社長の場合
警視庁の転生者対策本部所属の五十嵐警部はその日、民間企業のセラヴィ株式会社の社長と会っていた。時折とんでもない情報を寄越すこの社長がいったいどのような伝を使ってそれらの情報を得ているのかは長年の謎だったが、実際にそれで転生者の命が救われたことは過去に何度もあった。
目の前に座る線の細い優男のその社長の名を神木蒼士という。いつも柔和な笑みを絶やさない男だが、どこか胡散臭いし一筋縄ではいかないと五十嵐は常々思っていた。民間企業ではいち早く異世界転生対策本部を立ち上げて、その甘いマスクとの相乗効果で転生者の救世主と呼ばれ一時期メディアにも取り上げられていたが、確かに彼のオフィス内を見ると他所では敬遠されがちな札付きの転生者が多く働いているのも事実だった。札付き転生者の雇用状況は年々悪化する一方で、雇われただけでも幸いと劣悪な環境に身を任せてしまう者も多かった。
「こっちだって暇じゃないんだ。そこまで人員を割く余裕もないのに何もなかったじゃ済まされない。しかも相手は慈善活動家としても有名な伊集院家じゃないか」
伊集院俊光は札付きの転生者にも理解があり自身も数多くの養子を引き取って育てていた。転生者の養護施設にも多額の寄付をして環境を整えていると話題になっている。五十嵐の言葉に神木は笑顔のまま応接テーブルの上にタブレットを置くと複数枚の写真をスライドさせた。
「これは別件で潜入捜査中の私の部下が撮ってきたものです。果たしてこの傷を見ても彼が無実だ、と言い切れますか?」
写真を手に取り五十嵐は思わず顔をしかめた。上半身裸の少女の背中には、鞭か何かで叩かれたような傷跡が無数についている。新しいものから古いものまで様々だ。しかもその日付はつい最近のものだった。しかし五十嵐はどことなく違和感を覚える。それが何なのか掴みきれないうちに社長は言葉を続けた。
「あぁ、ちなみにこの写真に写っているのは少女ではなく少年です。彼の証言によればスカートを履かされて髪を長く伸ばして登校しているのも養父の指示だそうですよ。思春期の少年が少女の格好で男子校に通わされている。学校でも何が起こるか…頭の良い警部殿なら容易に想像がつきますよね?」
五十嵐はようやく違和感の正体に気付いてスッキリし、出されたお茶を一口飲んだ。いつでもここのお茶はとてつもなく苦い。だがお陰で頭が冴え渡るような感じがした。
「彼の証言によると養父が罪深い札付きの転生者に反省を促すのが金曜の夕方から夜にかけてだそうで、今は彼ともう一人同じく養子の弟がターゲットにされているとのことでした。年齢が上になると興味が薄れるようで、彼はいずれ自分がターゲットから外れた場合、弟が今よりも酷い目に遭うことを一番恐れていました。それに、また次の幼い養子を迎え入れる可能性もある、と。ちなみに養母は見て見ぬふりだそうです」
「それが本当なら、なんとも胸糞悪い話だな…」
五十嵐は少年の白い肩の近くに残る古い火傷の跡に目を留める。それそのものが燃える炎のような不思議な形をしている。
「彼は…ひょっとして札付きの転生者…なのか?」
転生対策本部にいると札付きの転生者の特徴が何となく分かるようになっていた。虐待の傷跡の他にも彼らには変わった形の古い傷跡があるのが常だった。
「伊集院家が引き取るのは皆揃いも揃って容姿端麗な札付きの転生者ですよ。この子のように」
最初は伸ばした髪を染めているのかと思ったが、どうやら彼は白人のようだった。金髪に青い瞳の整った顔立ちの少年の横顔が写っていた。
「お話中のところ失礼致します」
タブレットを片手に彼の秘書がやってきて社長に画面を見せると、社長は思わずといった様子でフッと笑い声を上げた。
「ようやく…。有言実行の暮林くんにはボーナスをあげなくてはね」
不意に五十嵐の耳に聞き覚えのある名前が飛び込んで来る。
「暮林…?ひょっとして俺に催涙スプレーをかけようとしたあのボーイッシュな子か?」
「フフッ…そういえば、そんなこともありましたね。あの時は彼女を救っていただいて本当に助かりましたよ。我が社の有能な社員ですからね。今、常務と潜入捜査に行っているのは彼女なんです。彼女がたまたま伊集院瑠衣と知り合ったことで今回の事件が発覚したんですよ」
「…非番の奴にも声を掛けてみるが…あまり頭数は期待するなよ?」
「彼女も今夜は合流できるとのことなので、取り逃す心配はないでしょう。私の知らないところで別の協力者も捕まえたようですし。彼女は魔界と天界の架け橋…私はそう思っているんですよ。近年稀に見る逸材です」
「は…?」
時々この社長は壮大なものの喩えを使う。理解しかねた五十嵐の表情を読んだのか社長はニコニコしながら更に意味深な台詞を口にした。
「私はメディアが報じる通りの救世主でもなければ善人でもありません。せっかくの美しい魂の色が汚されて濁ってゆくのは見たくない、ただそれだけです。反省会が始まったらそれと分かるように連絡しますから、現行犯で逮捕できるように近くで待機しておいて下さい」
社長は微笑むと五十嵐に住所の明記された資料を手渡した。
***
五十嵐が帰った後、社長は秘書を呼び寄せた。
「どうかしましたか?」
いつでも冷たい表情を崩さない宮森誠司が静かに歩み寄ってくる。
「君は…そろそろ魔界に帰りたいか?」
「今更何を仰るかと思ったら、そんなことですか?どこまでもお供しますと言ったはずですが」
「そうだねぇ。表向きは僕は君と愛の逃避行中ってことになっているからね。確かに今更君だけを返すわけにもいかないか…」
社長は新しく別のポットからお茶を注ぐと一口飲んだ。
「ちょっと隣においで。顔色が良くないよ」
社長は宮森誠司をソファーの隣に招き寄せた。肩を抱くと彼の姿は少しずつ小さくなり黒猫の姿になった。
「誰もいないときはこの方が楽でしょ。ただでさえこの世界は消費する…」
膝の上の黒猫はやや不服そうな声で鳴く。
「よしよし」
社長が喉元をくすぐると黒猫は諦めたように身を任せた。膝の上で丸まって眠る黒猫の背中を片手で撫でながら彼は魔力の混ざったお茶を飲む。
「君もこれを飲めたらいいんだけどね。こればかりは体質だから仕方ないか…」
宮森誠司は厳密には彼の使い魔だ。彼は社長が一度取り込んだ魔力でないと身体が受け付けない。市販の弱い魔力回復薬ですら拒絶反応を起こして無理だった。なので姿を現す必要のない時間帯はこうして接触して魔力を補給している。緊急を有するほどの魔力切れの場合は口付けすることもあったが、可能な限り彼の望まない手段を選ぶことはしたくなかった。彼は自分を慕ってくれてはいるが、共に身体の関係を求めている訳ではなかった。結果として消費エネルギーを最小限に留めて程よく補給が可能な黒猫の姿に落ち着いて今に至る。
「なんとなくアルシエルにはバレてる気がするんだよね。正直に話すしかないかな」
彼にしては珍しく長めの前髪の下が憂い顔になった。魔王の座を捨てた理由を打ち明けても、彼は果たして今までのように変わらず接してくれるだろうか。そのことを考えるとさすがに笑ってもいられなかった。




