リツの場合 3
しばらく公園で水浴びをしていたし、家のお風呂は使えたとしてもシャワー五分で済ませていたから、広い浴槽に浸かってのんびりすること自体がとてつもない贅沢をしている気分になる。もちろん浴槽に浸かる前に全身をくまなく綺麗に洗った。温かいお湯にゆっくりと浸かる至福の時間。それでものんびりし過ぎているような気がして浴槽から出るとバスローブが置かれていた。身体を拭いて羽織るとちょうどよいサイズだった。来客用の歯ブラシとコップもあったのでサッと歯磨きも済ませる。洗いやすさを優先して短く切った髪をタオルで拭きながら出ると、ジーンもバスローブに着替えていた。いつの間に入ったのだろうと思ったら心を読まれたように返事が返ってきた。
「二階にも風呂があるんだ。あぁ…どうせなら一区に住めるくらいの金持ちの設定にして乗り込んでやろうと思ったからな」
なるほど。ここは一区か。元いた地区とは別世界だ。
「じゃあ、私の勤める会社に来たのって…」
「偶然な訳はないだろう。真田常務が異世界転生したのは本人の希望だが、その隙に入り込んだ。本来は別の人間が来るはずだったが、少々別の方向に誘導した」
手招かれて隣に座る。魂としては今日知り合ったばかりではないのだが、この姿で知り合ったのは今日が初めてだ。なのにこの距離感で不安にならない自分も恐い。元々は命のやり取りをした敵だ。
「十八だと酒を勧める訳にもいかないしな…」
そう言いながら彼はグラスを口に運ぶ。悪魔なのにこういうところまで真面目だ。グラスを傾けても顔色は変わっていない。仄かなラム酒の匂いがした。
「色々あって疲れているだろう?寝室に案内するよ」
サッと手をかざすともう濡れた髪は乾いていた。さりげなく手を引かれて移動する。階段を上がった奥の部屋がそうだった。無駄に広いベッドがある。
「今日はここを使うといい」
彼は案内するとそのまま出て行こうとする。思わずその手を掴んでしまった。
「…あの…もう少しだけ…」
「お前は…まったく!」
腰を引き寄せられて少し乱暴に口付けされた。ラム酒の香りが広がる。知っているのは繰り返しのどこかで飲まされたからだ。けれどもそのときとは違ってとても上品な味がした。そのままベッドに倒れ込む。抱きしめられて身体の奥の方がぎゅっとなった。本当は少し恐い。
「こうしてここにいるから、今日はゆっくり休め…これ以上は何もしない。肩には触れるぞ?充電中だとでも思えばいい」
額と瞼に静かに口付けされる。何故か急に眠くなってきた。
「でも…私…お返しが…」
「これからゆっくりでいい」
低い囁きが耳元で響いたのを最後に、私は穏やかな眠りの中に落ちていった。
***
翌朝目が覚めると目の前には少しはだけたローブが見えた。その間から逞しい胸がのぞく。目のやり場に困って頭が混乱する。
(そうだ…私…昨日…)
起き上がろうとしたら、筋肉質な腕が肩に乗っていた。地味に重い。
「おはよう。気分はどうだ?」
頭を撫でられた。眠っている間にも魔力が流れていたのか、毎朝のように感じる酷い頭痛はなかった。身体も軽い。
「今何時?」
ハッと気付いて飛び起きる。
「バイトに行かないと!」
「バイトならストラスがお前のフリをして穏便に辞めてきた。土日にまであくせく働く必要はない。少し休め。働き過ぎだ。過労死するぞ」
また頭を撫でられる。
「子ども扱い…しないで。十八だから成人してる」
「分かってる。だから同衾した…」
「どうきん…?だから、そんな言葉遣い普通はしない…いったいどこで学んだの?」
まったく、この人は。
「すまないな。小さくて綺麗なものを目にするとついこうしたくなる…」
さらりとそんなことを口にして再びジーンは頭を撫でてきた。何を言ったのか無自覚なのだろうか。無駄に心臓がバクバクする。そのときドアをノックする音が聞こえた。
「ジーンさま、奥さま、朝食の準備が整いました」
昨日黒木と呼ばれていた初老の男性の声がする。奥さま?
「あぁ、部屋に運んでくれ」
程なくしてホテルのルームサービスのように食事が運ばれてきた。サラダにスープにパンが数種類、スクランブルエッグにウィンナー。ヨーグルトもついている。
「食後には珈琲をお持ちしますが、奥さまも珈琲でよろしいですか?紅茶、緑茶もございますが」
「珈琲をお願いします」
布団でなんとなく顔を隠しながらお願いする。恥ずかしい。黒木が出てゆく。ローブの胸の辺りを直すとジーンが優しい目をしてこちらを見ていた。
「さて食べようか」
「いただきます」
両手を合わせると、ジーンも同じ仕草をした。
「いただきます。いや、昨日もやっているのを見たが、いいなと思った」
ジーンはサラダを食べる。こうして見るとごく普通の外国人のようだ。
「何を考えてる?」
「い、いえ、別に」
スープを飲むと温かくて美味しかった。
「朝食をちゃんと食べるのって…いつぶりだろう」
この世界では生まれてすぐに札付きの転生者と分かると、基本的に親とは切り離されて育てられる。よほどの事情がない限りは親も引き取りを希望しない。流刑者は重罪人が多いせいだ。施設の朝食で温かいものを食べた記憶はない。それでも自立して朝食もままならなくなって、冷え切った満腹にもならないカチカチのそれが与えられただけでも有り難いことだったと思い知ったのだけど。
「これからは毎朝一緒に食べよう」
いちごジャムを塗ったパンを口に運びながらジーンが言う。やはり甘党だ。
「契約が…終わるまで?」
「リツ…契約期限をちゃんと読んだか?その魂がある限り続く…と。悪魔の寿命は長いぞ?それに魂はよほどのことがない限りは半永久的だ。私の手にその魂がある限り契約は続く…」
起きてすぐに表の内容を見せられたのだけれど、全く頭に入って来なかった。いつの間にか胸の辺りが熱い。そっと覗くと魔法陣が描かれていた。僅かに光っている。
「それは昨日車内で背中に描いたんだ。身体のどこかに定着したら…リツが同意した証となる。勿論拒否することもできる。今の魔力量なら跳ね返すこともできるだろう。リツの意思は尊重する」
「跳ね返したら…どうなるの?」
「どうにもならない。私のものにならず、その魂は自由になる、それだけだ」
「どうして、そんなの…あなたが損するだけじゃない」
ジーンはフォークを置いた。不意に目を逸らす。
「お前、昨日も言ったが、五百五十年も一方的に探していたなんて言われて気味悪く思わないのか?はっきり言ってストーカーだぞ?執念深過ぎて自分が嫌になる」
「よくよく考えればそういう風にも…悪魔なのにそんなこと、気にするんだ」
何だか可笑しくなって笑ってしまった。
「でも、そんな風に探しに来てくれたのは、あなただけだった。だから私は、あなたと契約する。この魂はあなたのもの。それでいい」
改めて口にすると急に恥ずかしくなった。以前会った天使の転生者は軽蔑の眼差しで私を見た。悪魔の転生者には半端者と言われた。目の前の悪魔はそのどちらとも違う。
「いつか…あなたの…本当の姿をまた見たい」
そう言うと、ジーンは頷いた。
「魔界に行けるくらいにお前が元気になったら、見せてやる。今の身体では、まだあの空気に耐えられない。まずはたくさん食え。それからだ」