ジーン&リツの場合 18
「迎えに来ましたよ」
首から身分証をぶら下げた運転手姿のストラスが医務室に入ってきた。が、いつもの飄々とした雰囲気ではなかった。珍しくストラスは怒っていた。
「…いくら仕事絡みだからって…これはちょっとやり過ぎじゃないですか?リツさんの身体の負担も大きい」
「分かっている…」
気まずそうにジーンが応じる。
「本当に分かってますか?リツさんのことを大事にしたいなら別の手段を選ぶべきだったと思いますよ?あなたはずっと避け続けてますけど」
「…止めて。私は大丈夫だから」
リツを抱き上げたストラスはジーンに向かって静かな口調で告げた。
「悪魔になりたての身体にはしんどいですよ…魔界に連れて行ったばかりの頃のエストリエを見てるから分かるんです。優しさの意味を履き違えないで下さい」
ストラスは大股に歩いて医務室から出てゆく。
「ルイも一緒に…」
リツが小声で言う。ストラスの身体の陰でジーンがどんな表情をしているのか分からなかった。ルイが慌ててリツの荷物も抱えて追いかけてくる。
「あんまり…ジーンを責めないで…社長が適当だから…」
リツが言うとストラスは怖い顔でリツを見下ろした。
「自力で歩けないくらい血を奪われておいて、何言ってるんですか?リツさんをこんな目に遭わせるために悪魔にしたんじゃないんですよ…」
ストラスはため息をつく。
「大丈夫…仕返しに…ジーンを…襲うから」
リツが言うとストラスは驚いたように目を丸くした。
「…本気ですか?」
「まぁ…これは…試してみた結果…採算が合わないって…体感したから…」
いつの間にか駐車場に着いていた。ストラスはそっと後部座席を倒す。
「嫌かもしれませんが、我慢して下さいよ」
ストラスはそう言って止血パッドを外して唇を近付けた。ジーンのつけた傷痕を丁寧に舐める。絡めた両手からストラスの魔力が流れ込んできた。当たり前だがジーンとは全然違う。妙にふわふわした。
「まったく…傷が残ったらどうするんですか。塞ぐ余裕もないのに、こんなことをして」
リツの首に残っていた鈍い痛みが消え去った。
「本当は口にした方が早いんですけど、さすがにそれは止めておきます」
リツの額に口付けをしながらストラスはしばらく魔力を流す。冷えた身体の痺れるような感じが楽になった。ストラスは首の後ろに枕を当てて毛布を取り出すとリツにかけた。
「家に着くまで少しこのまま休んでいて下さい。ルイは助手席に乗って」
「あ、はい」
ルイが前に乗るとストラスは話し始めた。
「明日は金曜だろう。俺がルイの代わりに伊集院家に帰って、養父母の胸糞悪い反省会に付き合ってくるから、嫌だろうが今日は家に着いたら素っ裸になってもらうぞ?傷の一つまでも丁寧に再現しておかないと、バレたら面倒だからな」
「え…っ…いや、それはさすがに…だって…何されるか…分かってます?」
「悪いな。昨日寝てる間にうなされてたから夢を覗き見してしまった。だから、だいたい分かったんだよ。そういうのは色々と汚いことも経験済みの悪魔に任せておきゃいいんだ。ルイみたいな若いのが毎週毎週経験すべきことじゃない。魂も摩耗する」
ストラスは運転しながら静かに告げる。バックミラーでチラリと後部座席を確認するとリツは眠っていた。相当消耗したのだろう。主もだが、この二人を見ていると本当に歯がゆい。
「どの世界にも嫌な奴ってのはいるもんだが、俺は子どもを食い物にする奴が一番嫌いなんだよ。札付きの転生者には本当に住みにくい世の中だよな。だから逃げちまっていいんだ。奴らの汚れ切った欲望の捌け口にその体を差し出す必要はない」
「ストラスさんって…言うことも格好いいですよね…僕の魂と契約して…本当に魔界に連れて行って貰えませんか?」
赤信号で停止して、ストラスは隣のルイの顔を見る。ルイの顔は本気だった。
「…いいよ。その代わり魔界に着いてしばらくは空気に慣れるまでしんどい思いをするだろうけどな。そのときは面倒を見てやる」
ルイの頭をストラスの大きな手が優しく撫でた。僅かな魔力が流れ込んできてルイは目を閉じる。この手は酷いことをしないと分かっているからかもしれなかった。大人の男性の前でここまで無防備になっている自分が信じられなかったが、悪魔たちの側にいる方がルイは自分が安堵できることに気付いてしまった。ここを今度こそ自分の居場所にしたい、ルイは強くそう思った。
