ストラス&ルイの場合 1
ルイは悪魔になってその日の夜に高熱を出した。元々、転生前が炎の精霊なので堕天使のリツほどの魔力はない。結果として悪魔に変わったことで身体に負荷がかかり、ルイはガタガタと震えていた。ストラスはルイのベッドに入り昨夜と同じように添い寝していた。
「ルイ…辛いよな。身体が変わったから馴染むまで少し時間がかかるんだ」
「うん…分かった…」
悪魔になったルイはどこが違うと具体的には言い表せなかったが、強いて言うなら妙に蠱惑的になった、とストラスは思った。そうして頭の中でその単語を思い浮かべた自分を悔やんだ。
(俺はルイの魂の契約者であって、ルイをどうこうしたい訳じゃねーのに、なんで無駄にクソ可愛いんだよ)
ルイを最初に見たときは別に自分の好みではないと思っていた。ストラス自身の性癖としては女性の方が好きだが男も美しければそのときの気分と状況によっては可、くらいな感覚だったのだ。そうして子どもに至っては論外。射程圏外だったはずだった。なのに今熱を出して変に呼吸も荒くなっているルイの潤んだ瞳に見上げられると、これまでに感じたことのない感情が湧き上がってきて、ストラスはそんな自分に動揺した。
「ちょっと水取ってくるからな」
ストラスはそう言って布団から出ようとした。
「…一人に…しないで…」
ルイが小声で言ってストラスを呼び止める。ダメだダメだ。これはまずい。
「エストリエを呼ぶから大丈夫だ」
何が大丈夫なのか分からないが、エストリエに交替してもらうことにした。
「うん…分かったよ」
幾分か残念そうに聞こえたのはきっと気のせいだろう。ストラスは今度こそ布団から出ると妻を呼びに行った。
***
「はいはい、私が添い寝でもトントンでもしておけばいいんでしょ?でもルイって可愛いからイタズラしたくなったらどうするのよ?」
「…するな…というか、しないでくれ。俺もちょっと危なかったから出てきたんだ」
ストラスが珍しく動揺しているので、少しからかってみたら想定外の答えが返ってきたことにエストリエは吹き出した。
「笑い事じゃない」
「なによ、手当たり次第食い散らかしの常習犯のあなたから、こんなに悪魔らしくない台詞を聞く日が来るとは思わなかったわ」
悪魔の先輩が親切と見せかけての完全なる嫌がらせで、あれやこれやストラスの過去の恋愛遍歴を吹き込んできたことをエストリエは密かに根に持っていた。あなたの身体じゃ満足させられないかもよ、とも言われた。ただでさえ吸血鬼というだけで下に見られる。エストリエは魔界に行くために契約を結んだが悪魔になった訳ではなかった。吸血鬼としてのエストリエを連れて行きたいと望んだのはストラス自身だ。魔界では無駄に高いストラスの地位も嫌がらせの要因の一つだった。妻の座を狙うものはごまんといた。
「…それはお前に会う前の大昔の話だろ。それにルイはまだ子どもだ。悪魔の気晴らしに消費すべきじゃない」
案の定ストラスは眉を下げて呆れ顔になった。
「ふーん、思ったよりもあの子が大事になっちゃったのね?意外だわ」
エストリエはコップにミネラルウォーターを注ぐと寝室へと向かう。不毛な言い合いをしているのも分かっていた。
「私とあなたはあの子の母と父のポジションをキープすればいいのかしら?でも魔力不足だったらキスくらいはするわよ?それ以上はしない。この辺で許してちょうだい」
エストリエはひらひらと手を振ってストラスを追い払うと寝室に消えて行った。
***
リビングの窓のカーテンが開いている。リツはその窓の鍵も開いているのに気付いて慌てて閉めようとした。が、よく見れば外に人影がある。ストラスだった。
「寒くない?」
リツが顔を出すとストラスは珍しく煙草を吸っていた。見たことのない銘柄だ。魔界のものだろうか。
「煙草…吸うんだ…」
リツは手近にあったストールを掴んで巻き付けるとベランダに出た。夜風が少し冷たい。
「…リツさん…あぁ…ずっと止めてたんですけどね」
ストラスは振り返ると微笑んだ。
「何かあった?」
リツを驚いたように見返すストラスにリツは続ける。
「ずっと止めてた煙草を吸うくらいには、心を落ち着かせなきゃならない何かがあった、そう考えるのが妥当じゃないかと」
はぁぁとストラスは大きなため息をついた。まったくその通りだ。
「ひょっとしてルイ?」
