再びリツの場合
(何だか…美味しそうな匂いがする)
そう思って私は目が覚めた。バスローブ姿でコーヒーを飲んでいるジーンが視界に入る。いつの間にか朝になっていた。唐突に昨日の夜の出来事が頭を過って私は思わず布団の中に潜り込んだ。急に恥ずかしくなる。そうして裸のままで寝ていたことに今更ながら気付いて手探りでバスローブを探した。だがどこにもない。背後でジーンの含み笑いが聞こえた。
「君が落としたのはこちらのバスローブか?それともこちらの…」
布団から顔を出すとジーンが右手にバスローブを左手に何故かミネラルウォーターを持って立っていた。
「ミネラルウォーターを飲むか?」
言われてみれば喉がカラカラだった。思わずミネラルウォーターを受け取ってごくごくと飲んでいた私は、先にバスローブを受け取るべきだったと気付いたがすでに遅かった。
「実にいい眺めだな」
そう言いながらもジーンは持っていたバスローブをそっと着せてくれる。
「身体の方は…大丈夫か?」
遠慮がちに聞かれたので、まともに顔が見れず私は俯いたままやっとのことで頷いた。
「だ、大丈夫…」
何だか昨日と世界までが違って見えるような気がした。大袈裟なと思われるかもしれないが、ジーンの周囲に流れる揺るぎない魔力の層が見える。安定していると思った。そうして自分の周りにもかつてないほどの魔力が満ちているのが分かった。
「何だか…急に生まれ変わったみたい…今なら空も飛べそう」
ジーンと一緒に朝食を食べる。お腹も心も満たされて、とても幸せだと思った。こんなに幸せでいいんだろうか。ジーンも同じように感じてくれているといいけれど、と思ったら見透かしたようにジーンがこちらを見て微笑んだ。
「リツ…」
ジーンが立ち上がって近付いてくる。頬に温かい指先が触れた。
「名残惜しいが、一足先に学校に行ってくるよ。医務室で待っている」
ジーンの顔が近付いてきて唇が重なった。
***
自分の魔力のみで洗面所で変身していると、ルイが現れて鏡越しにギョッとした顔をするのが見えた。
「ちょっと…リツ!?何これ…酔いそう」
仰け反ったルイを見て、私は気配を消す薬を飲んでいないことに気付く。
「ごめん!」
慌ててリビングに走り引き出しにある薬を飲む。が待ってもいつもの量ではあまり変化がなかった。
「主は三袋飲んでましたよ。今日のリツさんもそのくらい必要なんじゃないですかね」
ストラスが意味深な笑みを浮かべて近付いてきた。上から下までチェックされる。
「…うん…変身も完璧ですね。で、どうでしたか?昨日はちゃんと優しくしてもらえましたか?」
「う、うん…」
改めて訊かれると恥ずかしい。だがストラスは茶化したりもせずに、安堵したような微笑みを浮かべた。
「良かったです…安心しました。これからも主をよろしくお願いしますよ」
二袋追加で飲み終えると、ルイが恐る恐る近付いてきて、はぁと息を吐いた。
「こんなに変わるものなんだね。びっくりだよ」
「うん、すごいよね、この薬」
私が言うとルイは苦笑して首を横に振った。
「違うよ。昨日と今日のリツがまるで別人みたいな魔力を持ってるってこと。気配は消えたけど、すごい安定してる感じがする…あちこち…跡もすごいけど…」
私は再び慌てて洗面所に戻り、鏡で見ながら変身しても消えない赤い跡に入念にコンシーラーを塗って誤魔化した。
「今日は体育もあるから、早めに個室を確保しなくちゃね」
ルイの言葉に思わず脱力する。ジーンの冷え切った身体に限界を感じてとうとう一歩先の関係に自ら踏み出してしまったが、少し早まってしまったかもしれないと思った。そう、今日はまだ金曜日。しかも体育の授業がある。
「あら、リツ、何だかすごいことになってるわね。一瞬誰かと思っちゃったわ」
いつの間にかリビングに現れたエストリエも私を見てそんなことを言ってきた。
「うーん、やっぱり類は友を呼ぶってやつなのかしら?さすがは妻の器よね。一日くらいは寝込むかと思ったけど…むしろ、めちゃくちゃ元気になってるじゃない。リツってすごいのね」
「え…?そういう…ものなの?」
「ストラスの血を飲んで死にかけて、抱かれても死にかけて、魔界に行っても死にかけて…私は何回も死の淵を覗き込んだわよ。もしかして私たちって相性悪いのかしら?」
エストリエはそう言ってそばにいたストラスの顔を仰ぎ見る。
「今更だろ。もう遅い」
ストラスは苦笑する。
「どうかしら?今は近くにこんなにピチピチしてる若い子もいるのよ?」
ネクタイを締めていたルイがエストリエに絡まれて返答に窮していた。
「ちょっ…困りますっ!」
「あら、あんなにキスした仲じゃないの。今更照れなくてもいいのよ」
ルイが真っ赤になったので、本当にキスはしたんだなと私は思った。ジーンよりもストラスの方がその辺りは鷹揚に構えている印象がある。むしろ悪魔なのに四角四面にきっちりしているジーンの方が変わっているのかもしれない。
「そろそろ出発したいから離してやれよ」
車のキーをくるくる回しながらストラスが振り返ったので、私は急いでカバンを肩にかけた。




