朽ちてゆく自分の身体を延々と見せられ刑期が追加されただけだった。
「…分かった。お前に任せる」
「ちょっと待って下さいね。俺もここ一ヶ月でこの世界とこの国のことを勉強したばかりなんで付け焼き刃ですけどね」
一度自宅に戻ってストラスは私が回収してきた中で一番まともなワンピースを選び魔術でレベルアップした。古いデザインものをタブレットの端末のファッション誌にあるスタイリッシュなデザインに変える。問題は果たしてこれを着て似合うかどうかだ。別室で着替えて絶望的になる。胸元がスカスカだ。
「あの…」
顔だけ出すとジーンがやってきて察したようだった。彼は魔術で胸元にギャザーを入れる。心許ない感じが誤魔化せてマシになった。不意に後ろから首元にひんやりとするネックレスをつけられた。
「これは本物だ。魔界にはダイヤモンドが眠っている山が沢山あるから向こうではさほど希少ではないんだが」
言いながらこちらを見下ろす。
「思った通りよく似合う。魂の色と同じ煌めきだな。さて、婚姻届を出しにいこうか。リツにも書いてもらって」
その後人生で初となる婚姻届なるものを無駄に緊張しながら書き込んで、私たちは区役所へと向かった。先に転入届を出す。手回しのいいことに転出届の方はストラスが事前に済ませていたらしい。窓口の男性は私たちを見て何やらギョッとした表情を浮かべたが、祝福の言葉を述べてくれた。無事に受理され、ものすごいスピードで物事が進んでゆく。
「社長にはすでに報告済だ…というか、君を探しに来たと本当のことを伝えたら、いたく感動して、結婚後もどちらかを別の部署にやったりもしないと約束してくれた。明日社内に公表する」
「えぇぇ…」
この会社は社長自身が元々札付きの転生者だったこともあり苦労の末に興した会社なので、その手の話に滅法弱いのは分かっていた。私自身もその口で入社に漕ぎ着けたのだからジーンのことをどうこう非難する資格はない。それにしても、展開が早すぎて置いていかれそうになる。
「リツさん…大丈夫ですか?」
ストラスが気遣わしげな声を上げる。
「大丈夫…と言いたいところだけどめまいがしそう…」
「すみませんね、我が主はちょっと浮かれ過ぎているんですよ。なにせ仔犬の頃からこじらせてた約六百年ほどの片想いがようやく実ったんですから。この人、その間一度も妻帯していないんですよ。本当にどうかしてます」
「こら、余計なことを言うな!」
駐車場に移動しながらストラスは振り返る。
「どうせそのうちバレるんですから、いつ言ったっていいじゃないですか」
「仔犬…?」
何やらものすごい遠い記憶を呼び覚まさなければならなかった。なのに黒い尻尾を振る毛玉のような相手がじゃれついてきたのを唐突に思い出す。あれはどこだったのだろう。天界から少し下って確か立ち入り禁止の区域だったような。まだ私も幼かった。白い大きな翼で自由に飛び回っていた。
「…ノワール?」
いつだったか後ろ脚を怪我した仔犬を助けた。天界の魔力とは異なる気配をしていたけれど、なんとなく放っておけずに世話をした。
「そうだ…あの頃はまだ…人の形になるのが難しくて…銀の長い髪のフィランジェルに助けられて一目惚れしたんだ。だがそれを認めたくなくて…何度もその後は戦いを挑んだ…」
「戦がある度に何故かアルシエル軍とばかり遭遇するとは思っていたけど…」
まさか異世界で天界と魔界の戦争に思いを馳せる日が来るとは、あの頃は想像もしていなかった。ましてや敵軍の司令官同士だったのに、つい先ほど婚姻届を出してしまった。
「髪…また伸ばそうかな…」
呟くとストラスはニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「異世界で良かったと思うのは、敵同士が仲良くしても目くじら立てる連中は限られるってとこですかね。俺は悪魔ですから噂の元天使の司令官を晴れて悪魔に引き入れることができて、喜んでいますけどね。次は洋服を買うんですよね、行きましょうか」
「あの…ストラスってそのままの呼び方?」
私の問いかけにストラスは途端に嫌そうな表情になる。地雷を踏んでしまっただろうか。だが彼はため息をついて口を開いた。
「ジーン・フォスターはまだいいですよ、俺なんて差し込みに使われた名前、何だと思います?シトラス・オレンジですよ?いくらストラスと大差ないからって酷いじゃないですか。ふざけ過ぎです」
「シトラス・オレンジ…さ、爽やかそうではあるけど…」
およそ人名とは思えない。
「いいんですよ。魔界に何百年も恋人を放置するとこうなるってことです。落ち着いたら少し休暇をいただいてもいいですか?たまには機嫌を取っておかないと本当に別の悪魔に乗り換えられそうだ」