ストラスは今度こそギョッとする。そんなストラスに向かってリツは美しく微笑む。まるで天使のようだと柄にもない感想が頭を過った。
「どうしてジーンが、ルイに私の使い魔にならないか?って言ったか理由が分かる?」
「それは…ルイが炎の精霊だから…」
「半分だけ合ってるけど、本当の理由は多分違う」
リツは傍らのストラスを仰ぎ見た。ストラスからするとリツも子どもに近い存在だ。まだ幼い。
「ルイは絶対に私には手は出さないって分かってるから。性的な嗜好の意味で。だから傍に置いても問題ないと判断した」
「えっ…ちょっと…待って下さい…」
ストラスは煙草を揉み消すと携帯灰皿に入れる。
「それじゃ…ルイは…」
「うん、ルイは男の子だけれど男性の方が好き。じゃあ次の質問。何故ジーンじゃなくあなたに魂を渡したと思う?」
「それは…いや…そんな訳が…」
ストラスの言葉にリツは首を横に振る。一緒に生活していると見えてくるものがあった。
「否定しないで。ルイはどうしても好きになった人に魂を渡したかった。元々男の人が好きだったんだとは思うけど、ルイは複雑な環境で育った影響で愛情に関する認識が歪んじゃって…相手が自分の身体を求めないなら、いっそのこと死んだほうがマシだって思っちゃう…」
なんてことだ!そのとき急にエストリエの悲鳴が響いた。ストラスは大慌てで室内に戻る。
「リツさん、ありがとうございます!」
リツはいつになく取り乱して寝室を目指して走り去るストラスの背中を見つめて、ふぅと息を吐いた。
***
「エストリエ??ルイっ!?」
慌てて寝室に戻ったストラスは窓から飛び降りようとしているルイを必死に止めるエストリエの姿を見た。
「ルイ!早まるな!それにその程度じゃ悪魔は死なない」
ストラスはルイを抱き留める。ルイは泣いていた。
「だって…こうするしか…僕は…やり方が…分からないからっ…!」
「はぁぁ、もうっ、何なのよ。あとは二人で話し合うなり抱き合うなり好きにしてちょうだい。私はリツと甘い物でも食べてくるわ。ルイ、この人肝心なところで鈍いのよ。ごめんなさいね。あと一人や二人ストラスに恋人がいても私は我が君みたいに目くじらを立てたりもしないから大丈夫よ」
エストリエは寝室からさっさと出てゆく。後に残されたストラスは急に緊張してしまった。長年生きてきた悪魔なのに、なぜたかが悪魔になりたての少年にここまで振り回されているのか。
「ルイ…悪かった」
「同情して言ってるんなら…そういうのは…いらない…惨めになるだけだから…」
ルイは相変わらず赤い顔のまま肩で息をしている。ルイは乱暴な手付きで涙を拭った。
「いや、俺はルイに思わず手を出しそうになった自分の気持ちを否定したんだ。ルイが欲しいと一瞬でも思って…さすがにそれはヤバいと逃げた」
「え…?」
「悪いな。俺は悪魔なんだよ。女も好きだが時には男にも手を出す…でもルイはまだ子どもだ…」
ストラスの言葉にルイはフッと笑った。自嘲的な笑みだった。時々浮かべる表情がやけに大人びているから混乱するのだと、そのときになってようやくストラスは理解した。
「僕は子どもじゃないよ…十一歳のときに…施設から飛び出して…大人のやることは大概経験済なんだ。酒も煙草も薬も…女も…男も…」
「やれやれ…想像以上に荒んでるな」
ストラスはルイの顎に指をかけると唇を重ねた。経験済というだけあってキスも上手い。リードする筈が途中主導権を奪われそうになる。
「…知らない煙草の味がする…」
唇を離したルイが何故か嬉しそうに小声でつぶやく。
「やっと…キスできた…悪魔って…もっとこう…欲望に忠実だと思ってたのに全然だから…毎晩悶々として眠れなかった…」
ルイはストラスに抱きつく。
「ったく、発熱してるのに元気だなぁ…そんなにしたいのか?」
「うん」
「後で泣くなよ?」
「泣かないよ」
ストラスは観念してルイを抱き上げると大切な物を扱うような手付きで優しくベッドの上に運んだ。
***
キッチンのカウンターでエストリエとリツはチョコレートアイスを食べていた。そこにジーンも加わる。ジーンはラム酒を飲みながらアイスを食べ始めた。
「ストラスは?」
「ルイとよろしくやってるわよ」
「…そうか」
意外とあっさり納得したなとリツは意外に思った。
「でも今回ストラスは一度は踏み留まったのよ。ルイの方が我慢出来なかった。だから目をつぶるわ。だってあの子、そうすることでしか今は自分の価値を確認できないんだもの…悪魔になりたてで混乱してもいるし…拠り所を探してる…」
