ジーン&リツの場合 22
翌朝リツはなかなか起きることが出来なかった。カーテンの隙間から明るい光が射し込むのが見える。一体何時だろうと思ってやっとのことで身体を起こす。あちこちに僅かな痛みはあったが想像していたよりはずっとマシだった。
「まだゆっくり寝ていろ。なんなら今日は一日中寝ていたっていいんだ」
すでに起きていた悪魔はジーンの姿に戻っていた。ベッドに座ると起き上がったリツの頭を撫でてそっと抱きしめる。
「昨日は…無理をさせたな…すまない」
すでにリツもフィランジェルの姿ではなくなっていた。豊満な胸は消え去りいつもの慎ましやかなサイズに戻っている。僅かに落胆したのを見透かしたかのようにジーンが真面目な顔をして告げる。
「どんな姿をしていても魂の色は変わらない。君は君だ。美しい」
唇が重なり魔力を注がれる。腰の辺りにもジーンの魔力が流れ込むのを感じた。
「痛むのはここか?」
「うん…少し…」
「他には?」
話している間にもジーンの魔力によって微細な痛みは和らいでゆく。
「翌朝の妻の身体のケアも悪魔の夫の重要な役割だからな」
笑みを浮かべたまま再び口付けされた。安定した魔力が身体の隅々にまでじんわりと広がってゆく。目を閉じて受け取っていると、心地良くてそのまま再び眠ってしまいそうになった。
「眠くなる力は…流さないで…」
リツが言うと、バレたかとつぶやいてジーンは微笑んだ。
「何か食べれそうか?」
「うん、お腹は減ってる…」
「分かった。少し待ってろ。今日は黒木には少し別の仕事をしてもらっているんだ」
ジーンは部屋を出てゆく。あまりに戻ってこないので、少し不安になりリツは階段を降りた。何やら騒がしい。いい匂いがする。
「あっコラ!つまみ食いするな!」
「なにこれ美味しい!我が君の手料理を食べられる日が来るなんて幸せだわ。ほら、ルイも食べてみて!」
リビングに入るとルイの口にエストリエが何かを入れているところだった。
「あ、リツおはよう!ほら、ここに座って待ってて!」
ニコニコして上機嫌のエストリエに手を引かれてキッチン横のカウンターの椅子に座らされる。
「それにしても昨日はすごかったわね。リビングにまで愛し合う二人の魔力が伝わってきたわよ」
耳元で囁かれてリツは思わず顔が火照るのを感じた。
「えっ…そういうのって…分かっちゃう…ものなの…?」
小声で聞き返すと近くにいたルイまでがリツの顔をみてニヤッと笑った。
「お陰で僕もめちゃくちゃ調子がいいよ。上質な魔力で満たされてるって感じがする。こんなに清々しい目覚めって何年ぶりだろうって思ったくらい」
ルイは細身のデニムにポロシャツを着ていた。長い金髪を無造作に束ねている。それだけなのに妙に少年っぽさを感じた。
「そ…そうなんだ…」
喜んでいいのかよく分からないところだが、他愛もない話をしているうちに料理が出来上がっていた。
「我が君って、何だかんだでスパダリよね。なんでもぱぱっと出来ちゃうんだから」
「五百五十年もあちこちを放浪していたら、人間らしく振る舞うことが嫌でも必要になる世界もあるんだよ。自然と覚えるさ。魔力の使えない世界は本当に不便だった」
コーヒーと共に出てきたのは野菜サラダとフレンチトーストだった。食べやすい六等分サイズに食パンはすでに切られている。メイプルシロップにチョコレートソース、各種ジャムにキャラメルソースが並び、リツはどれをかけて食べようか迷ってしまった。
「少しずつ色んな味を試すといい。それを見越しての切り方だ」
ジーンはエストリエとルイの前にも皿を置いた。
「わ!どうしようかしら、やっぱりここはまずは王道のメイプルシロップかしらね」
冷蔵庫を開けたジーンがきな粉と黒蜜もカウンターに並べる。
「この組み合わせも合う」
「もうっ!また選択肢が増えちゃったじゃないのよ」
「私はこれだな」
ジーンはバニラアイスを乗せた上にチョコレートソースとシナモンを振った。
「わあっ!朝からなんて背徳的な!」
「背徳は悪魔の美徳だろう?」
ジーンは笑いながらフレンチトーストをリツの口に入れる。バニラアイスとチョコレートソースは当然ながらとてもよく合う。そこに仄かな刺激を与えるシナモンの香りが広がった。フレンチトーストは外が少しカリッとしていて中からじゅわっと少し甘い牛乳の味が口いっぱいに広がる。とても幸せな味だ。
「垂れてるぞ」
そう言ってジーンはリツの唇の端のチョコレートソースをペロリと舐めた。
***
お腹もいっぱいになり、心も身体も満たされてリツはぼんやりしていた。常に働いているか体調が悪くて唸っているか死んだように眠っているかのどれかだった生活とは真逆だ。ソファーに座ったリツの腰を抱くようにしてジーンが座っている。ジーンに身を任せて寄りかかっているとそれだけで安心した。
「少し魔界の力を引き寄せる。ルイにも少しずつ慣れてもらわないといけないからな。エストリエ、ルイについてくれ」
「分かったわ。ルイ、いらっしゃい」
エストリエはルイを呼び寄せて向かいのソファーに座った。エストリエはルイの手を握る。
「軽めのから近づける。辛かったら言ってくれ」
リビングのソファーの下に巨大な魔法陣が出現する。途端に辺りの空気が重くなったように感じた。
「わ…!」
ルイが小さな声を上げた。
「大丈夫?深呼吸して」
エストリエに言われた通りにルイは深呼吸を繰り返す。
「ルイ、どうだ?もう少しいけそうか?」
ジーンの声にルイは頷く。
「もう少し近づけるぞ」
ジーンが床に手をかざす。空気の重さが増す。けれどもそれが少し心地良いと感じてリツは自身の変化に驚く。
「ルイ、無理しちゃダメよ」
懸命に深呼吸を繰り返すルイの背中をエストリエがさすった。
「大丈夫…」
それでもルイの様子を見ていたジーンはそれ以上近づけるのは止めてそのまま五分ほど同じ場所で留まる。エストリエのお陰もあってルイは深呼吸を続けて耐えた。しばらくすると足元の魔法陣は消え失せる。
「はぁ…これが…魔界の空気…重いけど…こっちより…澄んでる?」
意外そうな顔をしたルイにジーンはニヤリと笑った。
「瘴気まみれだったり有毒ガスが含まれているとでも思ったか?」
「ま、まぁ…何となくそういうイメージが…」
「魔界の環境整備庁の職員が聞いたら嘆くな。有毒な空気でないと呼吸がしにくい種族もいるにはいるが、ごく少数だ。そういう種族が過ごしやすいよう特殊なコロニーはあるが、大多数は先ほど吸った空気の中で生活している。むしろこちらより澄んでいるから、有害物質に汚染された空気に慣れきった身体には負担がかかるんだ」
「毒されてるのは…私たちの身体の方?」
ハッとしたようなリツの言葉にジーンは頷いた。
「ま、そういうことだな」
「僕らの世界の方が汚染されてるのか…知らないことばっかりだなぁ」
ルイが小声でつぶやいた。