「だったらストラスもそろそろ腹を括って妻帯したらどうだ?新婚旅行先を異世界にでもしたらいい。どうせ私に遠慮して引き延ばしていたんだろう?」
ジーンの言葉にはたと気付いたようにストラスは顔を上げニヤリと初めて悪魔じみた笑みを浮かべた。
「あぁ…いいですねぇ。オレンジの姓をもう一人増やしてみるってのもアリかもしれません。リツさんは女性なんですから、あの家に男手しかないというのもちょっと心配ではあったんですよね。彼女のことはどう思いますか?」
「私にとっては実に一途で寛大な部下だと思っているよ。何百年もフラフラしていて、優しい言葉の一つも掛けやしない悪魔を飽きずに待っているんだからな。私が女だったら百年で振ってる」
「誰のせいでこうなったと思ってるんですかね。でもまぁ向こうの年齢的にもちょうど良いタイミングではあるかもしれません。年下の同僚に先を越されてイライラしてましたからね」
車を出しながら彼は続ける。隣でジーンは別の端末を取り出して操作を始めた。
「わぁ!陛下!早く戻ってきて下さいよ。アスモデウス元帥がご立腹です」
「まだどうせそっちでは一時間程度だろう?いちいち騒ぐな。うまいこと相手をしておけ。それよりも時空管理官のエストリエを呼んでくれ」
陛下と聞こえたのは気のせいだろうか。すぐに美しい女性の声が聞こえた。
「エストリエです。我が君。いかがなさいましたか?」
「長らく君のパートナーを連れ回して申し訳なかったな。して、君に提案があるのだが、少々こちらに来て手伝ってほしいことがあるのだ。差し込み名はエリーゼ・オレンジ。シトラスの妻としてお願いする。ちなみに私はこれから一ヶ月ほど新婚旅行休暇を取ると私の影武者に伝えておいてくれないか」
「えっ?あの、ちょっとお待ち下さい。それはどういう…」
「画面越しに伝えるのは野暮というものだろう。本人の口から後で対面で聞くといい」
ジーンは笑いながら画面をオフにする。いや、聞き間違いではない。陛下、我が君。
「あの…ジーンって魔界で…何をしているの?」
嫌な予感がした。
「うん?そんなことが気になるのか?別に大したことはしてない。玉座に偉そうにして座っているだけだ。リツの席もあるぞ。長らく空席だったが、ようやく王妃の席がこれで埋まる」
王妃。この私が?予感は的中する。ないない。あり得ない。
「そこ…説明してなかったんですか?全く、我が主はこれですから。昔は魔王なんて呼ばれてましたが、今は国王陛下と呼ばれてますね。私はその陛下の補佐官です。さて、では買い物しましょうか。お二人でどうぞ、と言いたいところですが、念の為に私も同行します」
駐車場に停めて車の外に出たところでキィンと小さな物音がした。
「いったーい!」
突然現れた女性がスーツケース片手に派手に尻餅をついている。栗色の巻き毛に薄いピンクの瞳の若い美女がこちらを見上げて苦笑した。
「差し込み完了しました。エリーゼ・オレンジです。こんなことになるならもう少しマシな姓にしておくんだったわ」
女性は立ち上がるとスカートを払って一礼した。
「…あ、エストリエ…」
いつもは飄々としているストラスが僅かに動揺を見せる。エストリエはストラスに近付くと片手で長身の頭を引き寄せ徐に首に顔を埋めた。
「…!」
ストラスがビクリとして声を飲み込む。何をしているのかと思ったら首に噛み付いていた。流れた血を舐め取りエストリエは顔を上げる。
「で?どんな言葉をくれるのかしら?」
「長らく…待たせましたが…俺と…その…結婚して貰えないでしょうか?」
「歯切れが悪いわね」
「お願いします!俺と結婚して下さい!!」
ストラスが勢いよく頭を下げる。
「仕方ないわね。他の女だったらとっくに見捨てられてるわよ?待たせた分の償いはきっちりしてもらいますからね」
そう言ってエストリエは不意にこちらを振り返った。
「あら…我が君。その方が長年探していた魂の持ち主ですの?悪魔になりたてホヤホヤなのね。とっても可愛らしいわ…食べちゃいたいくらい…」
ペロリと赤い唇を舐める。冗談だろうけれど、半ば本気にも聞こえて背筋がゾワッとした。いったい私はどんな風に見えているのだろう。
「リツをあまり脅かさないでくれ。これから買い物なんだ」
ジーンが言うとエストリエは目を輝かせた。
「異世界ショッピングね!私もとても興味深いわ!行きましょ!」
ストラスはスーツケースを車にしまう。やれやれという表情をしているその目の前にジーンは書類を差し出した。
「婚姻届の予備だ。せっかくだから提出しておけ」
「手回しの良いことで」
ストラスは苦笑しながらそれを受け取った。