「いい女だよ、エストリエは」
サラッとジーンの言った言葉にリツはドキッとした。一方でエストリエはケラケラと笑い出す。
「いやだ、我が君にそんなこと言われた日には空が落ちてきそう」
エストリエの目尻に光った涙をリツは見なかったことにした。ジーンも見ないふりをしている。リツはエストリエには傷付いて欲しくないのにルイを助けた結果としてエストリエが傷付いていることに胸が痛くなった。ストラスは一人しかいない。けれども二人とも彼を必要としている。どうするのが正しかったのだろう。リツには分からなかった。
***
しばらく経ってストラスはルイの寝室から出てきた。リビングのソファーでエストリエが丸まって寝ていた。反対側のソファーでは眠ったリツを抱いたジーンが起きていた。
「あまりエストリエを泣かせるな」
ジーンの言葉にストラスは肩をすくめた。
「この状況で俺にどうしろっていうんですか。ルイはそこそこ欲望を満たしてやったらすぐに気持ち良くなって寝ましたよ。最後まではしてません。まぁ…本人にはあれこれしたように思い込ませました。それ以外の方法が思いつかなかったってだけですが」
夢と現実の境を曖昧にして快楽を与える。悪魔の常套手段だ。ストラスはエストリエの眠るソファーにそっと座る。
「悪魔だから、女でも男でも何でも手を出すと思われるのは心外なんですけどね…」
「いいじゃないか。実に悪魔らしいイメージだ」
ジーンは笑う。
「いくら俺でも未成年は守備範囲外なんですよ。いや違うな、モラルの問題なのか…?」
「モラルをお前が説くのか?じゃああと三年も経ったらどうなる?ルイも大人だ」
ストラスは押し黙った。
「ううっ…そこを突かれると痛い…リツさんだってギリ十八ですもんね…主が躊躇していた理由が今ならよく分かりますよ。無茶言ってすみませんでした」
ストラスはそう言ってエストリエの目尻に触れた。乾いた涙の跡がある。そっと髪に触れる。
「こんな男に惚れたばっかりに、エストリエにはこの先も苦労させるのかと思うと心苦しいです」
「後々のフォローをきちんとしておくことだな。リツはリツで無自覚だから危ういし。変なところは鋭いのに、自分の魅力をまるで分かっていない」
ジーンはリツの頭をそっと撫でた。
「お前がリツに何を言われたかはそれなりに予測もつくが、一つリツは知らないことがある。ルイの認識の歪みだ。養父を含めて…これまで彼を手元に置いて面倒をみた、いわゆる世間でいうところの父親面をした大人たちがルイにしてきたこと…それらを全てひっくるめてがルイにとってのあるべき父親像として今もなおルイの中では機能しているということだ」
「何が言いたいんです…?」
ストラスの警戒した口調にジーンは唇を歪めた。
「ルイにとっての父親は自分を抱くのが当然の存在だということだ。性的欲望を自分に向けられて初めてルイは自分がそこに存在していいと安心していられる…お前、ルイの父親になろうとしただろう?その時点でもう今日迎えた結果はルイの中ではすでに決定事項として存在してしまったんだ」
「それを分かってて黙っていたんですか?」
ストラスの恨みがましい声にジーンは首を振った。
「ガブリエルから話を聞いて、その後で過去のルイの様子を遡って調べていたら気付いたんだよ。知っていたらさすがに忠告したさ」
「はぁぁ…俺はこれからどうルイに接していけばいいのか…」
「幸いなことに我々は悪魔だ。都合よくモラルとやらから逸脱しつつも迷走はしないように、ルイに付き合ってやるしかないだろうな。私の予想ではリツの使い魔になればまた変わるはずだ。明確な目的を持って仕える主を与えてやった方がルイは自立しやすい。今は恐らく契約者であるお前にルイが依存している期間なんだ。少し甘やかしてやれ。まぁ良かったじゃないか。悪魔になったルイが予想以上に魅力的で。全く好みじゃない相手に手を出すほど悪魔も欲深くはないからな」
「他人事だと思って好き放題言いますよね。俺が一番魅力を感じるのは今も昔もエストリエだけですよ。それは出会った頃からずっと変わらない」
ストラスは立ち上がると酒を取りにキッチンに消えた。寝ていたはずのエストリエの目が僅かに開く。口元がほころぶのが見えた。ジーンは素知らぬふりをしてすやすや眠るリツの頭を撫で続けた。