***
歩けると言ったのに再び抱き上げられてリツはリビングに運び込まれた。到着を待っていた様子のエストリエがリツの顔色を確認し、それからストラスの顔をまじまじと見上げた。
「あなた…随分と無茶な言い掛かりをつけたわよね」
「…覗き見するなよ」
「だって…気になるじゃない。それよりもリツ、これを飲んで」
「なにこれ…ワイン?」
ショットグラスに入ったそれを口に流し込まれる。少し塩っぱいが途端に喉が熱くなった。
「飲んだ?」
「うん…」
リツは頷く。胃の中が熱い。まるで酒だ。
「私の血よ」
「ええっ?」
「ストラスのだとまだ強過ぎるから…でも私のなら回復薬程度の働きはしてくれると思うわ」
ソファーに寝かされる。確かに医務室にいたときの眠ってしまいたいくらいの怠さはマシになった。これがエストリエの血なのか、とリツはまだ熱い胃の辺りに触れる。
「私は職務を放り出して恋人と逃避行した魔王さまよりも、その後の混乱を治めてくれた我が君の方がよほどきちんとしてるって思ってるのよ…何が言いたいかって?あんな無責任な薄らトンカチの社長の言う通りに動いてやる必要なんかないのに、ってことよ」
エストリエはそう言ってリツの頭を優しく撫でた。
「…それに、弱っているリツを見たらキスしたくなっちゃうのよ…困ったわね」
「エストリエ、止めておけ」
ルイと共に隣の部屋に行こうとしていたストラスが振り返って釘を刺す。
「なによ、あなただってこれからルイの裸体を鑑賞するんでしょ?ズルいわよ」
「誤解を招く言い方をするな。仕事の一環だって言ってるだろ」
ストラスはため息をついてドアを閉める。体育の着替えの際にルイが個室を使うのは万が一誰かに見られるを避けてのことだったのかもしれないと思った。少なくとも見える部分に傷はなかったが、目立たない場所にきっとあるのだろう。リツが考えていると、やがてドアが開いてストラスとルイが出てきた。ルイはネクタイを外していた。横になっているリツの向かいのソファーに座る。スカートからいつの間にかデニムに履き替えていた。それだけで髪が長くても男の子っぽく見える。やがてストラスも出てきたが誰かと通話中だった。
「コミュニケーションアプリ…あぁ、これな。オッケー。招待しておけばいいんだろ?助かるよ。じゃ」
通話は終了し、片手でタブレットを操作しながらストラスがやってきた。ルイが不意に振動したスマホを取り出す。画面を見て不思議そうな顔をする。
「えっ?リンが勝手に追加されてる…え?じゃあこれってトウマなの?」
「お、うまくいったみたいだな。今はコンピューター経由で呪いも祝福も送信できる時代だからな…って、ま、これは魔界のデジタル庁の努力の賜物なんだけど。多少異世界と繋がってもバレない程度には細工してある。トウマもそのうち気付くハズだ。前から知ってて繋がってる奴と連絡できる方が異世界でも心強いだろ」
「本当にありがとう」
ストラスにお礼を言ったルイは不意にリツを見て言った。
「そういえばリツって全然スマホ見ないよね」
横になったままリツは曖昧な笑みを浮かべる。
「私のスマホは…会社からの支給品だから…それに…連絡を取るような友だち…いなかったし」
「あ…ホント…無神経でごめん。リツの前の生活のこと…分かってるようで全然まだ分かってなかった」
「いいよ、別に。事実なんだから」
「ほんと不憫な子よね」
エストリエが再び頭を撫でる。何だか心地が良いと思った。
「ねぇ…私…夜、起きていようと思っても…気付いたら毎回ジーンに…眠らされてるの。どうしたら…いい?」
「あら、それは厄介ね。ストラス、そういうときのアレがあるでしょ?」
「あぁ…アレな」
ストラスは別室に消える。何やらゴソゴソと引き出しを漁る音が聞こえたがすぐに戻ってきた。
「眠りの魔力を退けるコレだろ?」
見た目は単なるキャンディのようにしか見えなかったがリツに渡すとストラスは言った。
「寝室に入ったら舐めておいて下さい。多分主は魔力を流しながらリツさんに眠りを促してる。何の味も匂いもしないから使ってもバレません。こんなことをリツさんにお願いするのも何なんですが、わざやざ、しんどい手段を選ばずに早く楽になった方がいいと…そう思っているだけですから」
「うん…ありがとう」
「だから、今は先に眠っておきなさい」
エストリエは優しく告げてリツのまぶたを手で塞いだ。やがてリツの穏やかな寝息が聞こえてきた。




